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(↑『中河与一全集』は異同が激しく使い物にならなかったので、小説の引用は初出誌を用いた。わざわざ国会図書館でコピー。散財全開)。

 今月、中河与一論第二弾である「懐疑・無意識・伝染――大正期の中河与一文学――」を書いた。第一弾「形式・飛躍・偶然」では、中河の昭和初年代の評論について、具体的にいえば形式主義芸術論(昭和四年周辺)と偶然文学論(昭和一〇年周辺)の連続性について考察した。今回は、それら評論作品の根本的なアイディアの表出として、つまりは中河文学の原質として、大正一〇年の処女作から始まる初期小説群を読解した。文字数は21679字、原稿用紙に直すと54枚程。……長い。目次は以下。


  • 序、偶然性の心中小説――『或る心中の話』『ビスケツトと裁判』
  • 一、懐疑から解釈へ――『祖母』『木枯の日』『義足』『鵞鳥か家鴨か』
  • 二、精神医学的テーマ――『清めの布と希望』『午前の殺人』『黒い影』
  • 三、「無意識」と形式主義とシュルレアリスム
  • 四、原点としての『悩ましき妄想』
  • 五、伝染恐怖の批評性――『彼の憂鬱』『赤き城門』『地獄』『肉親の賦』
 


・伝染的な、余りに伝染的な

 「キタナイ」が口癖で、買ったばかりの着物を出先で脱いで引きずり回しながら帰宅したとか、紙幣をいちいち消毒液で殺菌してたとか、伝説の絶えない中河与一だが、やっとこさ、彼の潔癖症小説について論じることができた。第四章第五章だが、中々満足感がある。とりわけ、潔癖=伝染恐怖が駆り立てる、毒薬と中毒のパラドクス。つまり、穢らわしいものや汚いものからの伝染を避けようと、強力な毒薬(「Hgx」)を使えば使うほど、身体は中毒という別の伝染に身を開かざるをえない。伝染回避の努力は、他の伝染接近の努力に等しい。

 ギリシャ語の「パルマケイア」は治療薬を意味すると同時に毒薬を意味する。薬は毒であり、毒は薬である。この反転可能性を論じたのが有名なデリダ「プラトンのパルマケイアー」だったわけだが、中河の潔癖症小説=伝染恐怖小説は、その代補(supplement)的性格を正に表現している。「アレルギーの方だけを鎮めようとして薬を使うと、免疫の方もやられてしまい、アレルギー性疾患が治まっても感染症が発病することがある」(奥村康『免疫のはなし』、東京図書、1993)。

 このポイントは、寺田寅彦の「支那」人差別や葉山嘉樹の「寄生虫」とも同期する最近の私の最重要論題だと思っている。そんな訳で、課題が一歩前進して、今月はとても嬉しい。


・川勝麻里「一九二〇年代のシュルレアリスム受容と川端康成」

 先行研究で一番興味深かったのは川勝麻里「一九二〇年代のシュルレアリスム受容と川端康成――『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』」(『立教大学日本学研究所年報』、2012)である。川端研究に明るくないので研究者サイトで調べてみたところ、川勝さんは、現在は川端文学の研究を中心に、源氏物語(単著もある)、ジャパニメーションなど広い関心の下で活動されているようだ。「旺文社 赤尾好夫記念賞」という謎(?)の賞も受賞している。

 さて、川勝はこの論文で川端が(これは川端研究では有名らしいが)「代作」を盛んに請け負っていた作家であることに注目し、その「自他融合」性の話をきっかけに、川端のダダイズム・シュルレアリスム受容を問うている。とりわけ、日本のシュルレアリスム受容はアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が翻訳された昭和四年以降だと考えられることが多いが、最近の研究によるとシュルレアリスム絵画ならば、デ・キリコや岡本唐貴など、大正一三年頃からシュルレアリスムに連なるような作風の輸入が認められるという。シュルレアリスムの画家である古賀春江とも親交のあった川端ならば、その大正期初期小説にもその影響が考えられるのではないか? こうして、「夢」や「二重人格」をキーワードに、川勝のスリリングな読解が始まっていく。とても興奮して読んだ今月イチオシ論文である。

 そうそう、当の中河関係で忘れちゃいけないのが、ネットでも読める石川偉子「中河与一年譜――大正四年~昭和三年」(『言語社会』、一橋大学、2008)だ。国文系のひとならば知っているかもしれないが、去年、川端康成の新資料が発見されたというニュースがあった。その発見者が石川さんだ。一橋大学の院生をしているらしい。中河研究はほとんど未開拓の分野であり、若い研究者は極めて貴重な存在だ。いつか一度会ってみたいものだ。


・6月に大阪出張

 そういえば、Twitterでは言及したが、6月14日、大阪教育大学にて、有島武郎研究会での研究発表をすることが正式に決まった。有島武郎の短編『卑怯者』について話す。朝の発表はだいたい人が少ないので、基本的に午後のための前座みたいなものだが、大阪教育大学(=大教大)はなんと『多喜二と埴谷』が初めて図書館入りを果たした(私にとって)記念すべき大学なので、いい機会だからちょっと出張してみようかなと思った次第である。

 大阪を代表する小説家、織田作之助によれば大阪は木がない都だといわれているらしい(「木の都」)。余り西の方に行かないので(前に行ったのは5・6年前、神戸に行ったときか?)、よく知らなかったのだが、Twitterの大阪フォロアーによると、実際にそうらしい。ちょっと面白い。木だけに気にして行ってみようと思う。