では、ハルカトミユキについて具体的に書くことにしよう。
まず、ハルカトミユキとは誰か?という疑問が浮かぶように思える。
端的に言えば、ハルカトミユキとは「ハルカ」ト「ミユキ」のことである。
Twitter上では、ハルカトミユキとは「遥富之」という男性アーティストだと思っていたという呟きが一定数あるが、これは誤りだ。実際には、「ハルカ」ト「ミユキ」という二人の女性から成る。
「ハルカトミユキ」とは、一人の人物を指す名前ではない。
しかしながらその一方で、「ハルカトミユキ」とは、単にメンバーである互いの名前を組み合わせただけのものでもない。
ハルカトミユキの「ト=と」。
本連載は、以降基本的にこの「ト=と」を巡るものになるだろう。
僕はこれまでにも何度かハルカトミユキについて書いてきたが、実際に僕が書いたものはすべて「ハルカ」についてだったと言って良い。
これには四つの理由がある。
まず、単純にハルカさんという女性に僕が惹かれていること。
次に、歌詞を書く「ハルカ」、歌を歌う「ハルカ」に一番の魅力を感じていること。
三つ目に、作曲や音楽自体(「ハルカトミユキ」)に関して書く言葉を僕が持っていないということ。
そして最後に、「ハルカ」と「ミユキ」に関する困難のとりあえずの先延ばし。
※改行の位置や表記を一部改めた。
なお、僕の文章から引用する場合は、以降も基本的に同様に扱う。
かつて私は上記のように書いたが、幾つか補足を付け加えたい。
まず、私がこれから何度も使う「ハルカ」、「ミユキ」という名前は、必ずしも「ハルカさん」および「ミユキさん」とイコールではないということ。この点については後述する。
次に、私がこれから書くことは所謂音楽レビューではないということ。
歌詞については何度も言及することになるだろうが、音楽のスタイルやジャンルなどに関してはまったく知識が皆無なので書くことが出来ない。
最後に、これが一番重要な点だが、私が中心に書きたいことはハルカトミユキの「ト=と」についてであるということ。これは、言い換えれば、《「ハルカ」ト「ミユキ」》との間に存在する様々な断絶、複数の表現形式に着目するということである。
と、いきなり書いたところで、大半の人には何が何だかさっぱりだと思う。
そのため、今回はまず「ハルカ」と「ミユキ」という二つの名前を僕がどのような意味合いで用いていたのかを確認したいと思う。
二つyoutubeへのリンクが付いているが、第一回で書いたように、これも文章同様テクストなので必ず観てほしい。
以前、まだデビュー前のハルカさんと思われる人物が一人で歌を歌っている映像(https://www.youtube.com/watch?v=aRHQ_y7QP0s&feature=youtube_gdata_player)を偶然目にした(この映像はほぼ間違いなくハルカさんだと思うが、もし間違っていたらごめんなさい。ただし、これから書くことはこの映像を観る前から、もっと言えば、ハルカトミユキのMV(ミュージック・ヴィデオ)を初めて観たときからずっと感じていたことである)。
そのとき、僕は歌っているハルカさんにではなく、そこに映っているハルカさんに注意が向かった。
確かに、そこにはハルカさんがいる。
だけど、そこに映っていたのは「ミユキ」だった。
『Vanilla』という曲のMV(https://www.youtube.com/watch?v=vm6V4aBU_Ag&feature=youtube_gdata_player)が象徴的だが、ハルカトミユキにおいて、「ミユキ」は影の役割を与えられている。
何の影かと言えば、もちろん「ハルカ」の影だ。
ハルカさんと思われる人物が歌っている映像に映っているのは「ハルカ」ではなく「ミユキ」だと先に書いたけれど、これはもちろんそこで歌っているのが実はミユキさんだと言うことではない。
この映像に映る「ミユキ」とは「顔のない人物」ということである(「顔のない」とは完全に顔が映っていないということではなく、映ってはいるものの髪の毛や視線によって目や表情が隠されている状況を指す)。
ハルカトミユキで、「顔のない」役割を与えられているのはミユキさんである。
ミユキさんは、すべてとは言えないまでもほとんどの写真、映像において、「顔のない」状態にある。
そして、歌声として、歌詞として、映像として前景化するのはことごとく「ハルカ」の方なのだ。
「ハルカ」は顔を持つ。
しかしながら、ハルカトミユキにおいて、「ハルカ」と「ミユキ」は単純な対立関係にあるわけではない。
影のように見える「ミユキ」とは実はハルカさんの反復でもあり、ハルカトミユキにおいて、初めて生まれたものこそが「ハルカ」である。
顔や表情が隠されたのではない。
顔や表情がないことそれ自体が隠されたのだ。
杏ゝ颯太