日本では2014年、アメリカでは2013年に公開された英米合作映画です。監督は気鋭のスティーブ・マックイーンで、主人公をキウェテル・イジョフォーが演じました。アカデミー作品賞と、助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)で二冠を獲得、ゴールデングローブ賞など他にも受賞多数で、映画好きなら見ていなくても気になっていた人は多いのではないでしょうか。
原作は1853年に発表されたソロモン・ノーサップの『Twelve Years a Slave』。著者自身が奴隷として過ごした12年間を綴った体験記です。 以下でネタバレもしますが、各所で紹介されている映画ですし、このようなネタバレでこの映画の本質的な面白さ(「面白い」というと語弊があるかもしれませんが)は少しも損なわれないので安心して下さい。
あらすじをざっくりと紹介すると、まず物語はニューヨークに住む自由黒人で愛する妻と二人の子を持つバイオリン奏者のノーサップ(イジョフォー)が、仕事を持ち掛けられた先のワシントンで一服盛られるところから始まります。そしてそのまま南部の農場に売られ、12年間の長きを奴隷として過ごした後に家族のもとに帰還して終わります。
《善人》と《常識世界》
この映画が何処まで原作に忠実で、何処まで事実に迫っているのかについては分かりません が、ノーサップが売られたアメリカ南部の《常識世界》には非常にリアリティーがあります。その常識世界とは、白人にとって黒人は《所有物》であり、《財産》でしかないという世界の事です。ノーサップはまず、農場主フォード(ベネディクト・カンバーバッチ)に売られます。これが如何にも教養がありそうな好人物なんです。彼は母子の奴隷を離れ離れにさせたくないと案じたり、白人大工のティビッツ(ポール・ダノ)の反対にも関わらず、ノーサップの案を受け入れて作業を進める公平さを見せたり、ノーサップにバイオリンをプレゼントしたり、所有する奴隷達に聖書を読み聞かせたりもしま す。
あまりに《善い人》に見えるので、ノーサップは夢を見てしまいます。 「フォードは自分の境遇を知れば助けてくれるんじゃないか?家族の元に帰れるんじゃないか?」しかし結果として、ノーサップの告白にフォードは耳をふさぎました。この映画には他にも、黒人奴隷を雇う《善人》が出てきま す。 果たして、《奴隷を売り買いする善人》という、現代的な感覚で言えば理解し難い人間像は本当に成立するんでしょうか?そして、《奴隷を売り買いするのは悪人》であるならば、なぜこのフォードのような農場主が存在するんでしょうか?
ノーサップはティビッツに目の敵にされて事ある毎に絡まれますが、ある時その場の勢いで逆に組み伏せてしまいます。そして、その腹いせにティビッツによってノーサップには《罰》が与えられるんですが、このシーンが凄いんです。このシーンがそこにある《常識世界》を見事に現しているんです。
木の枝から、足をピンと伸ばしてつま先がギリギリ付くという程度の高さに縄で首を吊られたノーサップが、苦しみながら、おっとっと、おっとっと、そういう風に足を躍らせている非常に長い時間、その背景では奴隷達が綿花を摘み、その子供達は無邪気に走り回って遊び、農場主の妻らは優雅に行き過ぎるんです。強い日差しを受けて蠢くその背景と首を吊られたノーサップのコントラストが非常に印象的なんですが、スクリーンを覗くこちらからではなく、そこで生活する彼等にとっては、《罰を受ける黒人》こそが単なる背景でしかないのです。
そして結局、フォードは扱いに困ったノーサップを《黒人には容赦ない男》であるエップス(マイケル・ファスベンダー)に売る事に決めました。一つ書いておきたいのは、フォードがそう判断する際の苦悩と苛立ちに満ちた表情とその態度です。あれ程ノーサップに真摯に対応してきたフォード の、「自分が自分でいられない」というような、その時の表情、狼狽する彼の姿です。
フォードは一体何に苦悩したんでしょうか?
フォードにとっても、ノーサップは単なる《所有物》でしかなかったんでしょうか??
「すまなかった」の意味
エップスは非情な男です。ノーサップは彼の元から何度か脱出を試みて失敗しますが、最終的にそれはなんとか成功して家族のもとに帰ります。感動的なラスト、と言って良いのかもしれません。しかし家族に対するその第一声は「すまなかった」なんですね。謝るんです、家族に。妻は「あなたが悪いんじゃないわ」と慰めます。当然です。でもその謝罪は、家族に向けられたものでありなが ら、それだけではないんですね。
ノーサップは、エップスに雇われている放浪の大工バス(ブラッド・ピット)に、ニューヨークの友人にあてた手紙を託します。脱出への期待を込めた手紙です。その後、友人が保安官と共にノーサップの自由人証明書を持って農場にやってきます。ノーサップは友人と抱き合い、馬車に乗り込みます。手紙は望んだ通りの結果をもたらしてくれたのです。でも、「そうだ」と思い直して振り返ると、そこにはノーサップを慕う若い女、パッツィー(ルピタ・ニョンゴ)が居ます。ノーサップは馬車を駆け降りてパッツィーと抱き合うと、(一つ間を置き)くるりと背を向けて再び馬車に乗り込みます。背後でパッツィーは泣き崩れます。ノーサップは振り返りません。ノーサップの背後にあるのは地獄で す。パッツィーは毎夜のようにエップスに犯され、嫉妬に狂った妻の指図の鞭打ちで背中をズタズタにされています。一度はノーサップに「殺してくれ」と頼んだ事もありました。
ノーサップは、その地獄から逃げ出したんですね。地獄はそこに温存されたままであるにも関わらず、そこを共に過ごした仲間の奴隷達に背を向けて、『自分は自由黒人だから』と背を向けて逃げ出したんです。それが最善の選択であるとしても、そうするべきだとしても、それがノーサップの背負うべき運命ではなかったとしても、彼はやっぱり逃げ出したんですね。だから、「すまなかった」なんですね。
俳優陣は皆素晴らしい演技を……いや、バス役のブラピだけはかなり違和感(大工なのにあまり日焼けしてません)がありますが、それは時代を超越しているかのような、自由主義者的なキャラクター設定にもあるのでしょう。とはいえ、このバスという人物は原作にも登場するらしく、その原作自体も歴史家の検証によって事実性がある程度確かめられているそうです(それと、ブラピの名誉の為に、マックイーン監督による「ブラッドが参加しなかったら、この映画は製作されなかったと思 う」という言葉も紹介しておきます→公式ウェブサイト「PRODUCTION NOTE」)。
最後に、Wikipediaからになりますが、以下の二つのエピソードも引用しておきます。
2014年1月6日に行われた第79回ニューヨーク映画批評家協会賞の授賞式におい て、監督賞を受賞したスティーブ・マックイーンがスピーチをしていたところ、協会員の一人である『CityArts』のアルモンド・ホワイトが野次を飛ばした。しかし、マックイーンは何事もなかったかのようにスピーチを続けた。この件に関して、協会は謝罪の意を表明している。後日、ホワイトは協会から除名された。なお、ホワイトは野次を飛ばしていないと主張している。
(Wikipedia「それでも夜は明ける」より、【騒動】から。)
俳優のサミュエル・L・ジャクソンは「『それでも夜は明ける』こそ、アメリカの映画界が人種差別に真摯に向き合おうとしていないことを証明している。」と述べた。その根拠として「もし、アフリカ系アメリカ人の監督が本作を監督したいといっても、アメリカの負の歴史を描くことにスタジオが難色を示すであろうこと」を挙げた。また、「過去の奴隷の解放を描いた本作よりも、現代における理不尽な黒人殺害事件を描いた『フルートベール駅で』を作ることの方が勇気のいることだ」とも述べている。
(Wikipedia「それでも夜は明ける」より、【著名人の反応】から。)
・・・・・・という事で、次回は『フルートベール駅で』を紹介しようと思います。