(承前)
前回のエントリにおいて、近い過去の僕が書いた文章を引用し、「ハルカ」および「ミユキ」という固有名が表すものをそれぞれ述べた。
もう一度繰り返す。
「ハルカ」は顔を持つ。
すなわち、言葉や姿を通して前景化している状態を指す。
一方、「ミユキ」は顔を持たない。
「ハルカ」の影の役割を担っている。
そして、基本的には「ハルカ」=「ハルカさん」、「ミユキ」=「ミユキさん」であることが多いけれども、必ずしもそうであるわけではない。
事実、私は「ハルカさん」の中に「ミユキ」を見出だした。
ある意味では、強引なこじつけのように見えなくもないと、自分自身でも思うこともある。ただ、このような一見強引にも見える読み込みは、当初の自分自身への反省から来ている。
そのとき、私はハルカさんが歌っていること、あるいは、歌詞として書いていることばかりに目を向けていた。当然のことではあるが、私が歌を聴いたり歌詞を読むのは、当人が歌ったり書いたりしたときからかなりの時間を経てのことである。
つまり、半ば必然的に私は、すでに歌われたもの、書かれたものとしか出会うことが出来ない。
このことはあらゆる表現者の表現物について感じることだが、一度表現されたものはその過程にどれほどの苦労があろうとも、如何にも容易くなされたように見えてしまい、それが出来ないもどかしさに比べれば、もどかしさまで含めて表現してしまえる表現者、表現物はとても恵まれているように思えてしまう。
「世界への違和感」を歯に衣着せることなく言葉にしていくハルカ。その存在自体が「世界への違和感」そのもののようなミユキ
これは、ファーストアルバム『シアノタイプ』に添えられた宇野維正さんのライナーノーツからの言葉である。見逃せないのは、「世界への違和感」に対する「ハルカ」と「ミユキ」の表現方法の違いである。
「歯に衣きせることなく言葉にしていくハルカ」は、それを器用に言葉として表現出来てしまえるのだ。一方、「ミユキ」はそれを言葉には出来ない。故に、その存在自体が「世界への違和感」の表出になる。
違和感を「言葉にしていく」ことは、それを言葉に出来ない者の立場からすると、あまりにも歯切れがよすぎるーー「歯に衣きせることなく」!
しかし、これは一面的な見方だ。
先の言葉を繰り返せば、すでに歌われたこと、書かれたことを中心にした見方でしかない。考えてみれば、それは言葉としてすでに表現されているのだから、歯切れがよく見えて当然である。そして、一度その視点に立ってしまうと、彼女の言葉はつねにすでに歯切れのいいものになる。
しかしながら、言葉とはそのような歯切れのよさだけを表出するものではない。
次回からは、歯切れのよさに回収されない「ハルカ」の言葉ーー「嘆き」、「絶叫」、「沈黙」ーーに焦点を当ててみよう。
あの夏に歯抜けで笑うわたくしと笑う歯抜けを写した手あり
(福島遥「夏の歌集」『空中で平泳ぎ』)
そうです。
私は歯切れがいいだけの女ではありません。
杏ゝ颯太