凡例1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(40-42p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
B、期待と予測の状態でのイメージ
振る舞いの集合に対する、予測と知覚と行動の有機的条件の既存の言及は、公準化されてきた未来が想起の形になった経験の反響や現在時に与えられたものと同じくらいの重要性をもつということを示している。予測の投影的論理のこの同じ性格は、主体の予測と期待attenteの状態の力学のなかに、心的なものと名づけれる水準で現れる。水準の性格をはっきりさすためには、《心的psychique》という用語は繊細に扱わねばならない。これはもしかしたら第一次的primaireと対比させて《第二次的secondaire》と言う方がいいかもしれない。〔心的とは第二次的の謂だ。〕混乱を避けるために、心的水準は、その有機体を完全に状況に拘束させはしないが、神経系と感覚器官に特に頼ることになる、有機体の働きと対応していることを認めよう。このように、アクティヴィティーの心的水準は生物学的なモードに従って既に踏破され組織化された環境、即ち領土territoireを参照している。心的なカテゴリーとアクティヴィティーは第一次的アクティヴィティーの集合と対立しているわけではない。心的なものが到来した後に、自らを発揮するため、前提として環境が第一次的カテゴリー(防御、攻撃、餌食、捕食…)に従って既に整理分類され階層化されている。未知の状況においては、主体は最初に第一次的水準のアクティヴィティーに導かれる。続いて、環境が領土になると、既に組織化されたこの世界が第二次的、つまりは心的なモードに従って取り扱われる。これは主体が状況から対象へ移行したということを意味する。最後に、対象を関係の枠組みや支持体として、つまりは日常的行動の知覚-運動的カテゴリーに従って、第二次的水準と既に同一視されているだろうことが前提になっているものとして獲得されたとき、論理的(ないしは形式的)モードが現れる。
1、強迫的な恐怖症と誇張――期待状態の増幅的性格
用語の固有の意味で、或る対象、或る行為、或る状況への病的な恐れを恐怖症phobieと名づけることができる(広場恐怖症、密室恐怖症)。しかしながら、この現象はありふれた心的現象psychismeのなかにも軽減された仕方で存在している。逃走、不快、拒絶や回避の運動に関する行動の遺伝的調整は、個体発生中に、個体的経験の或る条件を用いたり、文化的モード性を用いたりすることで、選別可能な対象を募集する。たとえば、我々の祖先にとって、ヘビやヒキガエルは極めて強調的な不快を明らかにする機会だった。ペローは、『眠れる森の美女』と題された小噺のなかで、人食い鬼が命じた拷問を想像している。つまり、王妃とその子供たちは《ヒキガエル、マムシ、ヤマカガシやヘビ》で一杯の洞窟の中に放り投げられるのだ。幸福などんでん返しの結果、予想外に王が到着し、復讐に失敗して激怒した人食い鬼は、自ら洞窟へと頭から飛び込む。そして《そこにいた醜い獣たちに瞬時のうちにがつがつ食べられてしまう》。このような信仰は明らかに知覚的経験に依拠できない。ただ、遺伝的調整の第一次的カテゴリーを押し広げ、現実的な対象に由来する管理もなければ知覚的制限もなく、空回りで展開する、前-知覚的予測の心的アクティヴィティーから生じるだけだ。心的な潤色はここでは有機体の行動のシステムの輪郭に後続する。想像的な獣像には、嫌悪をおこさせる動物だけではなく――不快や、むかつきに対応している――貪欲で攻撃的な動物もおり――回避の反応に対応し――最後には息苦しさや、空気の欠乏感にも対応している。特に、有毒瘴気で呼吸するものを窒息させるのは、あの想像上のサラマンダー〔火とかげ〕の《息souffle》である。同じ想像的なカテゴリーに従えば、家畜にとって致命的となる、草むらに隠れてまるまると太った毛虫の《息》もある。おそらくこれら信仰は絶対的に無根拠というわけではない。実際、ヒキガエルは、皮膚に毒があるが、とりわけヒキガエル自身にとってそれは完全に受動的な防御の手段であり、しかも攻撃に抵抗しても、少しの効果しかない。想像的アクティヴィティーの介入はその有毒特性を増幅的に実際に投影することで、そこで顕著となる。想像的ヒキガエルは毒の混じった《粘液》ももっているし、それ以上に目を痛める尿を近づいて来る者に噴出することもある。ここには様々な有毒行動のモード性に従った様々な方向の投影による増幅を見ることができる。サラマンダーや毛虫といった、《息》については、現実の事故の原因になってきたのかもしれない。ある種の毛虫は、反芻類に飲み込まれた時、食道内で毒針を拵えることができ、それで〔反芻類が〕腫れ上がると呼吸が困難になる。しかし牛飼いが強く畏れているのは、原因が大きく異なる、家畜のガスによる膨張だ。つまり、《息》の想像的悪影響は、腫れあがり窒息させる力の様々な方向の増幅や投影の帰結であるのだ。行動の図式ないしは現象の内的展開の直観として、運動的イメージは、大きくさせ、体系化させ、とりわけ客観的現実的に想定された事物に投影させる、心的アクティヴィティーによって増幅される。この事物は、実際、非制限的で、客観的なブレーキはなく、動機づけの力によって内生的な仕方で刺激される、「アプリオリ」の心的働きに特徴づけられた増幅的投影のアクティビティーの帰結のすべてに先立っている。
増幅と投影のこの自動運動はおそらく集団的な神話や個体の信仰の様々なアスペクトのなかに発見できるものだろう。増幅的投影のスクリーンécranとして世界から提供された対象は、場所によっても時代によっても異なる。しかし、動機づけの網目はあまり変わらないから、投影するアクティヴィティーの基礎的次元は同じものであり続ける。少なくとも、動機づけの網目は時間のなかでゆっくりとでしか変化しない条件を表現している。我々の社会における我々の日々のなかで、人食いや子供を食べる者の神話が消失しやすいのは、土台の動機づけとして、空腹の強迫観念が消えやすいからだ。人食い鬼や、肉食の怪物、羊も羊飼いも食べてしまう怪獣は、ジェヴォーダンの獣のように、過去のイメージだ。人食い鬼をきちんと想像するには、戦争中、いくつかの村の包囲地で発生したように、腹が減って、同胞を喰らう欲望にとり憑かれてなければならない。まるで恐ろしいものであるかのように人格性の外に投げ返されたこの傾向はしかし、それが外部に投影され増幅された時、人食い鬼のイメージの芽germeを、新鮮な人間の肉を選別することで常に糧を得るよう励むことが前提であるものの人間の形をしている存在へと伸ばす。ミノタウロス、トリスタンとイゾルデ伝説のモルオルト、グール等々は、同じ投影の、様々な文化的文脈や様々な時代での帰結を表象している。
しかし別の場合では増幅のプロセスは投影の発生なしに発揮され続ける。言い換えれば、神話は現れず、つまりは大食ヒキガエルも貪欲な人食い鬼もおらず、単に保護、準備、用心のいくつかのアスペクトの強迫的誇張がある。オンブルダーヌは、欲求の動機づけとプログラムについての講義のなかで、強迫的誇張の相当数あるケースを分析している。強迫とは行為が完遂してないとき高まる不安や罪悪感の払い除けを個体が別の動機づけなしに完遂する振る舞いのことだ。強迫的誇張とは、初めは理性的準備でありえた、アクティヴィティーの極端な増幅である。誇張は発揮される想像力における運動的予測の「アプリオリ」なアスペクトに結ばれた増幅のその結果へと翻訳される。糧がないことの畏れは、人食い鬼や怪物のイメージに投影される代わりに、食物(砂糖、塩)の蓄えの無際限の堆積によって表現される。だから吝嗇のいくつかのアスペクトは強迫的誇張として解釈可能だ。オンブルダーヌは、完全にその準備が無意味になるに決まっている都会での道のりでさえ、糧の急な欠乏に抵抗できる携帯可能な軽食、《おやつen-cas》なしには決して外出しない人々を引用している。また、オンブルダーヌは清潔を心配する誇張や、細菌に対する抵抗、等々も引用している。当然、これら振舞いは心の病としてよく注意されるけれども、非-病理学的な毎日の生活のなかにもあるもので、真の《文化のパターンpatterns of culture》となるほどまでに、集団的に展開する。個々の文明は、それに対応する誇張を伴って防御のいくつかのモードを増幅させる。貧しさに対して、病気に対して、いくつかの規則の侵犯に対して、等々。これらは神話的イメージの形になり、誇張された予測のそれら振る舞いで補完される、集団的な想像的投影に等しい(彷徨えるユダヤ人、誘惑者や魅惑者としての悪魔……)。軍備競走のような現象は、少なくとも部分的には、強迫的誇張による増幅の命令である。それは敵の神話的イメージと相関的だ。黄禍、アカ〔=共産党員〕、等々。マクラレンは、その増幅現象や競争的対立的振る舞いの加速を、映画『隣人Neighbours』(les voisins)のなかで翻訳している。
他方でオンブルダーヌは、強い不安の増大が、欠如が現実になるときに先立ち、欠如を導く客観的状況の次第に性急になる手がかりをどう募集しているのかを教えていた。密室恐怖症に結ばれている、トンネル内で空気が欠如することへの恐れは、場所の空気圏が閉じている性格を教える、煙や埃の痕跡を敏捷に感じさせる。《純粋な空気を奪われた貧しい人々》という強迫観念psychoseは、空気圏の化学組成が窒息の危険性を示すには及ばないのに、大都市のなかで発達し始める。いくつかのアレルギーは防御のアクティヴィティーの増幅のこのプロセスと比較可能なものとして考えられるのではないか? 結果に関してでは、間違いなくそういえるものの、アレルギーの場合においては、多数の正当化と論理論法を伴って、強迫的誇張に対してはっきりと意識化しているときには、心的アスペクトは隠されているのだ。
【訳註】・ペロー――シャルル・ペロー(Charles Perrault, 1628-1703)はフランスの詩人。日本では『ペロー童話集』で有名。その童話集に『眠れる森の美女』(La Belle au bois dormant)の話がある。この小噺はグリム版もあり、国王夫妻の娘の王女が魔法使いの眠りの呪いを受けるものの王子が姫を助けるという本筋に、ペロー版の方ではそれ以後、王子と王女が食人鬼の継母(王子の母)を退治するまでの追加的挿話が書かれている。・サラマンダー――サラマンダー、つまりサンショウウオは長年伝説化されてきた。火の元素を象徴し、中世では錬金術の象徴としても取り扱われてきた。その吐息には毒があるといわれている。オーヴェルニュ地方では、スフレ(蛇腹soufflet)の名で呼ばれ、その息soffleは家畜である牛の群を殺してきたと信仰されていた。・ミノタウロス――ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物。
・ジェヴォーダンの獣―― 18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方(現在はロゼール県の一部)に出現した、オオカミに似た怪物。多くの人間を襲ったと伝えられている。
・トリスタンとイゾルデ伝説のモルオルト――『トリスタンとイゾルデ』は、中世に宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語。モルオルトはトリスタンの血縁者だが、イゾルデと決闘し毒を塗った剣で重傷を与える。しかし、後に死亡。
・グール――アラビアで伝承していた怪物。墓をあさって人間の死体を食べたり、小さな子供を食べたりする。今日ではゾンビと同一視される。屍食鬼、食屍鬼、死食鬼。
・オンブルダーヌ――アンドレ・オンブルダーヌ(André Ombredane, 1898-1958 )はフランスの医師、心理学者。 人間工学に基づく仕事の組織論を分析したジャン-マリ・ファヴェルジェとの共著『仕事の分析』が有名。
・マクラレン―― ノーマン・マクラレン(Norman McLaren, 1914-1987)はカナダの映画監督。200あまりの国際賞を獲得している。言及されている『隣人』は、ユネスコの世界記憶遺産にも認定されたマクラレンの代表作。仲良く暮らしてきた隣同士の二人の男が、両者の家の境に生えてきた花をめぐり争いを始め、どんどんエスカレートしていく様子を描いている。