凡例1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(35‐39p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
4、個体発生中の運動的予測の自発性
発生学者embryologistes(コグヒル、カーマイケル)の研究が示す処によれば、運動的発達は知覚的発達と同時期的でありうるが、それは段階から段階へ後続するものでも従属するものでもない。言い換えれば、対象への参照を巻き込んでいる訓練や学習の形になった知覚的発達の働きは、運動的発達が組織化された図式を現さすのに必要なことではないのだ。振る舞いの運動的予測は内生的発達によって発生する。個体発生中の、運動の組織化は、反応のシークエンスではない。それは環境の影響力で帰結するのではなくて、また知覚に引きづられることもなく、固有の法則をもっている。潜勢的振る舞いのこの自律的実在は予測の有機的土台であり、運動的イメージの土台の一つを構成する。
コグヒルは有尾類における水泳行動の個体発生を研究した。それは漸進的に内生的な仕方で発達し差異化する形態のように現われた。カーマイケルは、類似した実験設備で、化学物質の働きで何日も動かさないでいても運動能力への高精度なアクセスが遅延しないことを示していた。ワイスは、有尾類について常に、神経的組織化と運動の組織された図式の身体構造の生得性inhérenceを示していた。四肢の移植は、どんな学習をしてみても、行為的反応を混乱させ、たとえ一年経ってみても、四肢の逆転の努力をとりつくろうことはできない。似たような結果はグローマンが(対照実験を固定化することで)鳩の翼の運動の出現を実験的に研究することでも獲得された。これらあらゆる探究のなかでも、コルトラントのそれはとりわけて重要だ。というのも、複雑な行動において、個体発生の始まりが現れるシークエンスは、完成された行動において、終わりである完遂の位相に対応している実行のアクティヴィティーであるからだ。故に、若い鵜は、小枝を運んだり、取ってきたり、探しにいったりする前に、小枝を固めることで巣を造ることのできる運動を有しているのだ。最も運動的で最もステレオタイプ化した、実行のアクティヴィティーは、対象探求や対象運搬の準備的位相の欠如しているから、最初は、対象に対して実行されえない。完璧な現実的行動の目的により予測は始まるのだ。
一般的な射程をもつこの観察から出発すると、予測の想像的アクティヴィティーの原因のひとつを把握することができる。つまり、若い有機体はもし対象探求の問題が解決してしまえば意味をもたなくなるだろうノウハウsavoir-faireを所有しているのだ。このような作用する力は対象的な支持体supportとしての代替物を喚起する。
演技の振る舞いと空回りのアクティヴィティーは行動のシークエンスとは逆のその発生から出発することで少なくとも部分的には解釈することができる。行動実行の位相が準備された時、運動的作用の支持体の性格だけを有している、対象-代替物objet-substitutに関してその位相がアクチュアライズ〔現勢化〕することができる。噛み付いたり爪で捉えることのできる、若い猫は、しかし餌を探したり探知したりすることはできず、餌の代替物に向かって、床にある糸巻きや、毛糸の鞠だとか、ほとんどなんでもない対象を捕まえる。獲物のイメージとはとりわけ捕獲運動の束でもあるということだ。殆どなんでもない同一対象がしかしながら運動的な様々な《演技=遊びjeu》の機会になりうる。捕獲すること、威嚇の態度を保つこと、等等。人間存在に於いて、本能的振る舞いは逆の仕方でも現われるし、準備や探求のアクティヴィティーが未だ不能であるときに、実行のアクティヴィティーの先立つ訓練である演技のための代替的対象を募ってもいる。たとえば、人形遊びjeu de la poupéeは、性的に未熟でその行動の先立つ位相が不能である場合でも、再現すべき行動のシークエンスの目的に対応している。めいぐるみの小熊、丸まったボロ切れ、ペットなど、要求されているのは極めて基本的な対象であり、ほとんどなんでもないものである。肝心なのはその対象が抱きかかえられ、揺さぶれ、持ち運ばれうるということだ。それは《パターン》を構成する、事前形成された運動の目標と支持体なのだ。知覚の類似はそこでは、代替物としての運動的な適切さよりも強調されない役割しか演じない。子供のためにつくる芸術品としての人形や知覚の観点から本物の子供を真似る本物の自動人形などを造る、動機づけされてない大人の過ちの訳がここにある。演技=遊びjeuにとって、このような構築物はぼろ切れの人形以上の価値をもたず、知覚の規則に従って情報を与えるinformeものの、子供の運動的「パターン」に一致conformeしない。演技=遊びの本質は前-知覚的なものだ。初期の本能的な演技=遊びは知覚的な形figurationを必要としないが、形態configurationsへとまとまる運動的傾向によって募集可能な、なんでもない対象の豊かなバリエーションは必須だ。完全に発達した状態に達した運動的能力が欲求besoinを創造するという着想のこの考え方にもし付け加えることがあるならば、大人において、運動的傾向(攻撃、防御…)の運動的支持体としてなんでもない対象を募る特種な力の存在なるものを、日常的な存在に統合された状況によってもその運動的傾向が吸収されないときに、理解することができる。このようなことは大人によって母のやり方で取り扱われた動物の里子や、あるいは狩りや儀礼化された処刑が相当する。それぞれの場合において、対象-代替物の対象的=客観的性格からではなく、先立つ運動的傾向の形態configurationに由来するイメージが構成される。人間存在の各々は運動的演技の支持体として募られる、つまりは戦うべきもののイメージや、グループから追い出すべいもののイメージ、性的に追い求めるべきもの等等のイメージに生成することができる。集団的現象は前-知覚的な運動的傾向から発する募集のアクティヴィティーに結びついているけれども、その現象の可能性の最初の条件は先立つ動機づけの存在である。ところで、動機づけの源は個体にある組織化された運動的モンタージュの固有性によって構成されている。これはその運動的モンタージュによって一定の方向に従う振る舞いの欲求に対応している。
いくつかの仕方で島状に切り離された機能作動のこの機会は、もし行動の個体発生的発達が下位-集合の成長の絶対的同時性の計画に従って実現されるのならば発生することはない。しかし実際には、ゲゼルの研究が示した処によれば、行動の個体発生は成長に似ている。個体発生は単に極性や方向決定の原理や、段階的変化gradientに従ったり、膨らませるボールのように均等な仕方でなされていくのではなく、それ以上に新しい構造化の準備をする脱分化dédifférenciationsによって切り離された継起的サイクルに従って実行される。より大きな発生の契機だけではなく、それぞれの段階(《子供における進歩の傾向Prone progression in human infant》を参照)はそれだけで自足しうる一定行動のサイクルの終端に達する。すると暫定的に棄却され、より複雑で、より総合的な決定的《パターン》と行動の本質的な輪郭lignesが再び合体することになろう。振る舞いの予測の運動的イメージの内容を提供するとみなしうるものこそ、行動のその本質的な輪郭の存在である。それらイメージは等しく演技=遊びを許すものであり、単なる不調整な運動的消費でも、動揺でもなく、一般的には対象的支持体(人形、ボール…)に基づく、運動の《ゲシュタルト化された》組織化なのだ。
決定的な振る舞いにおける学習によって、演じられた役割は、行動の部分的システム化に対応する運動的イメージの原始的性格から何も奪わなければ依然重要だ。人間に於いて、学習は、極めて重要なやり方で、強い可塑性plasticitéを伴って感覚的-運動的適合を変容させることができる(プリズムが変形してしまった眼鏡をかけようとした努力の経験)、けれどもこの学習は運動的《ゲシュタルト》の再組織化ではなく、知覚的-運動的関係の枠組みに介入している。ところで、運動的「ゲシュタルト」の自由さは、この構成された自由さの訓練に対応した欲求に伴う、イメージの支持体としてのなんでもない対象募集の土台である。そもそも、現実的かつ具体的な知覚的-運動的環境に運動の形態を挿入するのに役立つ、学習の補助的現象は、最も明瞭でかつ安定的なステレオタイプとの結びつきとして動物にも存在している。飛行の図式は鳥にとって先天的だが、その「アプリオリ」な図式は、地面の傾斜を考慮しないし、風の応力などが課されることで埋め合わす鳥の必然性を考慮しない。環境への図式の挿入insertionは、あらゆる演技=遊びとは大きく異なり、しかもイメージの代わりに、知覚的情報を頼りにすることをふくみ込んだ学習を要求している。
この指摘は、人間において十分強い動機づけを伴う飛行のイメージを与える起源のような、(少なくとも外見上は)「アプリオリ」な運動的図式の起源という前に提起した問題を解決するものではない。〔それを解決するには〕おそらく、流体力学的浮力の効果で重力の強制的努力を無視できる、誕生に先立つ羊膜の液体内で浮かぶ子供の自由な反応や運動というような、極端に原始的な運動的図式が問題となる。極めて原始的で幅の広いその性格によって、そのような運動的図式はコックピットに比べて相対的に自由な軌道の飛行の直観にまで向かうイメージを活性化させることができる。しかしここでは、運動のイメージの起源についての、他の可能性の間でなされる推量を考えていかなければならない。
【訳註】・コグヒル――ジョージ・E・コグヒル(George E. Coghill, 1873-1941)。アメリカの解剖学者。両生類の神経系に関する研究で有名。・カーマイケル――レナード・カーマイケル(Leonard Carmichael, 1898-1973)。アメリカの心理学者。霊長類を用いて実験心理学を中心に研究。・ワイス――ポール・アルフレッド・ワイス(Paul Alfred Weiss, 1898-1989)。オーストリア生まれのアメリカの生物学者。イモリの四肢再生の研究から、細胞の分化、移植、手足における神経接合の再形成など、神経生物学や形態形成に関して考察した。・グローマン――Grohmann。詳細不明。
・対照実験――group-témoin。コントロール実験とも呼ばれる。科学研究において、結果を検証するための比較対象を設定した実験。たとえば、効果があると見込まれる新薬と効果のない偽薬を別々のグループに使うことで、その対照性を明らかにするような実験。
・コルトラント――Kortlandt。詳細不明。・ゲゼル――アーノルド・L・ゲゼル(Arnold Lucius Gesell、1880-1961)は、アメリカの心理学者、小児科医。子供の発達研究のパイオニア。著作『就学前児童の知的発達』(The Mental Growth of the Preschool Child, 1925)などが有名。子育ての手引書も出版。・子供における進歩の傾向――ゲゼルの著作か、その言葉か? 詳細不明。
・ゲシュタルト――Gestalt。人間の精神を部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重きを置いて捉える心理学、即ちゲシュタルト心理学の基本概念。「形態」を意味するドイツ語。たとえば、まとまりのある像から、(同一対象を長時間眺めるなどして)全体性を失い個々の構成要素にバラバラに切り離して認識してしまう現象のことを「ゲシュタルト崩壊」という。ゲシュタルト心理学は要素主義・構成主義の心理学に対する反論として、20世紀初頭にドイツで提起された。