承前

 気が付けば、前回の連載・ハルカトミユキを更新してから一ヶ月以上が経過している。
 
 四月中旬から二ヶ月近くそれこそ怒濤の勢いで更新してきたので、この一ヶ月に渡る私の沈黙、更新の滞りに対して人は様々なことを思うに違いない。


 例えば、主題の行き詰まり。
 例えば、対象に対する関心の急激な低下。
 例えば、書くことそれ自体の困難。
 例えば、書き手の単なる身体的な疲労。
 例えば、沈黙によって何かを語ること。

 私自身のこの一ヶ月の感覚を述べておくならば、もちろん、書くことそれ自体の困難がまったく生じていないと言えば真っ赤な嘘になってしまうが、あくまでおおざっぱに言うならば、衝動的に書く必要性が薄れた結果としての、穏やかな幸福のようなものが多くを占めていた。


 私の外見からくる形容詞は、そこに私の静寂を見いだしている「中性」的なるものを乱す。私は、形容され、述語化されることで疲労困懲する。形容されないときに、私は休息する。(……)主観的にいって、主体としての私は、自分自身をかつて形容詞の対象と感じたことはない。私の中に「中性」的なるものの希求を基礎づけているのは、この種の形容詞的な無感覚にほかならない。(バルト「N」、101頁)

 蓮實重彥「バルトとフィクション」『表象の奈落ーーフィクションと思考の動体視力』354頁。)

 

 上記の文章は引用の引用、つまり孫引きだが、とにかくここでは私の文章ではないということをわかってもらえればいい。

 形容されることへの疲労。

 もちろん、私自身はそんな疲労とはまったくの無縁である。なぜなら、このような疲労を感じることの出来る主体は自ずと限られているからだ。私が感じるのは、むしろ形容すること、述語化することへの疲労である。あるいは、多くの人々が彼女たちに向ける様々な言葉を目にすることそれ自体への疲労である。

 彼女たち、そう、ハルカトミユキもまた形容され、述語化される主体に他ならない。

 ハルカトミユキと出会って以来のこの半年間は、私にとってこれまでの人生で最も音楽を巡る様々な言葉に触れた期間だった。そして、残念ながらと言うべきか、単なる呟きから誌上でのインタビューまで含めたそれらの言葉は、私を疲労させた。

 例えば、過度の興奮を伝え、「お前も欲望せよ!」と迫ってくる言葉。
 例えば、形容詞や感覚的な言葉(凄い、最高、すばらしい!)が多用されどこまで身体的な実感を伴って発せられたかが全くわからないレポートやレビュー。

 もちろん、これらの言葉から私だけが無縁なわけはないし、というか、場合によってはお前こそ一番の具体例だと言われてもおかしくないが、それでも随分と消耗させられてしまったことは否定しようのない事実である。

 今になって思うのは、私があれほどまでの勢いで書き続けた理由は、自分が読みたいものを自分に読ませるためだけだったのではないか、ということである。そして、二ヶ月近く必死に書いたり、過去の文章を再構成するうちに、少しずつではあるが、そうした消耗や疲労は軽くなってきたように思う。

 誰かに似ているとか、彼女たちは然々だとか、キャッチフレーズだとかでハルカトミユキという固有名を疲労させるのではなくて、ハルカトミユキという固有名が穏やかに活動する、そんなことを望む今日この頃である。

 ではまた。

 杏ゝ颯太