書き殴っても書き殴っても誰も何も言わない (ハルカトミユキ「消しゴム」)
「趣味は野球観戦です!」
という一文を私があなたに対して発したとき、あなたは野球を楽しそうに観る私の姿をイメージするだろう。しかしながら、そう語った同じ人間があなたのすぐ隣で観戦しているさいに眠ってしまったならあなたはどう思うだろうか?
「お前はちっとも野球を愛していない!」
「にわか野球ファンだ!」
そんな声が私に向けて発せられるに違いない。少なくとも、もし私があなたの立場なら、つまり、趣味が野球観戦だと言っている人間が観戦中に居眠りをしている光景を目にしたのなら、そのような言葉を浴びせたいと思うだろう。しかしながら、私がこれから徹底的に擁護したいのは、野球観戦をしながら居眠りをしてしまう人間の方である。
野球に限らず、現代社会においてしばしば何かを観たり応援したりする場に立つ他ない私たち観戦者を私が擁護しようとするのは、何も観戦中の居眠りに深く共感するからではない。
私は、つねに観戦者、応援者の立場に位置付けられてしまうことにいい加減うんざりしている。
観戦者、応援者とは「ファン」という名称を与えられている者に他ならない。
ファンは、つねに楽しく振る舞うことを求められる。楽しく振る舞う者こそがファンだからである。ファンの前での居眠りは禁物だ。もしそんなことをしてしまったなら私はただちにファンたちから「お前はファンじゃない!」、「お前の愛は偽物だ!」と言われてしまうだろう。
まったくけっこうだ、と私は心のなかで思う。
もし、あなた方がファンであることの条件を観戦、応援する場で楽しい素振りを見せることだと定義するならば、私はファンなんかでなくともかまわない。
野球場から場所を移そう。
あるアーティストのファンである一人の人間がいる。その人物はアーティストの容姿なのか声なのか歌詞なのかあるいはそれらすべてなのかわからないが、とにかくそのアーティストが好きで好きでたまらないようだ。そして、同じアーティストのファンとともにライブで盛り上がることが大好きである。
一方、私は、そのアーティストが嫌いではない。好きか嫌いかで言えば、好きな方である。CDも何枚か持っている。ただ、ライブにはまだ行ったことがないし、これからも行くことはないだろう。時々、テレビで姿を拝見して、カラオケで聴き込み不足のために完成度の恐ろしく低い一曲を気持ちよく歌えればそれで満足である。
こんなことをファンに話すと、ただそれだけで「お前なんかファンじゃない!」、「にわか野郎!」と言われてしまいそうだ。「いやいや、あなたの態度こそファンそのものですよ」とある人は言ってくれるかもしれない。ファンにだってろくに自分が観ているもの、応援しているもののことを知らない人もいるのだから。
フィールド上のプレーヤーの名前が、演奏中の曲のタイトルがわからない。
でも、いいのだ、楽しいのだから。ファンとは楽しむものに他ならない。
逆に言えば、いくら細かい知識を知っていてもその場を楽しめていないのならあなたはファンではない。
ファンとはオタクのことではないのか?と思われる方もおられよう。たとえその場を楽しんでいないように見えたとしても、細かいデータやエピソードを知ることそれ自体が快楽なのだ、と。確かにそうかもしれない。
あたかも、様々な形で楽しんでいる人を否定するかのような書き方をこれまでしてきたが、何も私は楽しんでいる人々を否定したいわけではない。私はこれでも痛いほど気持ちがわかる。野球場で声を出して応援するのは楽しい。ライブに行ったらついつい盛り上がってしまった。本当にくだらない野球談義に花を咲かせる。素晴らしいことではないか。ただ意味もなく盛り上がりたいときもある。サビしか知らないけれど、どうしてもカラオケで歌いたくなることもある。すべて、楽しい。
が、同時に私はどこか虚しい。
結局、私は楽しまされているだけではないのか。いや、間違いなく私は能動的に楽しんでいる。しかしながら、どんなことをしても「楽しい」に行き着いてしまうことはちっとも「楽しくない」。
私たちはファン=楽しむことという牢獄から抜け出せないのではないのか?そんな不安が押し寄せてくる。
何かについてただただ書くこと。
いや、書かなくてもいい。何かについて目的なくひたすらお喋りすること。
それは、私たちに与えられた楽しみの一つである。
ファンであってもファンでなくても、聞き手さえいればあなたの話したいことを好きなだけ話すことが出来る。聞き手がいなくても一人でぶつぶつ呟くことだって可能になった。
何かについて好き勝手にお喋りするという自由。
しかしながら、何かについてお喋りすることは可能になったけれども、何かへ、いや、誰かへ直接言葉を投げ掛けることは恐ろしく困難になった。
誰かに何かを伝えるには、私はファンにならなければならない。そう、私が書くことを許されるのはファンであることが条件になる。しかし、ファンとして語ることが出来ることなぞたかが知れている。返ってくる言葉だって予測出来てしまえる。
それでいいではないか、それで満足しろ、という声が聞こえてくる。
何かについてただひたすら語るときには肯定的に働いていた言葉の宛先のなさが、誰かへと向かうときには単なる無力さに変わる。ただ話すことの快楽が、語っても語っても何も返ってこないという虚しさへと変わる。そして、私はファンとして言葉を発することしか出来なくなる。そのとき、ファンである私とは一体何なのか?
黙ることを通り越して私は眠ってしまった。気が付いたら、六回表だった。何度か眠ったらそんな気持ちも薄らいでいくのではないかと期待していた。しかしながら、まだ六回表だ。私はまた何かを語りたくなる。何かについて話すことの快楽とその代償として失ってしまった誰かへ言葉を投げ掛けることとの間で。もちろん、たとえ誰かに言葉を投げ掛けることが出来たとしても返事が返ってくる保障はどこにもない。私とは一人のファンであり、一つのペンネームである。そのとき、私とは一体何者なのだろうか?
私は何かの、あるいは誰かのファンになどなりたくない。
しかしながら、私はつねに、私が観戦者、応援者であるという意識から逃れることが出来ない。
野球やアーティストだけの話ではない。二十二年間の人生において、私はいつどこにいても観戦者であり応援者であった。残念ながらと言うべきか、これからもそれ以外の何者にもなれないだろう。今日もまた野球を観ながら居眠りをし、アダルトヴィデオのなかに美の瞬間を求め、あなた方に言葉を投げ掛けている。潜在的な変態可能性を馬鹿の一つ覚えのように信じながら。
一人の観戦者、応援者の一つのペンネーム
杏ゝ颯太