承前) 

 前回の末尾にも引用した言葉だが、小林秀雄によると、すばらしい!と言うことは溜息そのものである。

(以下、再掲)


趣味のない批評家、つまり良心のない批評家は如何なる作品の前に立っても驚かぬ。何故って徐にポケットから物差を索り出せばよいからである。だが少しでも良心をもつ批評家は物差を出すのが恥ずかしい、だから素手で行こうとする。処が途中で止って了う。これから先は兎や角言う可きでない、すばらしい!と溜息なんか吐いて了う。何故君は口から出ようとする溜息をじっと怺えてみないのか?君の愛と情熱との不足が探求の誠実を奪うのだ。若し君が前にした天才の情熱の百分の一でも所有していたなら、君は彼の魂の理論を了解するのである。何故って君の前にある作品を創ったものは鬼でもなければ魔でもないからである。この時君に溜息をする暇があるだろうか?

(小林秀雄「測鉛Ⅱ」『小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠』、新潮社、2002年、110頁)
 


 私はこのような、すばらしい!と溜息との同一視には両義的である。そのため、まずは一言堂々と言わせて頂きたい。

 ハルカトミユキはすばらしい!
 
 しかしながらその一方で、「何故君は口から出ようとする溜息をじっと怺えてみないのか?」、「君に溜息をする暇があるだろうか?」という問いかけや全体の論旨については賛同したいと思う。事実、この連載は言うまでもなくハルカトミユキについて書くことそれ自体がこの問いかけに大いに触発されている。
  すばらしい!と溜息を吐いて沈黙してしまわないこと。その一言で思考停止しないこと。そこから出発すること。これが肝要だ。  

 けれども、現在の私たちは仮に何かをすばらしい!と表明するにしても、その表明の唯一の支えである当の言葉すら使わずにそれを表明することが出来てしまえる状況にある。

 どういうことだろうか?

 私がハルカトミユキという存在について知ったのはTwitterのアクティビティ画面に、ーーもちろん、私のスクロールによってーー、流れてきたある対談記事がきっかけだった。以降、彼女たちの情報、彼女たちについての情報は基本的にTwitterで得ることになったのだが、そこでその具体例に遭遇した。

 Twitterでは各自のアカウントごとに自己紹介を書くスペースが設けられているが、そこに「ハルカトミユキ」というアーティスト名だけが書きこまれているのだ。

 例えばこんな具合である。

「杏ゝ颯太。二十二歳。乙女座。ハルカトミユキ/plenty/千葉雅也」
 
 あくまでも私の経験からでしかないのだが、上記のようなプロフィール上の固有名やアーティスト名の羅列は「僕の/私の好きなもの=すばらしい!と僕が/私が思うものリスト」を意味する(小林秀雄のすばらしい!という言葉から出発したため、前半では意識的に使用を控えていたが、私が考えたいのは「好き!」「良い!」も含めた好意的表現全般についてである)。  

 このように、少なくともTwitter上では、すばらしい!と表明するさいにはすばらしい!という言葉自体が省略可能=不必要になる。
  すばらしい!という言葉自体が消え去る一方で、同じ場所ではすばらしい!の終わりなき増殖が発生している。

「ハルカトミユキ好き!」
「ハルカトミユキ良い!」
「ハルカトミユキすばらしい!」

 個体間の区別、発言の日時が特定出来ない数々の言葉たち。
 もちろん、私自身もそのような好意的表現機械の一部である。

 Twitterで彼女たちについて好意的な表現を用いて呟いたり、友人や家族に「ハルカトミユキめっちゃ良いよ!」とテンション高く話しかけ、おすすめをする。初めに宣言したように、「ハルカトミユキはすばらしい!」と僕は思っているのだから当然と言えば当然ではあるが。    

 しかし。
 そう、しかし…。
 私には堂々と「ハルカトミユキはすばらしい!」と言えない相手がいる。
 
 その相手とは、他でもないハルカトミユキである。

 けれども、堂々と「ハルカトミユキはすばらしい!」と言えないのは、自分が好意を抱いている相手にその想いを伝えることが恥ずかしいからではもちろんない(いや、それも少しはあるかもしれないが…)。
 
 それには別の理由があるのだ。
 次回は、その理由を説明するところから始めたい。

 杏ゝ颯太