En-Sophの編集者も書いていると一部で話題になっている『Witchenkare』第五号を読んだ(ちなみに第四号にはエンソフの首領こと、橋本浩さんが寄稿している)。雑誌のコンセプトの説明そのものは、その執筆者自身が的確に解説してくれているので、一々言及しない(といっても、私はずっと「台所まわり」に関する料理雑誌だと思っていたが、実のところまったく違った)。小説・エッセイ・評論など34のコンテンツすべてを読んだので、そのうち3つを選んで少し感想を述べたい。コメントするのは、柳瀬博一さん、北條一浩さん、藤森陽子さんのものだ。
・柳瀬博一「16号線は日本人である。序論」
「人間の「文明のかたち」を規定しているのは、「地形」である」という言葉から始まるこの小論は、「太平洋に道を開いた馬蹄形の半環状線」である国道16号線こそが日本の歴史や文化を実質的に規定してきたのだ、という極めて壮大かつスリリングな仮説を提唱してみせる。
最近、有島武郎の地理学教養を研究しようと思って、ブラーシュやルクリュといった人文地理学の書物を読んでいる私にとって、これはとても刺激的な仮説だった。人文地理学には、環境決定論(人間は地理環境に規定されるとする立場、ラッツェルやルクリュ)と環境可能論(人間が環境に対して積極的に働きかけることができるとする立場、ブラーシュやフェーブル)という異なる学説の対立があるそうだが、柳瀬の記述は明らかに環境決定論に基づいているようにみえる。なにせ、柳瀬によれば「16号線のかたち」は「このくにのかたち」でさえあるのだから。
勿論、このような発想は日本のことだけに限定されない。近代でいち早く「コスモポリタニズム」の思想を、そして「訪問権」(今でいうパスポートの考え方)を構想したイマヌエル・カントがドイツの港町ケーニスベルク出身であったことを想起してもいい。カントは旅することを嫌ったが、そんなことをせずとも彼の眼には、万国からやってくる船舶が次々と到着し、そして出発していく港という(一国内にも関わらず局所的には)〈世界〉的な場所が写っていたはずだ。『純粋理性批判』にも登場する「海辺」こそ、カントの思想の根幹を成している。そんなことも思い出した。
・北條一浩「地上から5cm浮いていたあの時代のこと」
田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1981)から30年以上の歳月が経過し、2013年秋『33年後のなんとなく、クリスタル』の連載、即ち田中康夫17年ぶりの小説が始まる。主観的な時の経過を含んだ回想的文芸批評。
筆者の文章がどうのというより、まず第一に、田中康夫、お前いまそんなことやってたのかっ!と。川上弘美『神様2011』的な何かなのだろうか…なんというか、口篭ってしまう。ちょっ、おま…的な。『なんとなくクリスタル』をそれこそ「なんとなく」速読したことしかなく、これから先ちゃんと読むことも決してないだろう世代(のせいにしちゃいけない?)の私にとって、日常生活を送っていたら絶対に知り得なかった情報だと思う。感謝…なのか?
しかし、「ここに描かれた光は、明らかに朝日ではなく、午後から夕暮れのそれである。それは日本経済の落日を先取りしたものであり、超高齢社会が確実にやってくることの見通しでもあると思う」の解釈(詳細は本誌を見よ)は実に素晴らしい。テクスト論パワーを感じる。フォースに選ばれしものだ。
・藤森陽子「欲望という名のあれやこれや」
30歳を超えてもバンドに熱中し「「働きながらバンドもやる」という最も往生際の悪い方法を選んだ」兄の半生から、「超文系的な生き方」を探るエッセイ。
素晴らしい。自分のこととして読んだ。夢とは叶うか叶わないかの二者択一的なものではない。葉山嘉樹も述べていたように、「陸だけでもいけないし、海だけでもいけないんだ。歓喜だけでは歓喜にならないんだ」(『海と陸と』)。現実だけでもいけないし、理想だけでもいけない。その間に広がっているのは、質的差異に見せかけた程度的差異であり、30%や40%叶ったり、40%を50%に上げる努力ができる政治的な場所にこそ、現実と理想のインターフェイスがある。
「夢って奴は馬鹿にならないぜ。それは結果は与へないが、方向を与へるからねえ」(葉山『海と山と』)。これは藤森風にいうと次のように換言できる。
「手に入らないちょっとしたもどかしさや少しの渇望をいだき続けるのは、キラキラした一筋の光を追い求めるような感覚に似ている。そして“けじめ”をつけずにのらりくらり、何かを続けて行くことも」(166p)
「欲望」は静かに疾駆する、止まらない、終わらない。小林多喜二ならばそのようなエンド(終焉=目的)なき世界を「循環小数」と表現するだろうが、ともかくも藤森陽子とは現代の葉山嘉樹だったのだ。葉山嘉樹、サイコー!!