去る六月十四日、数ヵ月前まで私が在学していた大阪教育大学にて有島武郎研究会が開催された。有島武郎の専門家でもなく小説自体も決してたくさん読んできたわけではない私がこの会に参加した理由はただ一つ、荒木優太さんの発表があるからだった。


 荒木さんとは、Twitter上で知り合った。
 ただ、知り合ったと言っても、日常的にやりとりをしていたわけではなかった。

 しかしながら、私は、荒木さんの著書である『小林多喜二と埴谷雄高』を購入し、通っていた大学図書館に置いてもらった。そして、荒木さんからは、いままさに文章を書いているエン-ソフへと誘ってもらった。つまり、具体的な行動を通じた関わりを持っていた。
 荒木さんによると、著書が初めて図書館に入った大学での開催ということが、今回発表を引き受けた理由の一つになっているらしい。そういう意味では、このようなことを予想しての行動ではなかったので偶然と言えば偶然なのだが、とはいえ私自身の行動がなければ実現していなかった可能性もあっただけに、本当に何がきっかけになるかわからないなとつくづく思う。

 荒木さんの発表は、有島武郎の『卑怯者』を再読するものだった。

 私は発表までに二回通読して当日を向かえたのだが、決して長くはない文章からどんなことを語るのかまったく検討がつかなかった。ただ、物語の内容から、道徳・倫理的な話になるのかなという漠然とした印象は持っていた。私の頭ではこの文章からは道徳・倫理的な教訓を読み取るぐらいのイメージしか沸いてこなかった。

 だが、荒木さんの発表はまさにそういう読みをする私のような読み手を批判するものだった。

 『卑怯者』を読むと、そこにはあたかも一人の確定的な子供の像が浮かんでくるようだが、しかしながら、そのような像を浮かび上がらせるテクストそのものに目を向けてみると、それは「彼れ」の断片的な情報からの推量に多くを負っていることに気がつく。

 断片的で不完全な情報から、ある一つの物語を構築してしまう「彼れ」。
 そして、その「彼れ」の物語に追従してしまっている語り手、先行研究、読み手。荒木さんは、その事実を強い説得力を持って実証していった。

 私は、小説を物語化するというか、人物を劇的にしようとする読み手の欲望が大の苦手である。小説を説明するさいに頻繁に用いられる主人公を形容する言葉の類いも大の苦手である。あるいは、小説の登場人物の性格なんかについて饒舌に語る人々が大の苦手である。妙な生暖かさが、そこにはある。
 
 これは単に私の偏見かもしれないが、「小説」と聞くと反射的に「=物語」だと感じてしまう。
 けれども、当然、この二つの間にはいかなる必然性もない。
 
 私は、小説を「散文」として読みたいのだと思う。
 つまり、文の継起として。
 
 そこには結果として物語が立ち上がることもある。
 しかしながら、必ず物語が立ち上がらなければならないという必然性はどこにもない。
 
 荒木さんの発表を聞きながら、そんなことを考えた。

 杏ゝ颯太