(承前)

 「ハルカトミユキはすばらしい!」と唯一語ることの出来ない相手は、他ならぬハルカトミユキである。 

 前回の終わりに、私はそう書いた。それには理由があるとも。
 簡単に言えば、私は怖いのだ。
 
 例えば、こんな風に思われてしまうのが。


みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする

みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつてかまはないのだ

それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る

中原中也「詩人は辛い」『新編 中原中也全集第一巻 詩1』角川書店、2000年、339-340頁
 
 
 
 私は当人に感想を伝えるのが怖い。

「すばらしい!」「好き!」「良い!」
 
 何て凡庸な言葉なんだろう。

 個人の拍手は、拍手全体には勝てないのだろうか?
 結局、その音は、拍手そのものにかき消されてしまうのだろうか?
 
 しかし、私に出来ることと言えば、せいぜい少しでも大きな音で拍手をすること、あるいは、心を込めて拍手をすること、それしかないようにも思える。
 
 好意的表現を表明することにおいて、何よりも恐ろしいのはろくに読んだり聴いたりしていなくても固有名やアーティスト名さえ知っていれば簡単に誰でも言えてしまえるということで、言い換えれば、具体的に語るという作業がまったく必要ないということだ。
 
 ましてや、拍手は然るべきタイミングに手を動かすだけで良い。

 けれども、だからと言ってそれを一概に否定することも出来ない(私だって小林秀雄も中原中也もろくに読んでないし、そもそもちゃんと読んだものなんて一つもない)。
 すべて知っているわけではないけれども、目の前の言葉、目の前の音楽に感動した。すばらしい!と思った。だから、そう言った。だから、拍手をした。それだけのことではないか?それで充分ではないか?それ以外にどんな方法があると言うのか?もしかしたら、より言葉に心を込め、大きな拍手を送ることは、そのような断片的で不完全な好意や感動の積み重ねの上にしかないのかもしれない。
 
 自分の声や音がそのような一部になってしまうということ。
 あるいは、そのような一部でしかないことを、その一部であることとして捉え直すこと。
 どちらも、今の私には困難である。
 
 同じ言葉、同じ動作なのに、それがまったく同じだとは思えないということが日常的によくある。

 僕も相手も楽しいと思っている。
 けれども、相手の方が楽しそうに見える。
 僕も相手も拍手をしている。
 なのに、相手の拍手の方が力強く聴こえる。
 そして、僕も相手もすばらしい!と言っている。
 が、相手の方がすばらしさを知っているような気がする。

 同じ思い、同じ動作、同じ言葉なのに重みが違う。
 
 ああ、僕もそんな重みのある言動を!

 しかし、自分の思い、動作、言葉はいつまで経っても薄っぺらである。
 
 先に私は、具体的に語らなくても、具体的に語れなくても、好意的表現そのものは可能なのだと書いた。そして、感動さえあればそれでいいのではないか、とも。
 
 もちろん、それでも良いと思う。

 しかしながら、私はそれを何とか具体的に書いてみたいのだ。
 私がかつて書いていたのも、何とかしてその好意、感動を具体的に書きたい、そして、もし具体的に書ければ凡庸な好意的表現に多少なりとも重みを加えることが出来るのではないか。そんな願いからだった。

 この連載では、ここまでハルカトミユキについて具体的には何も書いてこなかった。具体的に書かずにどこまで書けるだろうか、何故具体的に書くのだろうか、そんなことを考えながら書いてもいた。
 
 ある意味では、具体的に書かない方が楽だと思う。
 具体的に書こうがそうしまいが、最初の一言、最後の一言は変わらないのだから。

「ハルカトミユキはすばらしい!」

「ありがとう!ハルカトミユキ」

 この二言に尽きる。

 しかしながら、まだ私はハルカトミユキに向かって堂々とそう伝えることは出来ない。
 具体的に書くことで、その薄っぺらい私の言葉に何とか重みを与えたい。

 次回からはハルカトミユキについて具体的に書いていこうと思う。
 かつての僕の言葉を頼りにして。

 杏ゝ颯太