買わないだろうと思っていた村上春樹の『女のいない男たち』を先程購入し、まえがきと『女のいない男たち』を読んだ。

 買わないだろうと思っていたのには、二つの理由がある。

 まず、最もどうでも良い理由から。

 『文藝春秋』に掲載されたさいに三つの作品(『ドライブ・マイ・カー』、『イエスタデイ』、『木野』)を読んでいたこと。

 次に、最も重要な理由。

 僕はまだ「女のいない男たち」ではないということ。  

 やはり、と言うべきかまえがきにこう書かれていた。


 
本書の場合はより即物的に、文字通り「女のいない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち。(7頁)
 
 

 先述した三作品を読んだとき、僕は「まだこんなこと書いてんのか」ということと、「やはり、村上春樹にとってこの問題は必ず回帰してくる最重要テーマなんだ」という二つの感想を持った。そして、「女のいない男たち」と言う言葉ほどそれを的確に表している言葉はないとも。

 しかしながら、繰り返すようだが、少なくとも村上春樹の言うような意味では、僕はまだ「女のいない男たち」ではない。僕はハルカトミユキについて書いた一つの長い文章の冒頭にこんな言葉を置いている。



 僕はどこまで行っても男です。
 そのどこまで行っても男の僕にとって、あなた達はどこまで行っても女です。
 ごめんなさい。そして、ありがとう。
 
 

 半ば意図的に、書いた日付を記載していたなかで、この冒頭の四行は小林秀雄の引用とともに例外的に日付がない。しかしながら、正確な時期は不明だが、これを書いたのが先述した三作品の何れかを読んだあとだったことだけは確かである。

 「去る」、「去りつつある」と言うことは、少なくともどんなに短い時間であれ女がいたということである。
 
 僕にはまだ、その感覚がない。

 ただ、「女のいない男たち」という言葉自体は違ったようにも読める。
 そもそもの初めから男には女がいないのだと。

 少なくとも現段階で僕がかろうじて歩み寄れるのは、こちらのケースだけである。(作品の方の)『女のいない男たち』では、男と女はセックスをしている。つまり、触れ合っている。そして、それが失われた。しかしながら、少なくとも僕にとって男と女とがセックスをすること、あるいは、セックスをしなくとも触れ合うこと、そして、人と人とが触れ合うことはまったく自明のことではない。

 事実、今の僕にとっては、こちらの方が遥かにフィクションめいている。

 僕は男であり、ハルカトミユキのハルカさんとミユキさんは女である。

 これは最も単純な意味で、ーーつまり、性器の形の違いーー書いている。
 これはもちろんお婆ちゃんにも当てはまる。
 女性器を持った九十歳のお婆ちゃんも女である。

 そういう意味での女について書きたいと、あるときからずっと思っていた。
 自分を投影出来ない相手、むしろ、自分の欲望が剥き出しになってしまうような相手。誰か他の男の経験を同じく男である自分に置き換えるのではなくて、その女との関係性のみが問題になる事態。

 ごめんなさいーーこれは自分の経験に置きなおすことが出来ないということ。
 しかしながら、そのこと自体が僕にとっては歓びでもある。

 だから、ありがとう。

 僕はまだ、「女のいない男たち」ではない。ただの男である。
 
 しかしながら、こう書かれている。



 女のいない男たちになることはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。(279頁)
 


 そして、どうやらそれは男には止めることが不可能らしい。



 ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。(276頁)
 

 
 僕は恐れてしまう。自分も「女のいない男たち」になってしまうことを。
 なぜなら、まだ僕は、「女のいない男たち」ではないけれども、女が現れつつあることは強く実感しているからだ。
 
 女が現れつつあると言っても、その女とセックスをすることも肉体的に触れ合うこともない。僕に出来るのは、半ば妄想とも見えかねない一方的な、しかし、時にそれが妄想ではないんじゃないかと思えることもある不安定で不確かな、コミュニケーション、聴いて書くこと、読んで書くことというただそれだけのことだ。

 そもそも、ハルカトミユキは女ではない。
 女たちだーーこの事実に僕はこれまで何度も何度も感謝した。


 
 彼女は僕を勃起させたりしなかった。彼女はすべての西風をあっさりと凌駕していたからだ。いや、西風ばかりじゃない、すべての方角から吹いてくる、すべての風を打ち消してしまうほど素晴らしかった。そこまで完璧な少女の前で、むさくるしく勃起なんてしていられないじゃないか。そんな気持ちにさせてくれる女の子に出会ったのは、生まれて初めてのことだった。(270頁)
 
 

 彼女と肉体ではなく、言葉を通して出会えたこと。
 彼女が一人ではなかったこと。つまり、女ではなく女たちであったこと。

 何度も何度も感謝する。

 しかしながら、やはり村上春樹が正しいのかもしれない。
 僕の文章は、言葉や歌から必然的に存在そのものへと、その身体へと向かってしまった。所有し、去っていくことが不可能であるのなら、去っていくことだけ真似れば良い。そんな心持ちで、その存在の不在を記述していたのかもしれない。

 しかしながら、まだ現れつつあるだけだ。

 女たちも女もまだ立ち去ったわけでない。

 僕はまだ女のいない男たちではないのだ。

 
 杏ゝ颯太