承前

 歯切れのよさに回収されない「ハルカ」の言葉。
 
 今回は「嘆き」という側面について書いてみたいと思う。
 まず、私がかつて書いた文章を引用する。



 取り上げたいのは、『POOL』という曲である。

 『POOL』は、2ndEP『真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。』に収録されている。

 この曲の特徴はサビの部分で「いいだろう いいだろう それで満足か。」が繰り返され、最後は「いいだろう いいだろう それくらいは。」で終わるという点である。

 いいだろう、いいだろうと肯定されるのは書き手の欲望である。

 「いつか書いた歌を燃やしてしまいたい」、「何より先に君を忘れたい」、「何よりもただ、昨日を忘れたい」…。

 単純に歌詞だけを読むと、最後に「いいだろう いいだろう それくらいは。」と書かれており書き手の欲望は肯定されるかのように見える。

 ところがである。
 録音された『POOL』には、サビごとの終わりに、ある言葉(嘆き)が歌われている。

 「いやいや」
 
 この「いやいや」をどう解釈すべきだろうか。

 単純に解釈するなら、「ああ」とか「ええいああ」のような感嘆表現として理解すべきかもしれない。
 しかしながら、この「いやいや」は否定の「いやいや」=否否とも解釈出来はしないだろうか。

 「いいだろう いいだろう それで満足か。いやいや。」
 「いいだろう いいだろう それくらいは。いやいや。」

 前半の肯定があるので「いやいや」は単純な否定表現ではない。
 これは肯定と否定との間を揺らぐ歌い手の欲望を表している。
 
 

 このように、『POOL』という曲においては、「いやいや」という嘆き=否定の言葉が入ることによって一見歯切れがよく見える「ハルカ」の言葉が揺らいでいる。

 さて、ここまで「言葉」と一括りにしてきたが、より正確に言えば、「言葉」には「書かれた言葉」(歌詞)と「歌われた言葉」(音節)とがあり、その二つの言葉の断絶が、歯切れのいい言葉へ亀裂を入れている。

 いま、『POOL』に表れたのはまさに「書かれた言葉」=「いいだろう いいだろう…。」と「歌われた言葉」=「いいだろう いいだろう…。いやいや。」との断絶であった。

 このような「書かれた言葉」と「歌われた言葉」との断絶は他にもいくつか見ることが出来る。



 歌詞には書かれていない言葉が歌われる、あるいは、これは単純に聴き手の錯覚かもしれないが、歌詞とは異なる言葉が歌われているかのような印象を与える箇所は他にもある。

 前者は、『プラスチック・メトロ』の、「ゾンビ」、『MONDAY』の、「いいのに」、「いなくなればいい」など。
 後者は、『ドライアイス』の、「みんな殺して(歌詞は「壊して」)笑ってやるよ」、『アパート』の、「昨夜(ゆうべ)の(歌詞は「夢の」)匂いが漂う朝に」など。

 あと、これは印象以前に完全に僕の聴き間違いだが、『Vanilla』を初めて聴いたとき最後のサビが「許せない 許せない 許してあげない(歌詞は「許してあげたい」)と聴こえ何て救いのない曲だと思った。

 でも、もしかしたら、もしかする。
 


 「言葉にしていく」場合、まずそれは書かれ、そして、歌われる。
 「書かれた言葉」と、「歌われた言葉」との間の断絶が表面化するのはそのときである。

 言葉が歌われるためには、言葉は書かれていなければならない。

 そのため、前回の表現を用いれば、「書かれた言葉」は歌われた時点でつねにすでに表現として成功している。
 しかしながら、「ハルカ」の言葉には、「歌われた言葉」との間だけではなく、「書かれた言葉」と「書かれた言葉」との間にも断絶が生じている。

 次回はそれについて書いてみよう。
 その舞台の場は、『MONDAY』である。

 杏ゝ颯太