人間にも善人と悪人がいるように、居酒屋にもいい店と悪い店がある。
 
もちろん、善と悪とかいう二元論では語り得ないのがこの世界である。むしろ世界は曖昧なグレーに満ちている。そういえば、今まで折に触れて二元論二元論と書いてきたが、一元論というものもあるのだと、今朝知った。放送大学のラジオで。

その考え方はこうだ。

この世には善しかない。悪というのは、善の《変形》である。ああそうか、なるほどなあと思ったが、しかし、たとえば対概念の筆頭である男と女ではどうか。この世には女しかいない。男は女の《変形》である、と考える。

確かにそうかもしれない。

胎児のとき、人間はみな女なのである。はじめに女性器が形成され、その後、男の場合には、それが閉じられ、陰茎が発生するのである。これは何かの本で読んだことで、発生学的にはそれが自然な成長の仕方なのだという。なるほど、棒が無くなるより、棒が生えてくるほうが、素人考えにも、感覚的にごく自然である。

まあ、そんなことはどうでもいいのだが、一昨日行った居酒屋でのことである。

その居酒屋を訪れるのは、初めてではなく二度目であった。目当ての店が閉まっていたので、行くことにしたのだが、けっこう楽しめた覚えがあった。10席ほどのカウンターは、7席ほどが埋まっていた。それでも、幸いぼくの好きなカウンターの端っこが空いていたので、そこに陣取り、さてさてと生ビールを注文した。

メニューを片手にビールを飲みながら、料理を選んだ。
ハツとレバーとなんて考えつつも、メニューの端に「お通し 200円」と書いてあったので、まずはお通しを待つことにした。

しかし、待てど暮せどお通しは出てこない。

あまりに遅いので、大将の一挙手一投足をほとんど凝視しているのだが、ぼくのお通しを用意している気配は微塵もない。もっと、他の客の注文をふつうにこなしていさえする。

ぼくは前回に来たときのことを思い出してみたが、このようなことはなかった、と思う。お通しは別途頼むシステムだったっけかとも思ったが、そうとも思えない。

まあ、お通しはいいとしよう。

ということで、最初の注文を聞きにくるのを待った。しかし、これまた一向に聞いてこない。最初の注文を聞きにこない居酒屋などあっていいものだろうか。ぼくは何度もすいませんと声をかけようかと思ったが、だんだんと意地になってきて、注文を取りにこないなら、おれは注文せん! という気持ちになってきた。

忙しくて手が回らないのならわかる。大いにわかる。しかし大将は、むしろ手持無沙汰といったふうで、客たちと実にくだらん下等な談笑などをして笑っていやがるのである。

そしてついに、ぼくは生ビールを飲み終わった(かなりゆっくり飲んだ)。
しかし、やっぱり注文を取りに来ない。

ぼくはもうほとんど憤慨して、「すいません、お会計」と言った。
大将はちょっといぶかしげな顔をして、「450円です」と言った。

ぼくは500円玉を渡した。お釣りの50円玉を受け取った。ごちそうさまでしたと言って、店を出た。ぼくはもう、頭に来て頭に来て、あんな接客があっていいものだろうかと思った。まったく、お客をなんだと思っているのだろう。お客様は神様だとは言わない。しかし、お客様は少なくともお客”様”である。モツ焼き屋など、サラリーマンじゃあるまいし、いやいやながらやるものでもないだろう。おまえ自身が選んだ仕事ではないのか。サービス業をなんだと心得ているのか。そもそも人間としてどうなんだ。おまえの役目は客に酒を飲まして料理を食わして楽しいひとときを提供することではないのか。

その足でぼくは庄屋へと向かった。
店内に入り、先ほどと同様カウンターに腰かけた。

マニュアル通りにおしぼりが出され、マニュアル通りに最初の飲み物を尋ねられ、マニュアル通りにお通しが運ばれ、マニュアル通りにお酒が運ばれ、マニュアル通りに料理が運ばれてきて、ぼくはマニュアル通りの酔客になった。

そこでぼくは、世の中の仕組みにあらためて気づき、ひとりごちた。人間の数だけある価値観や態度の不均質を一定以上の水準にならすのが、マニュアルなんだよなあと。マニュアルというのは、ひとつの発明なんだよなあと。