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(撮影:東間 嶺)


  一駅目

 がついたときにはすでにうんこが出口まで来ている、ということが頻繁にあり、つまりそれがおれの体質なのだ。普通の人はもっと早く便意や尿意に気がついて、造作なく処理しているのだとしても。みんな、大抵のことはおれよりもうまくやるのだから。
 
 早稲田を二回受験したが、二回ともうんこを漏らした。
 
 衆人環境で脱糞したのは幼児期を除けば今のところは人生においてあの二回だけで、そのどちらもが早稲田受験の時だったのだから、きっと早稲田大学と前世などでなにかあったのかもしれない。

 一回目の受験の時、山手線の中で手製の英単語帳を一生懸命めくっていて、目白駅を過ぎたあたりで腹具合のおかしなことに気がついた。ただならぬ勢いで便が肛門めがけて走っているのが感じられた。間に合わない事は明確だった。ああ、だめだ。おれは口を半開きに開いて声のない声でそう言った。電車はいつまでたっても駅に着かなかった。そうして車内で脱糞した。

 ばかげたことに、二年目もほとんど同じ区間で便意を催した。このような偶然はあってよいものではない。ともかくそのときは、何とか駅までは堪えることができたのだった。肛門を締めつつたどり着いた便所を前にしてほとんど勝利を確信したが、大便用の扉は全て閉じられていたのだった。

 後悔、自己弁護、諭し、閃き(小便器でした場合何が起きるか。女子トイレに入るのはどうかなど)、残された希望(二番目の扉が今にも開く気がする)など様々な思いが去来する最中、軟便は肛門を緩やかに滑り出していった。

 またやったのか。温かで柔らかな流体が「またやったんだよ」と言いながら尻とトランクスの間に溜まっていき、それからその隙間から溢れ出し、腿の裏に粘度高くへばりつきながら下へ下へとゆっくりと、生き物のようして、太ももを愛撫しながら移動していった。

 こんなことがあまり頻繁に生じると、気が狂ってしまうに違いない。パニックから抜け出ようと、死にかかっている理性にすがりついた。理性はおれに、「油断大敵」と告げた。だから今後この言葉を信条として生きていくことが、この失敗を犯した自分の責務なのかもしれない。油断はダメだ。油を断ると書いて油断、あれ、油断の「ゆ」って本当に油だったっけ。それ以外に考えられない気がするから多分そうなのだろう。でもなんで気を抜く事を油を断るなんて言うんだろう。それとも、「油を断つ」か? どちらにしても意味につながりそうもないけれど。

 蒸した空気のなかに整髪料のにおいがする。隣の中年の男のものだろうか。息苦しい。電車の中は人の呼気で満ちている。体のバランスを取るときに足の筋肉の力の入れ具合を変化させるから、ただ立っているだけとはいえ、それなりに疲れてくるものだ。精神も、様々な知覚や記憶の断片などが浮上しては消えていき、ときに恥などの感情を刺激したり考えこませたりしているから、疲労はしらないうちに貯まってくる、…というのはただの考え過ぎなのだろうか。疲れていると思わなければ、疲れている事にならないのか。

(続く)