いま私は連載という形式で新たに文章を書き始めようとしている。しかしながら、矛盾するようだが、私が現段階で書けることはすべて僕が書いてしまっている。

http://blog.livedoor.jp/annedo0826sota/archives/1001535858.html
 
 私は昨年の末から断続的にハルカトミユキについて書いてきた。
 
 ざっと目を通して、いや、スクロールをしてもらえればおわかりになると思うが、そこには不規則に並んだ複数の日付が記載されている。

 この一つにまとめられた文章は当初は日付が記載された日に独立して書かれたものであった。しかしながら、当初は独立して書かれた複数の文章は結果的に不規則な順序を持った一つの文章になってしまった。そして、これからも独立して書かれてはまとめられるという作業が永遠に繰り返されるだろう。 


 今回、このような場で連載を始めようと思い立ったのは些か個人的には悪循環に入っている現在の状況に終止符を打ちたいという想いからである。一回ごとに終わりを持った連載という形式を採ったのもそのためだ。もちろん、連載であっても、いや、連載だからこそ終わりがないのかもしれない。しかしながら、少なくとも連載でなら独立した文章を一つにまとめることは出来ない。  

 書いたものを一つの内部に還元するのではなく、とにかく前に進む。
 それが、現在の私には必要なのだ。  

 しかしながら、そうは言っても先述したように現在私がハルカトミユキについて書けることはすでにすべて書いてしまっている。そのため、この連載では些か奇妙な方法ではあるが、かつて僕が書いた文章を部分的に切り貼りし、そこから新たな言葉を立ち上げるという方法を採る。これが本連載の基本的なスタイルである。  

 この連載はパソコンやスマホあるいは携帯のような媒体で読まれることになる。少なくとも、物質的な重みを伴った本という形で読まれることはない。本連載ではこのような条件を最大限に利用したいと考えている。僕がかつて書いた文章にはyoutubeへのリンクをいくつか貼っているが、それは決して「もし興味を持ったらリンク先にとんで彼女達の音楽を聴いてみてください!」というようなことを伝えたいためでも、読者の便宜のためでもない。すべてテクストなのだ。そのため、これからリンクが貼られることがある場合、必ずそれを観てほしい。  

 一度の文章量にも気を配りたい。

 以前に書いた文章は他にもさまざまな思惑があったとはいえ量を書くことそれ自体が一つの目的、一つのメッセージになってしまっていた。もちろん、それも一つの方法ではあるだろう。しかしながら、あまりにそればかりが目についてしまうともはや人はそこにしか目がいかなくなる。  

 繰り返すが、本連載はWeb上で読まれる。

 これはあくまでも私の感覚でしかないのだが、Web上で長い文章を読むのはなかなかしんどい。実際、Web上の文章を読むにあたって、私はあのあまりに便利なスクロールを用いてまず全体の長さを調べる。そして、ときには、結論だけ読んだり、そのまま閉じてしまったりする。そのため、本のように途中で中断して後日改めて読み直すことは、絶対にない。私は少なくとも一つのまとまりを持った文章は一回で読み切ってしまいたい。長い文章を自分の頭の中で勝手に連載には出来ない。  

 ということで、私自身が一息で書くのに疲れてきたので、第一回は私に連載中断という何ともマニアックな欲望を抱かせてくれた批評家の言葉を最後に切り貼りして閉めたい。    


趣味のない批評家、つまり良心のない批評家は如何なる作品の前に立っても驚かぬ。何故って徐にポケットから物差を索り出せばよいからである。だが少しでも良心をもつ批評家は物差を出すのが恥ずかしい、だから素手で行こうとする。処が途中で止って了う。これから先は兎や角言う可きでない、すばらしい!と溜息なんか吐いて了う。何故君は口から出ようとする溜息をじっと怺えてみないのか?君の愛と情熱との不足が探求の誠実を奪うのだ。若し君が前にした天才の情熱の百分の一でも所有していたなら、君は彼の魂の理論を了解するのである。何故って君の前にある作品を創ったものは鬼でもなければ魔でもないからである。この時君に溜息をする暇があるだろうか?

(小林秀雄「測鉛Ⅱ」『小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠』、新潮社、2002年、110頁)
 


皆様、よろしくお願いいたします。      

杏ゝ颯太