フォイエルバッハ
(↑宇都宮芳明『フォイエルバッハ』、清水書院、1983)

 ルートヴィッヒ・A・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach,1804‐1872)。宗教哲学者。ベルリン大学でヘーゲル哲学を学び、そこからヘーゲル批判を徹底して自然を基礎とする宗教的人間学を唱える。カール・マルクスに大きな影響を与えた。主著は『死と不死にかんする思想』(Gedanken über Tod und Unsterblichkeit, 1830)、『キリスト教の本質』(Das Wesen des Christenthums, 1841)。『神統記』(Theogonie nach den Quellen des klassischen, hebräischen und christlichen Altertums, 1857)。その他多数。
 


◎フォイエルバッハ略年譜

 
1804年 ドイツのバイエルンのランツフートにて誕生。
1817年 アンスバッハのギムナジウムに通学、1821年まで家族と別居。
1823年 ハイデルベルク大学神学部に入学。
1824年 ベルリン大学に転学。ヘーゲルの講義を聴く。翌年に神学部から哲学部に転部。
1826年 エルランゲン大学に転学。
1828年 哲学博士の学位を授与。翌年、エルランゲン大学の哲学私講師。
1830年 『死と不死にかんする思想』を発表することで、要注意人物に指定される。
1833年 『近代哲学史』(Geschichte der Neuern Philosophie)。
1835年 教授職をえるために奔走するが、得られず。
1837年 ベルタ・レーウと結婚、ブルックベルクへ転居。
1838年 『ピエール・ベール』(Pierre Bayle)。
1839年 長女エレオノーレ誕生、翌年次女マティルデ誕生。
1841年 『キリスト教の本質』。
1843年 『将来の哲学の根本命題』(Vorläufige Thesen zur Reform der Philosophie)。マルクスと書簡を交換し始める。
1846年 自身の手による全集刊行開始。
1848年 ハイデルベルク大学の学生がフォイエルバッハにハイデルベルク大学教授に就任するよう要請。教授就任には失敗するも、大学で連続講義をすることが決定。
1851年 『宗教の本質に関する講演』(Vorlesungen über das Wesen der Religion)。
1857年 『神統記』。
1872年 レッヘンベルクにて死去、68歳。
 


・ベルリン大学の外で

 一般の人々にとって、フォイエルバッハという名は、『資本論』でお馴染みカール・マルクスに影響を与えた哲学者として記憶されているかもしれない。逆にいえば、それ以外の引き出しを持ち合わせている人はほとんどいないだろう。かくいう筆者(荒木)もそのような手合いのひとりにすぎす、彼に興味をもったのは、その当時、大学からハブられて在野研究者として暮らしていたという意外な(?)一面を知ったからにすぎない。

 しかしながら、もしかしたらフォイエルバッハは、この連載「在野研究のススメ」で取り扱う最古の研究者となるかもしれない。というのも、この連載では、近代大学の外部としての在野を考えたいという目的のため、最初の近代大学ことベルリン大学が創設された1810年以降の研究者を取り扱っている。そして、フォイエルバッハが生まれたのは1804年であり、彼がベルリン大学でヘーゲルの講義を受け感激したのは、1824年のこと。つまりフォイエルバッハは近代大学の最初期に生まれた在野研究者だったのだ。

 フォイエルバッハは哲学博士の学位を取得するも、書いた著書のひとつが無神論的でケシカランと評され、公的な教職につくことできず、田舎で燻りながらも黙々と著述活動を続けていた哲学者だった。いってみれば、彼は元祖ポスドクのような人でもあったのだ。これは取り扱わないわけにはいかない。

 伝記で参照したのは宇都宮芳明『フォイエルバッハ』(清水書院、1983)ゲオルク・ビーダーマン『フォイエルバッハ――思想と生涯』(尼寺義弘訳、花伝社、1988)。またインターネットサイト「フォイエルバッハの会」の情報も参考になった。


・学問家族

 フォイエルバッハは元々、学問的に恵まれた環境で育った。父パウルは有名な刑法学者だった。後年フォイエルバッハはこの父の学問的業績をまとめる仕事にも着手している。

 また、兄弟もみなインテリだ。長男ヨゼフはフライブルク大学の古典文献学教授、次男カールは高等学校で数学を教えるかたわら、「フォイエルバッハの定理」を完成させた。三男は法学教授となる。末っ子はフォイエルバッハに傾倒して、その思想をひろく世に紹介するのに活躍した。正に学問家族だ。

 フォイエルバッハは元々、神学について興味をもっていた。もちろん、主著『キリスト教の本質』などから、それはうかがわれる。しかし、その書が一種の宗教批判の精神を宿していても、元々そのような批判的精神が備わっていたのではなかった。最初は単に神学者になりたかったのだ。


・ヘーゲルを聴講する

 そんな彼が一風変わった宗教哲学者になった直接のきっかけは、19歳、ハイデルベルク大学の神学部に入学して受けることになったダウプ(Daub 1765-1836)の授業にあった。ダウプは、ヘーゲル哲学の熱烈な支持者だった。ダウプの勧誘によって二年間ほどハイデルベルク大学に就職していたヘーゲルは、ハイデルベルクを去り、当時ベルリン大学で活動していた。ダウプは大哲学者の偉大さを広める授業をしていたのだ。

 ダウプを仲介して知ったヘーゲル。彼の講義が聞きたくて、フォイエルバッハは父親の反対を押し切り、自分もベルリンに赴く。「僕はハイデルベルグよりもベルリンを、僕のこれ以上の神学的な精神形成および一般的な精神形成のためのいっそう多く合目的的でいっそう多く適当な場所と考えて、復活祭にはハイデルベルグ大学からベルリン大学に転校したいものと願望しているのです」(父宛書簡(1824年1月8日)=『フォイエルバッハ全集』第十八巻、船山信一訳、福村出版、1976、25p)。そして、ベルリンに到着し、ヘーゲルの講義を聴くと、今度は哲学部に転部したくなる。確実に就職できないパターンだ。

 といっても、ベルリンでの勉学は二年ほどしか続かなかった。遊学の学資を提供していた父親、その父を寵愛していたバイエルン国王マクシミリアン一世が亡くなり、援助が途絶えたからだ。フォイエルバッハは、金のかからないエルランゲン大学に移り、単位を取得する。


・神学界からパージされる

 無事、ドクター論文を提出して、フォイエルバッハはエルランゲン大学の私講師となり、哲学の講義を受け持った。その講義のかたわら、著述活動にも力を注ぎ、1830年、26歳、『死と不死にかんする思想――ある思索家の草稿から』をニュルンベルクの本屋から匿名で出版する。しかし、これが大問題であった。これをきっかけにして、フォイエルバッハのアカデミシャンとしてのルートは途絶する。

 どうしてその書物が当時の宗教家たちを怒らせたのだろうか。『死と不死にかんする思想』はキリスト教・プロテスタントの不死信仰(教会ではなく、神人としてのキリストの人格の内面化を通じて永遠の生が手に入る)を否定している。フォイエルバッハによれば、不死信仰に囚われた人間は、彼岸を理想化して、現実を否定する。ここから帰結されるのは現世に絶望したニヒリズムである。

 どんだけニーチェなんだよ、とか思うわけだが、事実、フォイエルバッハの思想は若きニーチェのキリスト教批判にインスピレーションを与えた。彼が18歳のときに書いた「キリスト教について」という文章はほとんどフォイエルバッハの引き写しである、とさえいわれている。

 しかし、そんなだから、当時の神学界にパージされるのは当然だったといえよう。ことの詳細を知った父親からは「二度と公の職にはつけないだろう」と手紙でいわれ、その予言は実際正しかった。在野哲学者の誕生だ。


・ベルタとの結婚

 必死に就職活動するも、無為な日々がすぎていった。1833年、エルランゲン大学の講義を土台にした『近世哲学史』(これは『ピエール・ベール』などと並んで、アカデミックな印象を与えない種々のフォイエルバッハの文章に比べ、哲学史家として学問的な才能を開花させている)を公刊し、ヘーゲル哲学の支持者たちに賛辞をもって迎えられたが、職には結びつかなかった。しかし、1837年、新らしい転機がフォイエルバッハに訪れる。つまりは、ベルタとの結婚であり、ブルックベルクという村での新生活である。この田園生活はその後、20年以上も続くことになる。



「思想家(思惟する者)の自我は、家庭教師または大学の指物師の師匠によって仕上げ鉋をかけられた講壇・他人の現存在を苦痛にも想起させるあらゆるいやな凹凸から浄化された講壇の上の教授として、絶対的精神の役割を演じていました。この役割はヘーゲルにおいて自分の頂点を達成しました。ヘーゲルはドイツの哲学教授の実現された理想であり、ドイツの哲学教授の手本であり、哲学的な校長(中世における修道院所属学校の校長)の手本です」(ヴィルヘルム・ボーリン宛書簡(1860・10・20)=『フォイエルバッハ全集』第十八巻、船山信一訳、福村出版、1976、283p)
 


 翻訳がやけに読みにくいが、要するに、思想家なるもののイメージが講壇哲学者に奪取され、その典型なり理想なりがヘーゲルに指定されてきた、というわけだ。そして、それに比べ…。



「絶対的哲学の講壇は反対に私を、最も深い低劣さと最も深い荒涼さと最も深い暗さとのなかで、しかしまさにこのためにまた幸福な孤独と幸福な独立とのなかで、二十四年間も、村に追放していたのです。そしてその村は一度も教会をもったことがなかったのです。おお、これはなんという驚くべきことであり、またなんという禍いをはらんでいることでしょう!」(ヴィルヘルム・ボーリン宛書簡(1860・10・20)=『フォイエルバッハ全集』第十八巻、船山信一訳、福村出版、1976、283‐284p)
 


 恨み節ガンガンの回想であるが、その長きに渡る田舎生活も決して悪いことばかりではなかった。フォイエルバッハの父は1833年に他界して、その遺産を相続していたが、ベルタとの結婚で家計はさらに飛躍的に向上した。ベルタは製陶工場の共同経営者として、その純益の三分の一を受け取っていたからだ。これにより、フォイエルバッハは著述活動にひらすら専念することができた。妻に寄生するタイプの在野生活だ。

 といっても、フォイエルバッハ自身の著作業も家計に寄与するところがあったようだ。



「一八三三年以来初めて、著作家として公けに熟知されるようになりました。そして、最初の著作書はまさに、いっそう後の諸業績によってそれらの諸業績の諸成果から収穫するために、著者に名声を与えるという目的以外のいかなる目的をももっていません。私は私の最初の諸著書が見出した承認からは正当にも単に、内実の点ではたしかに以前の諸労作に劣らないだろうところの私のいっそう後の諸労作が、出版業者たちによって喜んで受け入れられ、そして適切に謝礼を払われるだろう、ということを推論することができるにすぎません。したがって私は、私またはあたなをだますことなしに、私の著作家活動をいわばまた自分の諸利子をもたらす資本としても評価することができます」(ベルタ・レーウ宛書簡(1835・2・16&17=『フォイエルバッハ全集』第十八巻、船山信一訳、福村出版、1976、112p)
 


 うん、回りくどすぎて、何言ってるか分からん!(やっぱり、翻訳が悪いのか?)


・粛々と研究生活

 田舎でのフォイエルバッハは気さくで、村の農夫たちに尊敬されていた。気象の変化について専門的な知識をもっていたから、農夫たちにとってフォイエルバッハは天気予報士に等しかった。また、田舎にとじこもってるばかりでもなかった。天気の良い日には、町に出かけ、親しい音楽家や開業医と会った。

 そんな環境の中でフォイエルバッハは哲学史書である『ピエール・ベール』を書く。ベールとは一八世紀フランス啓蒙思想の先駆的役割を果たした哲学者で、信仰と理性の間にある矛盾を吟味し続けた。すでに過去に人となっていたベールを忘却から救おうとした仕事だった。

 また、ちょうどそのころハレ大学の私講師をしていたアーノルト・ルーゲ(Arnold Ruge, 1802-1880)から、新進若手グループの機関誌『ハレ年報』の寄稿依頼をもらった。以後、数々の文章を『ハレ年報』に発表するようになった。


・人間は自らの姿の似せて神を造った

 フォイエルバッハ独自の思想を一言で要約すると「人間は自らの姿に似せて神を造った」ということになろう。神学・宗教とはだから本質的には人間学なのだ。こんなだから、彼の思想はしばしば、単なる無神論や唯物論に誤解される。しかし、宗教批判をしても宗教そのものを決して否定しなかったフォイエルバッハにとって、事はそう単純ではない。

 1841年に発表した主著『キリスト教の本質』では、神が人間の類概念であることを明らかにしようとした。人間は他の動物と違い、宗教をもつことができる。その端的な(そしてもっとも原始的な)例示は墓であろうが、墓とは自己が死んでもなお自己が所属することができる場所の象徴である。形而下と形而上、人間はこの二重性を生きる。言い換えれば、個々人の死を超えて尚継続するものを信仰できる。人間はだから可死的な個的存在と、人類という類的存在という二重生活を送っているのだ。ここに人間の本質=宗教=類がある。それこそが、人が「神」と呼んできたものの正体だったのだ。



「われわれは、宗教の内容と対象とが徹頭徹尾人間的なものであることを証明し、神学の秘密は人間学であり神の本質の秘密は人間の本質であるということを証明した」(『キリスト教の本質』=『フォイエルバッハ全集』第十巻、船山信一訳、福村出版、1973、131p)
 


 どっちを向いても人間人間。キリスト教徒じゃないが、こりゃたしかにどっからか怒られそうな主張である。


・『キリスト教の本質』以後

 『キリスト教の本質』のヒットによってフォイエルバッハの名は各地に轟いた。これがきっかけで、あのカール・マルクスと交流をもつようになり、マルクス編集の『独仏年報』の執筆者としての依頼も受けた。しかし結局、フォイエルバッハは『独仏年報』には加入しなかった。その政治的色彩を怪しんだのだ。政治と学問は別、そしてあくまで学問を優先する研究者の姿がここにある。

 『キリスト教の本質』はまた、ハイデルベルクでの講演の機会を彼に与えた。『キリスト教の本質』に感動した学生団体が、フォイエルバッハを大学に招聘しようとする運動を起こし、それは結果叶わなかったけれども、その代わりに宗教哲学に関する講義をしてくれとの依頼が到来した。1848年、44歳のことだ。その講演には大学生はもちろんのこと、労働者をふくめたあらゆる階層の人々が聴講しに来たという。それは『宗教の本質に関する講演』という著作にまとめられた。

 しかし、晩年の1859年になると、ベルタの製陶工場が倒産し、20年以上も住み慣れた愛する土地に別れを告げなければならなかった。一家はニュルンベルクの市外にあるレッヘンベルクという村に移り住んだ。経済的に厳しい状況に陥るフォイエルバッハ。しかし、といっても、友人たちの奔走もあって、彼は「シラー財団」の援助を受けることになった。一家の生計は主として財団によって支えられた。著述業だけに専念し続けたフォイエルバッハであるが、その生涯を振り返ってみれば、経済的な苦労を余り知らなかった稀有な在野哲学者だったようにみえる。


・学びの環境

 フォイエルバッハはハイデルベルク講演である『宗教の本質に関する講演』のなかで、自分の半生を振り返りつつ、田舎という環境の重要性を主張している。



「私には間断ない閑暇が必要でありました。しかし人々はこの閑暇を田舎においてよりもいっそう多くどこで見出しましょうか? 田舎においては人々は、都市生活におけるあらゆる意識的および無意識的な隷属・顧慮・虚栄・憂さ晴らし・奸策・お喋りから解放されて、もっぱら自分たち自身に頼らされているのであります。〔中略〕もし人々が、人々はあらゆる場所において、あらゆる環境において、あらゆる関係および状態において、自由に考え且つ研究することができ、そしてそのためには人間自身の意志以上には何物も必要ではないと信じるならば、そのときはそれは人間性にかんする無知というものであります」(『宗教の本質にかんする講演』=『フォイエルバッハ全集』第十一巻、船山信一訳、福村出版、1973、187p)
 


 実際の田舎生活者のなかには、激怒する人もいるかもしれない文言であるが、都会と田舎の差異はおいておいても、あらゆる環境で勉強ができる、という理想論の空疎さは共有できるのではないか。客観的にみて、フォイエルバッハは環境的に恵まれていた。それは本人と田舎の自然との相性もあったろうし、経済的な貧困を知らないで済んだというのもある。或いは、学者の父をもち、いわゆる文化的資本も恵まれていたようにみえる。

 今日、フォイエルバッハのような充実した環境を獲得できる人間はごくわずかしかいないだろう。元祖ポスドク哲学者から現在のポスドクが学べることは少ない。しかし、アカデミックポストにとっては何の意義もなかった彼の膨大な著作(10冊以上の単著、しかも彼は自身で自分の個人全集を刊行している)には、生涯続いた学問への意志が貫かれている。

 近代大学の黎明期に、その外部で、一人の研究者の悪戦苦闘があったことをここに記しておきたい。