・荒井裕樹の仕事

 荒井裕樹の、精神病患者たちのアート作品を論じた一書、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』は、2013年9月に亜紀書房から刊行された。荒井によれば、これにより「障害者の自己表現」の「三部作」(身体障害、ハンセン病、精神障害)が完成したことになる。

 私が、荒井に興味をもったのは、この三部作の第二作=荒井裕樹博論の一部『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス、2011・11)を読んだからだ。この本の素晴らしさを簡単に伝えることは難しいが、隔離・撲滅が計画されていたハンセン病に対して、荒井はその病者当事者の文学作品から、そのアイデンティティの有り様を正確に分析していく。とりわけ、病者が「断種」を(強制ではなく)自発的に志願していく心的機制、より的確にいえば心からの志願を強制する権力のあり方についての考察は、他の様々な隣接領域とも無関係でない極めて興味深い研究成果といえる。

 ところで、荒井はその本の初めで、「制度としての文学」と「自己表現としての文学」という大きな文学カテゴリー区分を問題提起している。
 


「ここで「自己表現としての文学」と呼ぶ際に念頭に置いているのは、社会から隔離され、疎外され、抑圧されていた人々が綴ってきた文学のことである。具体的には、厳格に閉ざされていたかつてのハンセン病療養所の中で、粗末な原稿用紙に綴られた一編の詩や、消毒を受けなければ外部に持ち出すこともで差かった機関誌に掲載された小説、乏しい療養手当をつぎ込んで刷られたガリ版の同人誌のことなどを指している」(『隔離の文学』p.16)
 


 「自己表現としての文学」は制度の外に追いやられやすい。ここでいう「制度」とは、具体的にいえば、出版に伴う公の流通網や、賞や文壇に代表される格付け的な評価システムのことを指すと考えていい。三部作の第一作『障害と文学』(現代書館、2011・2)では、『しののめ』のような同人誌を手がかりに「同時代の障害者自身の文学表現から読み解いていくという作業」(p.8)を行っていたわけだが、その対象が『隔離の文学』ではハンセン病者になっているわけである。

 こう考えてみたときに、荒井の仕事は、(漱石や太宰といった誰もが思い浮かべるような)大文字の「文学」の周縁から、その「文学」を支える制度そのものを問い直す仕事であると要約していいだろう。そして、当然のことながら、その仕事は『生きていく絵』にも明確に引き継がれている。つまり、精神病院内に設けられた自由なアートスペース〈造形教室〉に通う精神障害者たちの(そのほとんどは陽の目に当たらない)アート作品を考察の対象とすることで、即ち、芸術市場(マーケット)やアウトサイダーアートのような専門的評価視点の外で営まれる芸術行為を取り上げることで、大文字の「芸術」が見過しがちな、小さな効果や作用について考察することが期待できるのだ。

 そして『生きていく絵』はその期待に応えてくれる現代アート論の名作ということができる。それが第一に抱いた率直な私の感想だ。


・アイデンティティの補完性

 では、特に衆目を集めることのない芸術行為の作用とは一体なんなのか。ひとつに絞ることもないだろうが、『生きていく絵』はとりわけて、アイデンティティの問題を、具体的にいえば社会で暮らす各人のアイデンティティが常に外界との具体的関係性のなかで簡単に変容していくという問題に対する応えを用意しているように思う。例えば、荒井が指摘するところによると、多くの精神障害者は、病そのものが苦痛であることもさることながら、自分自身が「病者である」というアイデンティティを内面化することでコンプレックスをより複雑なものにさせているという。



「多くの人は大変な葛藤を抱えつつ、処方薬を抵抗と共に飲み下したり、通院や入院をはじめとした数々の通過儀礼を経たりして、ときにはつらい思いみじめな経験を沈殿させながら、「精神病者」としての自己同一性を形成して行きます。そして一度形成されてしまった自己同一性は、容易に解除することはできません」(p.66-67)
 


 病そのものは勿論重大な苦痛だ。しかしそれと共に、病者を苦しめるのが、「私は病者である」という自認(自己意識)であり、更に進めば「私は社会的不適合者である」という意識である。そして、重要なことは、その意識というのは各人がコントロールして独立的に存在しているのではなく、具体的な外界との関係を通じて、例えば毎日薬を飲まねばならない強制された習慣や、病院に通うというイニシエーションを踏むことで、次第に内面化が激しくなっていくということだ。アイデンティティは各人の自己が勝手に設定できるものではない。他人の偏見や制度の偏向に応じて、アイデンティティはフレキシブルに変形する。

 第一に想起されるのは、反精神医学を提唱していたR・D・レインのアイデンティティ論である。レインは精神病患者と精神科医との二者に限定された密室的関係性について批判的だった。というのも、その閉鎖性はアイデンティティを一方的に暴力的な仕方で規定してしまうからだ。



「精神科医と患者との間に生じる交互作用に特徴的なことは、もし患者の役割が患者の脈略を離れて外側から見られるとしたら、それはたいへん奇妙に見えるだろうということです。このことは臨床記述の際に行われているところです。これに対し、精神科医の役割の方は正常性についてわれわれがもつ常識的見地からしてまったく標準的なものと見なされるのです。事実上正気な人間としての精神科医が、患者は自分と接触〔コンタクト〕を保てないということを示すのです。彼が患者とのコンタクトを保てないという事実が、なんらかの欠点があるのは患者であって精神科医ではないということを示すことになるのです」(レイン『経験の政治学』、笠原嘉+塚本嘉寿訳、みすず書房、1973、p.114)
 


 医者と患者の関係性は非対称的だ。医者は正常性(ノーマルであること)と異常性(アブノーマルであること)を分割できる力をいつももち、しかも、自分自身は常に正常の側にカテゴライズされる。他方で、患者の方は、常に受動的で、医者の指示がなければ正常性を獲得できない。「なんらかの欠点があるのは患者であって精神科医ではない」のだ。

 レインは別のところで、このような、関係性のなかで相互に補い合う自己同一性のことを、「補完的アイデンティティ」と命名している(『自己と他者』)。これは別に特別なことではない。人は妻なしに夫になれず、夫なしに妻になれない。「私は妻である」というアイデンティティと「私は夫である」というアイデンティティは相互に補完し合っている。このように、アイデンティティは他律的な、或いは環境依存的な性格をもつ。『生きていく絵』に登場する患者たちのアイデンティティは、その環境に従って歪形の変化を遂げている。


・アイデンティティの再設定

 そのとき、1970年代に安彦講平によって作られた院内のアート空間〈造形教室〉は、どんな意味をもつのか。荒井の言葉を使えば、それはアイデンティティの「緩衝地」として機能することになる。



「〈造形教室〉は、病院内にあるという点において、「患者」として振舞うこともできますし、医療者のいない空白地であるという点において、一人の「表現者」として振る舞うこともできます。そこには安彦〔講平〕さんという医療者ではない「先生」がおり、同じ悩みを相談し合える患者仲間は、次の瞬間には描画方法を切磋し合えるライバルにもなります。/つまり、この場は参加する人の振る舞いに応じて、かなり自由に伸縮する自己同一性の緩衝地としての役割を果しているのです」(p.67)
 


 アイデンティティが他律的であることは既に確認した。別の言い方をすれば、ある限られた対人関係ではアイデンティティが単一的に固定化していく。そして、病者にとってそれはしばしば心的負担として病の苦しみにプラスされて経験されてしまう。そのとき、〈造形教室〉という場は、複数の様々な来歴の人々が行き交うインターコースな空間を設計することで、様々な他者や環境との接触(コンタクト)の機会を提供し、閉鎖的に作られたアイデンティティに他なる選択肢を設けさせる開放性を与えるということができる。これをきっかけにして、アイデンティティの再設定が期待できるのではないか。

 病そのものというより、「病者である」という自意識が問題であるとすれば、それは病そのものを対象とする医者の役割からはみ出た課題なのかもしれない。それ故、荒井は医者が行う「治し」という行為とは別に、(とりわけ「自己表現」的な芸術行為に伴う)〈癒し〉の価値を認めている。



「〈癒す〉とは、何らかの受苦・受難に巻きこまれた人が、自らの混沌とした内面と向き合い、自己表現を通じて外部に放出することで、直面している困難を耐え忍び、生きる支えと拠り所を見出していく能動的な営みのことを意味してます」(p.64)
 


 〈癒し〉は治療ではカヴァーできない部分をサポートする。もちろん、投薬や専門的アドヴァイスは大事だ。しかし、それだけでは足らない。この不足部分を補うことが〈癒し〉であり、「自己表現」の最も重要な効果だといえる。

 例えば、この点において『生きていく絵』の(状況限定的ではない、つまり、それって特殊な病院の話でしょ?に限定されない)大きな価値を認めることができる。例えば、インターネットが発達した今日の社会は、しばしば「総表現時代」(梅田望夫)と呼ばれる。ネットさえあれば、誰もがクリエーターになることができ、カネをほとんど使わずとも、自作のコンテンツをアップロードすることができる。しかし、そこでのクリエイト行為は従来の芸術制度内で行われてきた金銭のやりとりや承認欲求の充足といった〈おまけ〉を受容できるわけではない。カネも手に入らず、フェイスブックの「いいね!」も一つもつかず、受容者がいないでばらまかれた無数のコンテンツの存在を私達は知っている。しかし、では、カネにもならず承認ももらえないアートというものは存在意義がないのだろうか? 『生きていく絵』の〈癒し〉論は、芸術そのものに宿りうるセラピー性を強調することで、生き延びることとセットになった芸術の効力を考えることで、その問いに否と答えている。
  

・実月さんのケース

 脱線した。本に戻ろう。本のなかでとりわけ印象的だったのが、複雑な家庭環境故に統合失調症、自殺念慮、摂食障害を患った実月(みづき)さんの変化である。



「実月さんは、大人たちに必要とされた聞き役だったのでしょう。そのような悩みを聞かされる一方で、母親からは、ことある毎に「子供は気楽でいい」と言われ続けたようです。実月さんによれば、「母には、親が子供に大人の苦しみを教えるのが教育だという信念があった」ので、実月さんは「親の悩みを聞くこと」「親の期待に応え、その苦しみを取り除くこと」に努めてきたのだといいます」(p.148-149)
 


 母と娘の極めて密接な関係性が、彼女を苦しめる。しかし、〈造形教室〉に通ううちに状況は変化していく。アート作品を造り、展覧会で発表するプロセスのなかで、母と娘に変化が訪れるのだ。



「実月さんは、ときおり、「母が変わってくれた」ことを幸せそうに話してくれますが、おそらく実月さん自身も変わったのだと思います。閉塞的な家庭環境のなかを生きてきた母と娘は、共に「変わり合う」ことによって、新たな形で支え合うようになったのだと言えるでしょう。/普通、「人を支える」という場合、「支える側」が揺るぎなく安定していることが前提となっています。しかし、実月さん母娘のように、互いが「変わり合う」ことではじめて支え合える関係性というものもあると思います」(p.156-157)
 


 〈支え合い〉と〈変わり合い〉が対立することなく組み合うことで、相互をよりよい方向に導いていくことができる。〈支え〉はときとして他者のアイデンティティに対して強制的・暴力的に働く。アイデンティティは補完的なもので、善かれと思ってしたことでも、他者の自己同一性を誘導し、相互の苦痛をより複雑なものにする危険性があるからだ。これに対して、〈変わり〉の契機を与えることで、〈支え〉そのものも変化さすことができる。

 思えば、社会学者のアーヴィング・ゴフマンは『スティグマの社会学』(石黒毅訳、せりか書房、2001・4)のなかで「常人とか、スティグマのある者とは生ける人間全体〔persons〕ではない。むしろ視角〔perspective〕である」(p.231)と述べていた。スティグマとは、マイナスの烙印を指す(肌の色が黒いとか、顔に大きな傷があるとか、生活保護をもらっているとか)。しかし、スティグマはそのものとして実体的に存在しているわけではなく、ある視点・視野・遠近法の下で初めて現れてくるものだ。パーソンズではなくパースぺクティヴだ。逆にいえば、その視点を変えてやれば、スティグマ・コード(何がスティグマで何がスティグマでないか)を書き換えることができる。実月さん母娘は、芸術行為を通じてその書き換えに成功し、関係性の新たな地平を切り開いたのだといえるだろう。


・表現とテクスト

 最後に、自分の専門に引きつけて『生きていく絵』を読んで考えたことを書いてみたい。展覧会に参加していた荒井は、次のような出展者と出会い、表現の脱作者性を考えている。



「ある出展者が、額装された自分の絵を見て驚いていました。「自分はもっと暗くて陰鬱で救いようのない絵を描いたつもりだったのに、実際に額装された絵を見たら、思っていたよりやわらかだった。もしかしたら、自分は捨てたものじゃないのかもしれない」とおっしゃっていました。/「表現」というのは、「表現者」の意図を超えた力を持つことがあります。最近よく思うのですが、「アーティスト」というのは「自分の思いを正確に表現できる技術を持った人」のことではなく、むしろ「自分の表現に自分自身が驚くことができる感受性を持った人」のことなのかもしれません」(p.42)
 


 興味深いことに、「自己表現」であるにも関わらず、表現は作者の自己を超えて驚きを与えるものとして存在しうる。「自己表現」とは、自己の写しという点で自己連続的であると同時に、他方で、自己切断的な営みでもあるのではないか。

 このような考え方は、容易に「作者の死」(バルト)的なテクスト論の主張との親和性を感じることができる。いや、それだけではない。「もしかしたら、自分は捨てたものじゃないのかもしれない」という言葉に示されている通り、表現=テクストは作者から切断される以上に、作者そのものを創造するプロセスに参加する。切断されたテクストによって、作者の新たな一面が掘り起こされていくのだ。

 おそらく、「表現」と「表現者」は、テクストと作者がそうであるように、相互に互いを創発させる生成プロセスの渦中にある仮定的な二項なのだ。過程的仮定。アメリカの哲学者であるジェイムズは、プラグマティズム(道具主義、実践主義)の思想を説明するさい、その大きな特徴として真理の過程性を謳っていた。「真理の真理性は、事実において、ひとつの出来事、ひとつの過程たるにある」(ジェイムズ『プラグマティズム』、桝田啓三郎訳、岩波文庫、1957、p.147)。プラグマティックなテクスト論なるものがもしあるとすれば、導き出された作家像もテクストの解釈も常に暫定的なもの、生成過程の途上にあるものに留まる、と教えるだろう。それ故、それは読みの可謬主義(読み間違えたっていいじゃないか)、つまり読みのトライ&エラーを積極的に認めなければならない。しかし、暫定であれ何であれ、効果がないというわけではない。もしそこから生じたテクスト=表現が何らかの意味や効果を帯びるのならば、例えば「もう少し生きてみようという気持ちが湧いた」り(p.270)、少し気分がよくなったり、自己嫌悪から一時脱出できたりするのならば、それはそれで良いのではないか。プラグマティックなテクスト論なるものがあるとすれば、きっとそんなことを主張するだろう。

 『生きていく絵』のアート論は、このような、生き延びるためのテクスト論を、体験に即した読む〈こと〉の理論を、プラグマティック・テクスト論を予告している。そして、それは私自身の宿題でもある。いずれにせよ、示唆に富むにも関わらずリーダブルな文体で書かれた本書は、老若男女問わず、芸術の岸辺に立つ万人にオススメできる傑作である。


※『生きていく絵』は、2014年7月26日、新宿文藝シンジケートの読書会で取り上げた本である。この書評は、そのときのレジュメを文章化したものだ。一応、下記にそのレジュメを画像の形で添付しておく。
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