(↑すごいピカチュウみたい)。


・『弱いつながり』は素晴らしい本

 誤解を回避するために、最初にベタ褒めしておこう。東浩紀の新刊『弱いつながり――検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014・7)は素晴らしい本である。今年下半期の人文系書籍のなかで最大の一作であろうことは間違いない。いや、今年の人文知におけるひとつの事件だとさえいえる。東浩紀というと、博論=主著『存在論的、郵便的』の硬く難しい文章によって、小難しい人だと思っている読者などもいるかもしれないが、本書のリーダビリティはその凝り固まったイメージを一新させるだろう。そして、何より、単に読みやすいだけでなく、『弱いつながり』は著者自身が長年積み上げてきた理論(デリダ研究)と実践(株式会社ゲンロンでの様々な企画)をビギナーでもわかりやすい形で提示する、東浩紀哲学の格好の入門書といえる。

 本書を読んだ者は、この一冊に出会えたこと、そして、この世界に東浩紀というユニークな男が生まれ落ち、彼の同時代に自分が生きていることに感謝することになる。嘘ではない、これは真実である。


・「宿命論」を突破するために

 さて、批判に移ろう。 批判のポイントはこの本がもっている偶然論と要約できるような一連のメッセージにある。

 この本は、インターネットが準備した情報環境の充実を話の出発点にしている。その典型例が高性能にカスタマイズされた検索能力である。全ての単語を打ち込まないうちに候補が提示されるGoogleの予測検索はもちろん、Amazonでは過去の履歴情報を元にユーザーの嗜好(欲望)に合った新たな商品をユーザーに先んじて日々リコメンドしてくる。インターネットでは全てが必然的に計画されているかのように、使用者の自己を既知のものとして拘束していく。社会学者の鈴木謙介はこのような〈定められた自己-定められた情報〉の循環構造を「宿命論」と命名していた(『ウェブ社会の思想』、NHK出版、2007・5)。

 こうした必然性に拘束された環境-自己の対に変動を与えるために、つまりは新しい「検索ワード」を見つけるために、この本がしているアドバイスは極めてシンプルだ。つまり、リアルの旅に出て、環境を変えよ、ということに尽きる。環境が変われば検索ワードが変わり、検索ワードが変われば自己が変わる。旅、とりわけ一般の人々でも親しみやすい「観光」を通じて、環境を変え、そこで生じる「偶然性」に身を開くことこそ「宿命論」に対抗する手段だというのが本書の基本的な主張である。

 ここまでは何の疑問もない。全くもって同意であり、私自身は旅が嫌いだが、そのような助言で多くの人々の「天窓を開け放つて、 爽な空気を入れ」る(芥川龍之介)だろうことに異存はない。


・子供とは偶然の産物

 しかし、東浩紀は偶然性の価値を訴えようとするがために、自身の子育て体験を引用している。曰く、「人生は偶然でできています。それを象徴するのが子どもです」(p.139)。


「彼女が「この娘」であることは偶然でしかありません。彼女はぼくが三四歳のときに生まれました、二〇代に作っていたら、それは当然別の子どもだったはずです。いや、それどころか、子どもは基本的に精子と卵子の偶然の組み合わせでしかないので、もしいまタイムマシンで時間を遡り、同じ日のまったく同じ時間に同じ妻と同じ行為を繰り返すことができたとしても、生まれてくる子どもは遺伝子的に別人になってしまう可能性が高いのです」(p.140)
 

 子供とは純粋に偶然の産物である。東はこのテーゼを強調する。それ故、「偶然でやってきたたったひとりの「この娘」を愛すること。その「弱さ」こそが強い絆よりも強いものなのだ」(p.141)ということになる。

 ここにこそ、私の疑問がある。その要点を端的に述べてみれば、偶然を受け入れるといっても、人にはそれぞれ〈受け入れられる偶然〉と〈受け入れられない偶然〉があり、偶然論者はその区別を問わず、前提的に温存した上で〈受け入れられる偶然〉を愛せと述べているのではないか。そして、もしそうならば、(それは事前に想定可能な偶然なのだから)ことさら偶然と叫ぶ必要がないのではないか、ということだ。

 Twitterで呟いたので引用してみよう。






・愛せる偶然と愛せない偶然

 このtweetに対して、著者である東浩紀本人は次のような反応をしている。とりわけ、最初のtweetに対する反応だ。






 極めて興味深い応答だが、少しばかり誤解を正しておこう。「おまえは子どもが障害者でも愛したのか、おれは無理だ、という問いかけ」の部分に二点ある。第一に私は「おまえは子どもが障害者でも愛したのか、おれは無理だ、という問いかけ」はしてない。私が問いたかったのは、例えば子供が障害者だと分かって愛することに自信を喪失した親たちに対して偶然を愛せと言うかどうか言えるかどうか)、ということだ。東自身がもっている娘への態度を問うてはいない。

 おそらく「いう」を漢字変換しなかったため、或いは障害というセンシティブな話題を採用したために誤解が生じたのだろうが、私は東に対してタラとかレバを用いて娘への愛を問いただそうとは思わない。障害者問題をことさらに焦点化したかったわけでもない。障害者だろうが何だろうが、人は愛するときは愛するものだ。しかし、逆にいえば愛さないときには(それがどんなに社会的・法的・倫理的に愛すべき対象であれ)人はなにも愛さない。もちろん、法的な責任を強制することはできる。しかし、それは愛を強制することだろうか。私は違うと思う。

 国旗を掲げ、国歌を歌わせることができても、愛国心を強制することはできない。或いは、殆ど難しい。それと同じく、子供であれ何であれ人の愛を強制することはできない。障害者がセンシティブなら、児童虐待やネグレクトの問題に代えてもいい。人間は愛せる偶然と愛せない偶然を分節しながら生きている。そして、その〈愛せない偶然〉に〈障害を抱えていた子供〉を、〈請負いきれない問題を抱えているようにみえる子供〉を割り振ってしまう親主体のことを考えることは倫理に反しているのか。その主体がたとえ反倫理と判断されるとしても、その主体のことを考えること自体は倫理云々の問題ではないと私は思う。

 そしてなにより、私はその〈弱さ〉から出発しなければ何も始まらないだろうと思っている。偶然を誰かの故意に帰さなければやりきれない陰謀論者、偶然を前世の業によって説明しなければ納得しない宗教者、偶然を国家の連続性に回収しようとするナショナリスト。偶然の不条理性を受け止めきれず、意味や理屈を捏造し、物語を上書きして偶然を回避し、誰かや何かのせいにする涙ぐましい種々の営み。みな下らないといえば下らない。しかし、それに頼らなければ生きていけないくらい人間は弱々しい。そのことをどう考えるのか。最終的に肯定するにしても否定するにしても、この事実を直視しない限り、その〈弱さ〉を克服することはできないだろうと私は思う。

 もちろん、だからといって、私に明快な答えの準備があるわけではない。単に、何もいえない、無力を感じるだけだ。それ故、誤解の第二点は「おれは無理だ」という点に求められる。これは曲解であり、私はそんなことは述べていない。私が言いたいのは、偶然を受け止められない人々に対して私は何も言えず、たとえ「おまえは子どもが障害者でも愛したのか」という問いが私自身に差し向けられたとしても、戸惑いと躊躇を感じるだけで、無理とも無理でないとも言えないだろう、ということだ。そして、そのような煮え切らない人間から見ると、『弱いつながり』の偶然礼賛的メッセージは、それこそ様々な「ノイズ」(p.11)を切り捨てた上で成り立つ、既に整形された「偶然」を取り扱っているようにみえるのだ。


・フィルタリングされた偶然

 つまり、ここから翻って示唆されることは、私を含めた多くの偶然論者が偶然を礼賛するとき、そこで俎上に載せられている「偶然」なるものは、既にフィルタリングされた偶然、多くの人々がそれなりに受け止められることを前提にした偶然でしかないのではないか、許し得る偶然でしかないのではないか、ということだ(ちなみに、これは私の中河与一論「懐疑・無意識・伝染」で書いたことだ)。

 そのこと自体、特に悪いことではない。受け入れられる程度の偶然、ちょっとしたアドベンチャー、セーフティバーのついたアトラクション、ちょっとしたハラハラドキドキを経験して日常に還っていく、結構なことではないか。

 しかし、その程度の偶然であるならば、わざわざ「統計的な最適とか考えないで偶然に身を曝せ」(p.141)などと仰々しく述べる必要もないのではないか、と素朴に思う。その程度の偶然ならば、誰もがその日常のなかで「偶然に身を曝」して既に生きている。パソコンにコーヒーをこぼして危うく全データ消去の危機に見舞われる偶然、部長の機嫌次第で仕事の内容が変わる偶然、道端でウンコを踏んづける偶然。東はネット書店とリアル書店の差異を例にすることによって偶然の感度に関する二種の生き方を説明している。


「最適なパッケージングを吟味したうえで選ぶ人生、それはネット書店のリコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為です。外れはないかもしれませんが、出会いもありません。リアル書店でなんとなく目についたから買う、そういう偶然性に身を曝したほうがよほど読書経験は豊かになります」(p.141)
 

 直感的には同意する。しかし、その同意は、自分の複数の経験を思い出して均して出した、つまり「統計的」な同意である。ある人が、「リコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為」を通じて、しかし全く新たな一回性の出会いを果たす可能性は誰にも否定できない。どうせ許容できる偶然しか取り扱わないのだから、ネットとリアルの分割をことさらに強調する必要もないのではないか。「統計的な最適」を考えてもどうせ偶然にぶち当たるのだから、ネットに引きこもろうがリアルで旅しようが、結局どちらでも構わないのではないか。いずれにせよ、諸個体で異なるだろう体験(感動の質)を第三者が勝手に判断することには懐疑的だ。ネットだろうがリアルだろうが、感動すればなんでもいい。


・偶然を愛することと偶然生まれた子供を愛すること

 もうひとつ、東浩紀は興味深い問題提起を行っているようにみえる。東は「ぼくたちは人生全体でみなさまざまな障害を抱えているのであって、そんな障害を与えた偶然自体もひっくるめて「愛する」ということでしか人生は肯定できないのではないか」と述べる。実に感動的であり、東浩紀という男の覚悟が伺えるtweetだ。

 しかし、ここで少し立ち止まってみたいのだが、東は〈障害をもった子供〉と〈そのような障害を与えた偶然〉とを分割せずに、共に愛すべき対象として語っているようにみえる。だが、これは一般的なことなのだろうか。偶然の産物を愛することができても、その偶然そのもの(偶然と感じられる出来事そのもの)を愛することはできない、そのようなジレンマを人はしばしば抱えてしまうのではないか。

 例えば、国木田独歩には『運命論者』という短篇小説がある。自分の愛した女性が実は自分の妹だったという悲劇的な「偶然」を通じて、「運命」の存在を信じるようになり、自暴自棄になって毎日酒を呷って生きている男の話だ。彼は当然、自分の妻=妹を愛している。しかし、その出会いを与えた「偶然」=「運命」を愛することができない。このギャップにこそ、物語の悲劇性がある。そのような愛は真実の愛ではないのだ、といえばその通りかもしれない。けれども、ここまで仰々しい設定ではなくとも、私達はしばしばこのギャップに身を引き裂かれ、思い悩んでいるのではないか。

 断っておくが、東浩紀の人生肯定は全く正しいし、ニーチェや九鬼周造にも通じるようなポジティヴな「運命愛」を切り開くものがあると思う。しかし、愛するしかない、というよりも原理的には認める他ない様々な偶然を眼の前にしたとき、人は実際には、戸惑い、怯んでしまう。「運命の鬼が最も巧に使う道具の一は『惑』ですよ」(『運命論者』)。そして、「運命」がボクを操っているのだ、と勝手な物語に自分自身を落とし込む。これが何の生産性もない馬鹿馬鹿しい考え方だということには同意する。けれども、繰り返しになるが、そういう逃げ道なしで生きていけるほど、人間は強くないと私は思う。東の人生肯定は彼の強い覚悟を示しつつ、それ故にこそ、私にとって残酷に響くのだ。


・ネット時代における「期待の地平」

 そもそも、偶然そのものなるものはこの世界に存在しない。偶然とはある限定されたパースペクティヴの下で初めて現れてくるものだ。主体が変われば何が偶然であるのかも変わる。ある人にとってリーマン・ショックが偶然事だったとしても、別の人にとってはそうではない。突然降ってきたように感じる雨は、天気予報士にとっては突然ではない。言い換えれば、何が偶然であるのかは主体が属す「期待の地平」(ヤウス)が決定している。

 おそらく、今後問われるべきは、偶然との出会い方というよりも、この世界には実際には偶然が満ち満ちているにも関わらず偶然とは感じられない〈偶然に対する不感症〉、別言すれば、ネット時代に私達の感受性を方向づける新しい「期待の地平」の構成条件を問うことにあるのではないか。偶然が感度(敏感-鈍感)のなかで成立するとして、その感度を条件づける場とはどのように構成されているのか。東浩紀にそういう興味があるかどうかは分からないが、私は彼のそんな本を読んでみたいと、勝手に「期待」している。

 最後に。以上のような感想は、(とりわけ東浩紀本人にとって)ストーキング、ネットでいう所の「粘着」行為と思われるかもしれない。しかし私自身の意識としては、そうではない。というのも、私の最近の研究テーマは「偶然性の近代文学」であり、中河与一の偶然文学論を中心とした近代文学の隠れた一面を考察したいと願っている在野研究者にとって、『弱いつながり』のような本は、批判的ではあれ、個人的関心に多くの刺激を与えてくれたからだ。この本を読むことで、私はどんな考え方を批判し吟味するべきなのかが明確になったように感じられた。偶然性のフィルタリングの問題を含めて、今度は私自身が『近代・偶然・文学』(仮)を書かなければならないだろう。勝手なことだが、そのような大きな宿題を頂戴したように思われる。繰り返すが、『弱いつながり』は今年の人文書のなかのひとつの事件だといって間違いない。老若男女問わず、強く推す。