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↑三浦つとむ『この直言を敢えてする』、こぶし書房、1996。

 三浦つとむ(1911-1989)。哲学者・言語学者。本人は「科学者」の呼称を好んだ。本名は三浦二郎。マルクス・エンゲルスを独学で研究し、弁証法への理解を深める。戦後、スターリンの言語学を批判した時枝誠記を支持し、時枝言語学を批判的に継承する。主著に『哲学入門』(真善美社、1948)、『弁証法はどういう科学か』(講談社、1955)、『日本語はどういう言語か』(講談社、1956)、『認識と言語の理論』(勁草書房、1967-1972)。その他多数。
 

◎三浦つとむ略年譜

1911年 2月15日、東京にて誕生。
1924年 東京府立第六中学校に入学するが、半年で退学。
1925年 東京府立工芸学校印刷するが、翌々年中退。
1928年 久保田商会に就職。その後、フィリップス日本ラジオ株式会社に入社。以後、独学で社会科学やマルクス主義を学ぶ。
1933年 退職し、ガリ版製版で生計を立てる。
1939年 高木場務のペンネームで映画批評を始める。
1948年 日本共産党に入党。論文「弁証法は言語の謎をとく」が、『思想の科学』に掲載。処女出版『哲学入門』。
1950年 『弁証法・いかに学ぶべきか』(双流社)を皮切りに、スターリン批判を展開。翌年、共産党を除名される。
1954年 横須賀壽子と結婚。
1955年 『弁証法はどういう科学か』がベストセラーに。
1956年 『日本語はどういう言語か』、『この直言を敢えてする』(学風書院)、『共産党――この真実をどう見るか』(青春出版社)。
1960年 『指導者の理論』(勁草書房)、『新しいものの見方考え方』(青春出版社)。
1967年 『認識と言語の理論』第一部第二部(勁草書房)。
1970年 『認識と芸術の理論』(勁草書房)。
1972年 『現実・弁証法・言語』(国文社)、『認識と言語の理論』第三部。
1980年 「三浦つとむを囲む会」が結成。
1983年 『三浦つとむ選集』全五巻(勁草書房)。
1989年 10月27日、死去。享年、78歳。
 


・在野研究の王道?

 三浦つとむというインディペンデントな男には「独学者」の肩書きがよく似合う。実際、三浦は中学を中退して以降、いっさい教育機関に頼らず、しかし、マルクス・エンゲルスを中心とした弁証法や唯物論の考え方を確実にマスターしていった。



「学校へろくに行けなかった人間が学問の仕事で活動していると聞くと、意外に思う諸君もあるだろうが、自分が努力して実力を持ってさえいれば、りっぱに学者として活動することができる。学問は、全人類の生活を根本的に革新するという、大きな目的のために奉仕しなければならない。もちろん、私のような人間は大学の教壇に立って講義することもできないし、教授とか助教授とかよばれて月給何万円を支給されることもないが、学問を全人類のために役立てる場所は何も大学の教壇に限られない。むしろ、教壇以外の場所のほうが、ヨリ大切なのである」(『新しいものの見方考え方』、季節社、1998、185p)
 


 在野研究者の鏡のような考え方をする三浦には、言葉の節々に対アカデミシャンの意識が読み取れる。とりわけ、「学歴」と「学問歴」の間に違いを設けようとする文章には、「低脳教授」への負けん気根性がみなぎっている。



「〈学歴〉は学校歴であって、決して学問歴ではなく、〈学歴〉の示す能力は決して学問する能力ではない。戦前の東京帝国大学にも、学生から「低脳教授」とよばれた、〈学歴〉はりっぱでも学問する能力の低い人びとがいた。私は講義のプリントを出版する店で、学生の持ってくるノートを整理したり原紙に製版したりする仕事をやっていたから、多くの講義に目を通したが、さすがにりっぱなものだと頭の下る教授もいれば、何をバカなことをぬけぬけとしゃべっているんだと腹の立つ教授もいて、なるほど「低脳教授」もいるのだなと確認することができた。そのおかげで、東大卒とか大学教授とかいう肩書を開いても、それだけで学問的な能力の持ち主だと思いこむようなことがなくなった」(『文学・哲学・言語』、国文社、1973、11p)
 


 なるほど、大卒の人間から振り返っても、確かに「低脳教授」と聞けば、頭の中でアノ人コノ人の顔が浮かんでくるものである。勿論、今日の高度に専門分化した学問体系において、少し専門が違えば隣の専門の理解がおぼつかなくなることはよくあるもので、彼ら「低脳教授」の主張を学生などはそもそも正確に理解していないことは多々ある。

 しかし何にせよ、三浦が偉かったのはそのような「低脳教授」の「低脳」ぶりを直視しても、恨み節を漏らさず「全人類の生活を根本的に革新するという、大きな目的のために奉仕」し続けたということだ。

 三浦を読んでいて、私が思ったのは、(変な言い方だが)これぞ在野研究の王道ではあるまいか、ということだ。仕事と研究の両立、妥協なき批判精神、領域横断性、三浦の人生は研究生活として優れたバランスを見せている。伝記的事実で主として参照したのは、「私の独学について――ツルカメ算と探偵小説からの出発」(『三浦つとむ選集』第一巻収、勁草書房、1983)だ。


・算数=ミステリーからの出発

 三浦が自身の「独学」の出発点に位置づけるのは、小学校での算数の計算問題だった。なぜか。算数の問題は、三浦にとって当時愛好していた様々な探偵小説(とりわけ『アルセーヌ・ルパン』シリーズ)やミステリー映画(『13の秘密』や『鉄の爪』)と同じ「推理」力を要求していたからだ。


「私が独学への道へふみ出した理由はすこぶる簡単で、小学校で算術の応用問題を解くうちに、映画や立川文庫と同じような楽しさおもしろさを感じたところにはじまっている」(4p)
 

 算数=ミステリー。「謎解き」という同類項、似たもの同士として認識された三浦の学問への親近感は「中学入学試験に出た難問題を集めた厚い問題集」へ向かわせる。それを見ていた小学校教師は、三浦を中学に入れるように三浦母に説得する。が、本人は算数以外やる気がまったくなかった。それ故、経済的悪状況も重なって、せっかく入った中学も半年で中退してしまう。


・マルクス・エンゲルスと出会う

 三浦の兄は印刷工をしており、その職場の仲間に感化され左翼がかった思想の持ち主だった。学校をやめ働きにでた三浦は、そんな兄の本棚にあったマルクス・エンゲルス全集を手に取る。そして、そのなかに「小学生からの謎解きの楽しみと社会科学の研究が結びつく契機」(6p)を見つけ出す。



「エンゲルスの『反デューリング論』『フォイエルバッハ論』で弁証法の説明を読むうちに、ツルカメ算のまわり道の論理も、ポオが『モルグ街の殺人事件』や『ぬすまれた手紙』で論じている謎解きの方法論も、みな弁証法の具体的なありかただと気づいたのである。弁証法が優れた武器だといわれているのも納得できたし、自分もそれなりに新しい社会科学を創造できるはずだと、学問への道が開ける思いでもあった」(6p)
 


 当然のことながら、この弁証法への興味は、彼自身の左傾に、そしてベストセラー作となって著述で飯が食えるようになった主著『弁証法はどういう科学か』の仕事へとつながっていく。といっても、三浦はマルクス・エンゲルスを研究しながらも、その真摯さから共産党の諸理論を批判した結果、戦後左翼共同体からパージされてしまうのだが。


・ガリ版の仕事

 就職しても長続きしなかった三浦は、その代わりに1935年から1955年まで、自宅で半日ガリ版の製版の仕事をこなして生活費を稼ぎ、あとの時間を自身の勉強に費やした。戦争が始まり、途中海軍に徴用されても、ガリ版の仕事はやめなかった。徴用工員の賃金は余りにも低かったからだ。



「労働者哲学者ディーツゲンは、なめし皮工として半日働き、あとの半日を研究にあてたという。吉本隆明は、特許事務所の書類の翻訳で一日おきに出勤し、その間に自分のやりたい仕事をした。そして私にしても、フリーの謄写版の製版工として家で半日間鉄筆をにぎり、あとの半日を研究にあてていた」(『文学・哲学・言語』、147p)
 


 「昔の仕事」(『三浦つとむ選集』第一巻収)と題して、三浦は次のような回想も記している。



「謄写版の製版には仕事の楽しみというものがほとんどありません。私の仕事が気に入って「自分の店をもたないか、仕事も世話してあげる。」とすすめてくれた人もあったが、そんなことをしたら、収入は増えるだろうが勉強する時間がなくなってしまうので、店を持つ気にはならなかった」(「昔の仕事」=『三浦つとむ選集』第一巻収、238p)
 


 しかし面白いこともないではなかった。戦争が始まり、軍関係のマル秘印刷物の製版を手がけたことで、そこで三浦は軍の秘密情報を手に入れ、一人興奮したこともあった。



「中には戦争の見とおしを論じて敗北と断じたものもあれば、ヘーゲルを引用して戦争を合理化した著名な大学教授の原稿もあり、反ナチスの書『吸血鬼の経済』の訳本もありました。日本は結局大陸で西からやって来るドイツ軍と対決することになるだろうという考えが陸軍にはあったらしい」(『三浦つとむ選集』第一巻、238p)
 


・論文「弁証法は言語の謎をとく」発表

 1939年辺りからペンネームを用い映画批評を書いていた三浦は、それだけではあきらたらなくなったのか、戦後から、長年勉強していた弁証法や唯物論の論文を発表したいと思うようになる。最初に現れたその成果は、デビュー論文「弁証法は言語の謎をとく――言語学批判序説――」(1948年)で、これは鶴見俊輔(批評家、1922‐)が責任編集をしていた『思想の科学』に掲載された

 ちなみに、鶴見俊輔は同年に出た三浦の最初の著作『哲学入門』を褒めた数少ない知識人だった。これは哲学の啓蒙書で、その入門性から専門家の間では歯牙にもかけられなかったから、鶴見の高評価は随分三浦を激励したようだ。

 処女論文の冒頭で、三浦は「ラジオ」を意味する英単語が沢山あることに注目する。radio、wiereless、tube、valve……。しかし、言語の基礎にはそれに対応する現実がなければならず、その現実を直視することなしに言語学の革新はありえないのではないか。しかも現実というのは固定してない。停止してない。それは変化する現実であり、正反合のプロセスを踏む「弁証法」を用いてでしか捉えることができないのではないか。ここに三浦言語学の基本的発想がある。難しくいうと次のようになる。



「言語は、現象において個別的なものがそれ自身一般的であることを人間が認識するとき発生の可能性が与えられたものというべく、以後現実の構成段階をその平面に進みあるいは立体にたどつて、一般的な面での認識が発展してゆくことにより発展してゆくものである」(『思想の科学』、1948、21p)
 

 言語は個別の事物なしには成立しないが、個別の物が単に個々名づけられていても言語とはいえない。それは一般的な平面のもと共有されていなければならない。個別でありかつ一般である、言語はそのような矛盾をはらんでいる。矛盾を原動力として進行する「弁証法」が要請される所以だ。


・時枝誠記を支持する

 このような三浦の言語観は、言語過程説で知られる国語学者・時枝誠記(1900‐1967)への応援と、それと同時に行われたスターリン言語学への批判を実行させる。スターリンの言語学は、言語の上部構造性(イデオロギー性や観念性)を否定する。上部構造ならば、土台=下部構造(例、経済構造)の変化に連動するはずだが、そうではなく、スターリンによれば言語は単なる「機械」や「道具」にすぎない、とされる。ロシア革命があろうがロシア語は変わらない。

 この言語観を日本の共産党は神聖視し、聖典、金科玉条として取り扱っていた。これに批判を加えたのが時枝誠記だ。



「言語が社会成員のここを離れて、社会の共通用具として存在するといふことは、極めて比喩的に、或は特別の条件を付して承認出来ることであって、実際は、言語は社会成員の個々の主体的活動としてのみ成立することが出来るものである」(時枝誠記「スターリン『言語学におけるマルクス主義』に関して」、『中央公論』、1950・10)
 


 簡単にいえば、時枝言語学は言語の客観的実在=「機械」ではなく、誰が誰に対して何をどう言ったか、という主体の認識=表現の過程を重視した。そして、これに三浦も同調する。つまり、主客の往還関係のなかで言語が生成するという主張に、三浦の「弁証法」的言語観がピタリと適合したのだ。スターリン言語学は「形式主義」的すぎるのだ。この問題は亀井秀雄のウェブサイト「亀井秀雄の発言:国民文学論争と弁証法 I 章」が参考になる。

 こうして三浦は、時枝支持をきっかけに当時日本共産党の圧倒的支配下にあった民主主義科学者協会(略して民科)から「異分子」扱いされて、結果、そこから除名されている。



「四六年に民主主義科学者協会が結成され、私も会員の一人となったが、指導的な党員学者と理論的に対立し、異端分子になった。学者には私のような経歴の者はなく、東大や京大の出身ではあるが学問的な訓練を欠いており、猜疑心はあっても懐疑精神はないように思われた。私に対して、何人党員を獲得したかと質問はしたが、何を研究しているかとは質問されなかった」(11p)
 


 戦前共産党に関する本(『小林多喜二と埴谷雄高』)を書いた人間からみると、どうして左翼というものは仲間と仲良くできないものか、とほとほと不思議に思うが、とにもかくにも、三浦もまた学問的な不真面目さ、相互不信の雰囲気、党員ゲットだぜ的なノリについて行けなかったのだった。ソシュールの翻訳・紹介をしたことで有名な小林英夫(1903‐1978)もまた、左翼共同体の影響下にありスターリン言語学を批判できなかったことを考えれば、「低脳教授」の体験はこういう処にも認められるのだろう。


・「立ち読み」の達人

 金も権力も暇も(マルクス主義者がいうところの)「同志」もない三浦は、自然、サバイバル学問の方法論を磨く必要に駆られていただろう。「できるだけ短い時間で相当な収入が得られるような、しかもあまり頭脳に負担をかけないような職業」を選択しなければならないし、「参考書や雑誌を買うのにまわせる金は乏しい」悪条件にも耐えなければならない(12p)。学者と違って図書館の利用にも制限がつく。

 そんな中、三浦が編み出した在野研究の方法論の一つに、「立ち読み」がある。



「目次を開いて手早く読む必要のある部分を探し出し、そこを斜めに読みとっていくのだが、これも綱わたりと同じで訓練を重ねると達人になる。目次を開くとすぐ必要な部分をかぎわけられ、斜めに読んでいるうちにさきに何が書いてあるか見当がつく。私は本や雑誌を買ってから読むのではなく、読んでから買う。立ち読みで必要な部分を読んだ上で、これは優れた内容だから十分検討しようとか、ひどい内容だから批判を書かなければならないとか、善悪いずれにしても買う必要があると思われるものだけを買う。それ以外は立ち読みで十分である」(12p)
 


 哲学の達人…ではなく、立ち読みの達人こと三浦つとむ、ここにあり。しかしながら、文系研究者ならば三浦の言っていることも少なからず共感できるに違いない。ある分野である程度熟練していくと、頁に並んでいる固有名を拾い読みむだけで、本全体の内容の結構なところまでが予想でき、実際に当たったりするものだ。読者を狭い範囲でしか想定していない専門書は、そのぶん、一冊が異様に高かったりする。ホイホイと買えるものではない。「立ち読み」技術は確かに、在野研究の重要な方法論である気がする。私自身、必要な本は必ず図書館で内容を確認してから購入するようにしているのでよく分かる。


・吉本隆明の雑誌『試行』に寄稿

 在野研究の難問はまだある。発表媒体だ。
 
 

「成果を自分の頭の中にしまっておいても意味がないので、何としてでも公けにしなければならない場合が多いし、公けにしておけばたとえ現在非難され袋だたきになったとしても、どこかに誰か理解してくれる者がいるだろうとか、死んだあとでかならず理解し役立ててくれる人びとが現れるだろうとか、期待することができる。かつての私のような、大学の紀要や学会の会誌など専門的な論文を発表する機関が使えず、自費出版する費用も持たないために、せっかくの成果を公けにできないで苦しんでいる学者もほかにいるにちがいない」(13p)
 


 しかし、三浦は発表媒体(メディア)の点で、幸運を得た。つまり、同じく在野の独学者であった吉本隆明、彼が発行していた雑誌『試行』に発表する機会を得、十年以上欠かさず長い論文を発表することができたのだ。吉本とは時枝評価という点で同調し、友情関係も結んだ。



「この雑誌は一円の原稿料を出すわけでもないし、執筆者には二部掲載誌を渡すだけでその他に何の特権もないが、われわれは最上の力作を寄稿するだけでなく事務的な仕事も手伝っている。寄稿者の仕事の心がまえを聞くならば、論文や小説が金にならないならそのことを計算に入れて生活の設計をするだけさ、と答えるにちがいない」(『文学・哲学・言語』、146p)
 


 「そのことを計算に入れて生活の設計をするだけさ」。カ、カッコイイ……。


・二者択一からの脱却

 三浦つとむは生涯独学者を貫いた。しかも、しばしばみられる家族寄生型の在野研究者と違って、彼は家族を養う生活費を稼ぎながら勉強を続けた研究者だった。研究と生活、理想と現実、思考と身体、これら対立する二項をどう調停し、両立可能な状態に導くのか。それこそが、三浦の在野生活で学ぶべき一番のポイントかもしれない。



「自分が働いて自分自身や家族を養わなければならない立場にいるから、金になる仕事をやらなければならないのに、自分がどうしてもやりたいのは金にならぬ仕事だというのは、一つの矛盾である、私もこの矛盾の担い手であった。この場合には、あれかこれかという二者択一では解決にならない。やりたい仕事だけやっていたのでは一家が餓死しなければならぬから、それは不可能であるが、だからといってやりたい仕事を投げすててしまったのでは生きがいがなくなってしまうから、そういうわけにはいかない。そこで、金になる仕事と金にならない仕事と、対立した二種類の仕事を何とかうまく両立させる方法はないものかと頭をしぼるようになる」(『文学・哲学・言語』、146p)
 


 両立の努力は決して、中途半端や生半可や曖昧さの精神の現れではない。不可避的に襲って来る様々な制限に条件づけられながらも、程度的に、つまりは1にならずとも0.1や0.2を積み重ねていく小数点的な営みこそ、両立の努力の本質である。夢がサヴァイヴァルするには現実に寄生するという雑居的な様相が必要だ。

 どんな夢にも、現実とのネゴシエーションという政治的戦略が必要だ。ネゴシエーション次第では、夢は全てではないにしろ、程度的に実現する。それは在野の希望である。マルクス・エンゲルスから出発した三浦つとむは、自身の生の政治性についても敏感な感覚を発揮した研究者として、来るべき在野研究者のお手本のように捉え直すことができるはずだ。

※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。