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↑『An album――赤土にひそむ文化の謎に挑む 旧石器文化研究の幕開けは一人の青年のふとした疑問から始まった』、群馬県立歴史博物館、2001。

 相沢忠洋(1926-1991)。タダヒロ。 考古学者。群馬県の赤城山麓周辺で納豆売りをして生計を立てながら、遺跡・遺物の発掘生活を続ける。新田郡笠懸村岩宿にて、日本で最初の旧石器時代の遺跡を発見し、日本の旧石器時代研究の扉を開く。主著に『「岩宿」の発見』(講談社、1969)、『赤土への執念』(佼成出版社、1980)。 
 

◎相沢忠洋略年譜

1926年 6月21日、東京にて誕生。
1933年 鎌倉に転居。この地で古代遺物に接する。
1935年 父母離婚、鎌倉の杉本寺にあずけられる。
1937年 浅草の叔父宅から、聖徳尋常小学校夜間四年に編入。帝室博物館の守衛、数野甚蔵の知遇を得る。
1944年 横須賀武山海兵団に志願入団。海軍二等兵となる。
1945年 桐生横山町へ復員。桐生周辺や赤城南麓における縄文早期文化を調査しながら、行商で生計を立てる。
1947年 縄文早期高縄遺跡発掘。
1949年 岩宿切り通しで関東ローム層の中から槍先形尖頭器を発見、赤土ローム層中から土器を伴わない石器を発見し、旧石器文化の存在を確信。芹沢長介の知遇を得る。
1951年 県立桐生高校定時制三年編入。しかし三ヶ月後に退学。
1955年 三浦きみと結婚。翌年長男誕生。
1957年 「赤城山麓における関東ローム層中諸石器文化の位置について」を『第4記研究に』(5月)に発表。
1960年 長女治子誕生。
1962年 日本人類学会に入会。
1964年 次女恭子誕生。
1965年 NHKある人生「赤土への執念」放映。
1967年 第一回吉川英治文化賞を受賞。
1969年 『岩宿の発見』。
1972年 赤城人類文化研究所を夏井戸に設立。宇都宮大学非常勤講師となる。
1973年 妻きみ死去。NHKラジオ放送「この人に聞く」に七条小次郎群大名誉教授と出演。映画「岩宿の発見」を教育映画社が制作。
1974年 日本考古学協会員となる。
1977年 久保田千恵子と結婚。
1980年 『赤土への執念』。
1981年 『枡形遺跡調査報告書』を関矢晃と共著で刊行。
1989年 5月22日、死去。享年62歳。
1991年 「相沢忠洋記念館」開設。
 


・vs原田大六

 今回は在野考古学者である相沢忠洋、とりわけ簡潔であるが極めて感動的は彼の自叙伝『「岩宿」の発見――幻の旧石器を求めて 』を取り上げる。

 本連載では既に原田大六という考古学者を取り上げた。しかし、反アカデミズムに貫かれた反骨精神の塊だった原田とは違い、相沢の文章から受けるのは人のいいオジサンという印象である。考古学者・後藤守一を論敵として徹底的に交戦の態度を貫いた原田に対し、相沢の方は後藤の小文から考古学の初歩的な問題意識を学び取っている。

 なにせ、本の冒頭は納豆売りをしている最中、民家にお邪魔し、お茶をいただくという謎のエピソードから始まっているくらいだ。相沢は研究時間を確保するため、朝夕に納豆売りで生計を立て、残りの時間を研究活動にあてていたのだ。

 ちゃんと働くし、ちゃんと研究するし、最終的に結婚もした。いくつかの賞をもらい、地元には今でも相沢忠洋記念館がある。略歴だけ見てみると、順風満帆な人生のようにみえるが、もちろんそれは人生を外からマクロに眺めているからだ。原田の場合と同じく、倍率を上げミクロにみてみれば、彼の人生の表面もまた起伏に満ちている。


・考古学との出会い

 相沢の考古学との出会いは、幼少期に住んでいた鎌倉の土器に由来する。横須賀軍港に近い鎌倉は、次第に軍関係の官舎が作られていったが、相沢の家の裏も新住宅が建てられるための地ならし作業が始まっていた。



「その作業がすすめられていくうちに、土のなかから、いろいろな焼きものができはじめてきた。私は学校から帰るとその作業場へ遊びに行った。そしてそこからあらわれてくる土器片に、私の心は強くひきつけられていった」(29p)
 


 しかし、このような古代日本への郷愁に浸る暇もなく、相沢夫妻は離婚し、少年は波乱の人生に投げ込まれることになる。離婚の原因は相沢の父親とその親族が芸事を職業としていたことに関係していたようだ。

 ともかく、次に考古学的対象に触れるのは、両親が離婚し、叔父の「はきもの屋」で奉公をするため浅草へ移り住んだときのことだ。小僧の休みは一ヶ月に二回、十銭玉をお小遣いに、浅草の露店を観て楽しんでいた相沢は、その露店のなかに「分銅形をした石斧」(51p)を発見する。三十銭するので買えはしない。しかし、店じまいまで黙って眺め続けていると、観念した店主が「これでよかったらもっていきな、やるよ」(53p)と言って石斧を相沢少年に与えた。重くて持ち帰るのが面倒だったのだろうか?

 この斧は意外な拡がりをみせる。夜間学校に斧をもっていった相沢は、学校教師から、そういったものが好きならば、と帝室博物館の存在を教えられる。そこで出会ったのが博物館の守衛をしていた数野甚造という男だった。相沢に興味を示した数野は、自分の家に招待し、考古学に関する本やパンフレットなどをひろげながら、遺跡や遺物のことを教えた。相沢の休日はこうして数野宅で古代人の生活を想像する一日となっていったのだ。数野は、学びのチャンスの少ない小僧にとっての家庭教師の役割を演じたのだ。


・自由を獲得する 

 戦争が近づくにつれ、相沢は海軍に志望することに決めた。一旦、父のいる桐生に帰った。そして、1944年、5月25日、正式に入団した。



「みんな、入団できたことで勇んでいたが、二日、三日と過ぎると、精神棒と呼ばれる一メートル余の丸棒で追い回され、夜になると班ごとに並べられ、「きさまたちは、紙一枚で何人でも集まってくるのだ」と気合いをかけられて、すっかり震え上がってしまい、なかには、家に帰りたいと泣き出す者までいた」(73p)
 


 家族がバラバラになっていた相沢にとっては帰るべき「家」などなかったのかもしれない。着実に訓練をこなし、筑波海軍航空隊に配属された。しかしながら、艦上で広島のキノコ雲を見て、その時代も終わる。「何もかも終わった。日本の長い間の戦争も終止符を打った。また私もこのとき、私の人生の一時期の終止符をうったのであった。/それは年輪という輪が一つずつ重なるとするならば、私の十九歳という一つの年輪が、できたのであった」(86p)。

 奉公も辞め、海軍も辞め、桐生に戻ってきた相沢は人生で初めての自由を満喫する。



「思えば、これまでの歩みには、すべてかごがかぶさっていた。私はそのなかの小鳥であった。小僧奉公の旦那もち、そして兵役など、大小の差こそあれ、日々の生活にかごがかぶせられていたのだった。ただ毎日毎日与えられるものを食べ、命ぜられるがままに働き、送ってきたにすぎなかった」(89p)
 


 ・納豆売りの研究生活

 相沢は生計を立てるため、村々を渡り歩いて小間物や食料を売る行商となった。これがのちに、納豆売りに繋がるわけだ。この職業の利点は、様々な村を訪れるがために、赤城山麓周辺の石器や土器などの遺物を採集するきっかけを与えてくれたということだった。



「食べるほうはやっていける。私の心にわいてきた夢をより大きくもとめそだてていこう。それには、桐生や赤城山麓のあけぼの時代に住んでいた祖先の生活の遺跡をさぐり、その分布している状況を徹底的にしらべることにしよう、と自分にいいきかせた。/私は古本屋の店先にあった陸地測量部発行の五万分の一の古地図「桐生及び足利」と「前橋」の二枚を求めた。そして、黎明期の遺跡地を見つけてはそのたびに、図上へその位置を記入していくことからはじめた」(111p)
 


 そのような探究の日々のなかで、相沢は「細石器」のようなものを発見する。細石器とは小型で刃を持つ石器で、一般的には旧石器時代後期に分類される。実は、当時の考古学界では、旧石器時代において日本に人間が住んでいたかどうかは疑問視されていたのだ。のちに、相沢の発見がこれをひっくり返す。

 これをきっかけに、相沢はいままで自身が集めた遺物を整理し、「黎明時代」=縄文早期文化の解明に乗り出す。地元の青年団と共に遺跡を求める日々が続く。「遺跡の発掘の時期は、夏と冬が好適だった。それは、夏には野外活動に学校の休みで学生の応援を頼めるからであり、冬は寒冷気候で調査によっては支障があっても、樹木の茂りや畑作物がないため、発掘にはつごうがよかった」(141p)。


・専門家との出会い

 研究を進めるなか、相沢は考古学に関する専門的な知を求めて、専門家へのコンタクトをはかる。そんななか出会ったのが、明治大学教授にして考古学研究所の芹沢長介(1919-2006)だった(のちに東北大学教授になった)。芹沢は相沢と親交を深めていくにつれ、その在野研究の成果を認め、他の教授に紹介する労を厭わなかった。

 芹沢は次のように当時のことを回想している。



「当時の桐生市には、高校の先生を中心とする考古学研究グループがあり、活発な調査や研究を続けていたし、小さな雑誌も発行していた。相沢さんの発見は、そのグループからの猛烈な反対をうけた。岩宿遺跡のローム層中から発見された石器は旧石器時代のものではなくて縄文時代の遺物である、と彼らは強く主張し続け、ついにはT大学の著明な学者を桐生に呼んで、岩宿問題を否定するための対抗的な発掘をおこなった。彼らがなぜそんなにまでして相沢さんの発見にケチをつけようとしたのか、私にはその理由がわからない。貧しい納豆売りの若者の発見よりも、高校の先生の研究の方が優れているのだと彼らは信じていたのかもしれない」(芹沢長介「序」、相沢『赤土への執念』収)
 


 また、芹沢は明治大学の同僚であった考古学者の杉原荘介(1913-1983)が相沢の研究を正当に評価しないことに失望し、対立の末、大学を辞職するほどの男でもあった。ともかく、このような専門家との触れ合いのなかで、相沢の石器も次第に変わっていく。



「ただ遺物を集めることだけに熱心であってはならない。考古学という学問のなかで、さらにつっこんで問題を追究し、真実を求めていかなければならない。そして、つねに専門の学者と密接な連絡をとり合っていかなければ、せっかくの資料も生かすことができない、とようやく決心することができた」(164p)
 


 ちなみに、1949年3月には別の嬉しい出会いもあった。川田という名の会社の社長だ。相沢の意気込みに惚れ込んだ川田は「生活の安定」のために、自社の製品の販売を委託する。「固定収入として三千円」、しかも「遺跡歩きのときは自由に休んでよいとの条件つき」(183p)であった。世の中には粋な人がいるものである。


・岩宿遺跡の発見

 運命の時は来た。笠懸村の赤土の崖を発掘している最中、相沢は黒耀石の槍先形をした石器を発見したのだ。



「もう間違いない赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ」(188p)
 


 こうして考古学の重大発見を相沢は第一に芹沢長介に報告し、芹沢を介して他の専門家立ち会いの下、正式にその発見が公のもとで認められた。たちまちのうちに「岩宿の崖」や「岩宿遺跡」と呼ばれ、新聞各紙は「日本に一万年以前、または十万年前にも人間がいたことが実証された」と報道した。

 1949年、昭和24年、相沢が23歳のときである。

 岩宿遺跡発見以後、相沢の生活には様々な変化が訪れた。例えば、栃木県の国立宇都宮大学の教育学部から非常勤講師の依頼を受けた。内容は「考古学について」。また考古学会での発表なども度々行うようになった。私生活でも結婚をし、子供にも恵まれた。1967年には、第一回吉川英治文化賞を受賞した。

 また、メディア関係でも、二冊の本を出版し、テレビやラジオの出演も果たした。既に芹沢が述べていたように、反対者も多数おり新聞報道では相沢の名が発見者として載ることはなかったものの、彼の考古学への愛情は終生変わらず、地道な研究活動が正当な評価に結びついていったのだ。


・「大学は学問する所」

 相沢の学歴は小学校卒業程度のものでしかなかった。では、学歴不要の一匹狼としてやっていくことを勧めていたかというと、それは違う。実際、小学校の夜間部を卒業して以降、終戦後に、彼は桐生高校の定時制に入学している(生活の困難さから半年で退学しているが)。「私は学歴はあった方がいいと思っている。日本のアカデミズムは、学歴を持たない者にそれほど寛容ではないようだ。学歴はやっぱり必要だ」(『赤土への執念』、178p)。

 それ故、相沢の語る大学像は平凡な形で理想化されている。大学で講義する際も、大げさな躊躇と決心のなかで臨んでいたようだ。だから次のような説教も相沢の経歴と照らし合わせてみたときに初めて、ある程度頷けるものとなるだろう。



「たとえば、大学の学生さんについていうと、全部が全部そうではないでしょうが、なかには、「何のために大学に行っているのだろうか」と疑問に思ってしまう人がいます。勉強などまったくせず、遊びほうけていたり、アルバイトだけに精を出している学生さんを見ると、つい首をかしげたくなるのです/〔中略〕大学は学問をする所です。それが原点です。わたしは“原点”という言葉が好きで日常の会話の中でもしょっちゅう使うのですが、原点というのは、人間個々にとって、現在、自分がよって立つべきものは何か、今、何をしなければならないか、自分にとって何が基本なのか――ということじゃないかと思うのです」(『赤土への執念』、169p)
 


 相沢にとって「原点」とは赤城山麓の黎明時代の人間生活の探究にあった。学問的成功でもなければ名誉心でもない。この「原点」に常に回帰することで、貧しい生活も乗り越えられる強力なモチベーションを得ることができる。在野研究必携の教えといえよう。



◎ 文中に引かなかった参考文献

・「HARUKOの部屋 : 日本史ウォーキング 2 岩宿遺跡」(http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/NW2-iwajyuku.htm)。
・「相沢忠洋記念館」(http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html)。
・『追憶・相澤忠洋――一九四九年九月十一日この日に歴史が動いた』、相澤忠洋顕彰刊行会、2005。
 

※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。