今月、「くたばって終い?――二葉亭四迷『平凡』私論――」を書いた。しがない小説家の半生を綴った四迷最後の小説『平凡』に内在する、「技巧」に富んだ小説構造(名前の配置やメタフィクション性)とそこから浮かび上がる高次のテーマ性(執拗なる文学のアンビヴァレンス)について考察した。文字数は12776字、原稿用紙だと32枚。目次は以下。
- 序、くたばつて仕舞へ
- 一、三つの名
- 二、経済に拘束される小説家
- 三、死を看逃す
- 四、失われた〈終り〉を求めて
・『平凡』読書会
この論考は、6月28日に新宿で行なわれた読書会でも発表した(基本的な中身は当日のレジュメと大して変わってない)。『平凡』読書会はいつものメンバー6人に加え、今回は私のTwitter繋がりで、日本文学系の新しい参加者3人を迎えたことで、実りのある議論ができたように思う。二葉亭四迷というと、イコール『浮雲』、イコール言文一致の人とみなされがちだが、『平凡』が隠れた名作である所以をみんなでシェアできたと思う。
そういえば、懇親会では『平凡』の作中に登場する「犬殺し」の話になった。私は初め、作中に登場する「犬殺し」は頭のおかしい人がやっているんだろうと思っていたが、明治期で既に「犬殺し」は職業化されているらしく、『平凡』の「ポチ」が殺されたのもそれに由来していると反論された。当サイトではお馴染みの東間嶺さんがいうに、大江健三郎の『遅れてきた青年』第一部にそういう話があるそうだ。確かに「犬殺し」のウィキペディアでは明治41年の新聞記事が紹介されている(興味深い、詳しい参考文献があれば知りたいのだが……)。
ヤフー知恵袋でも同様のことが問題になっていたようだ。本文をよく読んでみると、なるほど、「犬殺し」らしい二人組が登場していることに気づく。
「何でも可なり大きな箱車で、上から菰を被せてあったようだったが、其を若い土方風の草鞋穿の男が、余り重そうにもなく、さっさと引いて来る。車に引添てまだ一人、四十許りの、四角な面の、茸々と髭の生えた、人相の悪い、矢張草鞋穿の土方風の男が、古ぼけて茶だか鼠だか分らなくなった、塵埃だらけの鉢巻もない帽子を阿弥陀に冠って、手ぶらで何だか饒舌ながら来る」(『平凡』一七章)
注意しないと読み逃してしまう。この後「犬殺し」事件が語られる。依然、彼らは自治体に依頼されて公に仕事をしていたのかどうか(或いは、私的に勝手にアナーキーに?)とか、この二人組がポチ殺しの犯人だと特定してもいいのかどうか(主人公は伝聞でしかポチの死に様を知らない)とか、問題にすべきことは多々あるように思われるが、興味深い。
公開した『平凡』私論の文脈でいえば、「犬殺し」の存在は、金のために小説を書く「経済に拘束された小説家」、つまり『平凡』の書き手と同じく、経済に拘束された現実を示唆しているだろう。幼少期の主人公は経済問題に困窮することなく、(例えば、犬の出生事情などの)「空想」に没入することができるが、大人はそうはいかない。主人公の「空想」を邪魔する「酒屋」と同じく、経済の忍び寄る影を「犬殺し」の存在は示唆しているのかもしれない。
いい参考文献が入り次第、追記してみたいテーマだ。
・有島武郎研究会を終えて
思えば、6月は発表強化月間だった。『平凡』はもちろんだが、6月14日(土)には大阪教育大学で有島武郎研究会第55回大会が開かれ、そこで私は『卑怯者』について口頭発表してきたのだった。
レジュメは画像の形で末尾に載せておくが、簡単に要約しておくと、『卑怯者』を私小説ではなくテクストとして捉えたとき見えてくる、「彼れ」のもっている「子供」に対する先入見を明らかにし、その構築的な小説世界を考察するというものだった。
質疑応答では、結論部にある「卑怯」=「判断宙吊りの場の放棄」、約めていうと「suspensionの放棄」が分かりにくかったようだ。私の発表は超訳していうと、「彼は子供のことなんてろくに見てないんだから、助ける助けない云々以前に、ちゃんと見ましょうね」というとてもシンプルなものなので、何が疑問なのかイマイチ理解できなかった。
しかし今にして思えば、こういう風に答えればいいのだと思った。つまり、「コミュニケーションには多様に可能性があり、子供のために弁明する/しない、の二者択一だけがあるのではない。判断宙吊りの場は、変化する個々の状況に留まり、二者択一に限定されない具体的な可能性を模索させる。この緊張から逃走することが〈卑怯〉なのだ」と。
ちなみに、東洋大学の石田仁志からは『卑怯者』は同年の『白樺』に発表されていた志賀直哉『小僧の神様』の「応答」作なのではないか、という刺激的な話も頂戴した。私が着手するかどうかは微妙だが、極めて興味深い仮説だと思う。
・テクストを読むということ
しかし、最近つくづく思うのは、ちょっと前までテクスト論がどうのこうのいってきたわりに、今日の人々は余りテクストに対して興味がなくなってしまったかのようだ、ということ。作家がどうのだとか、同時代評がどうのとか、何とか主義がどうのとか、海外由来の文学理論がどうのとか、都市文化が云々とかいって、テクストを迂回し、テクストと対面することを避けている。
テクスト論の一番の肝というのは(私の理解では)、シュタンツェルがバルトがイーザーが、とかいって小難しい話をするところではなく、相対的独立性を保っているテクスト本文を何度も吟味するだけで対象を論じることのできる、そのオープンネスにあった(文庫本一冊で論文を書く、と大学人が揶揄してきたようなあの敷居の低さだ)。語りのモードや物語の構造や比喩の関係性を微視的に読んでいくこと。それは手元にある一冊の本を何度も読み返すことで、学び取ることができる。専門家でなくてもテクストについて語りうるし、語ってもいいのだ。文学研究の基礎はここにあり、というのが、私を司る数少ない研究方法だ。
もちろん、これが一番大事だとはいわない。しかし、作家論者であれ、都市テクスト論者であれ、対象とするテクストの本文を吟味することは、その作品名を論じる以上、素朴にある程度踏まえていいことではないか。というよりも、本文の吟味は何論者にとっても、普通に役立つことではないかと思われる。作品名を題目に掲げつつ、その小説の引用が三行くらいで終わる学会発表などを聞いていると、本当にウンザリしてしまうのは私だけなのだろうか?
この意味で、(有島研究会でも批判したが)理論的にはダメダメなことを前提にした上で、本文(田中用語だと「原文」)をちゃんと読もうぜとメッセージを発する田中実には――この意味でだけ――同意できるところがないではない(といっても、田中も「了解不能な他者」であらゆるテクストをぶった切るような大雑把な論者の一人だと思うけれど)。何が言いたいかというと、まあ、そんなこんなで粛々と頑張っていきますよってお話。
最後に……嗚呼、集団的自衛権よ!!!

