(↑日本用予告は内容が違いすぎるので原語版を。吹き替えで特徴的だったのは「沢城みゆき」が無駄に活躍するということ。「沢城みゆき」ファンも必見だ)。
 
 映画『LEGO(R)ムービー』(2D吹き替え)を観た。素晴らしすぎる。上映中、ずっと号泣していた。この手の話の最高峰は、無論、みんな大好き『トイストーリー』シリーズとなるだろうし、私自身も好きな映画であることには変わりないのだが、今回の『LEGO』は玩具映画チャンピオンだった『トイストーリー』を超えたかもしれない。神的なまでに凄まじい。そのくせ、ストーリーは単純だ。LEGOワールドを思うがままに支配しようと企む「おしごと大王」の野望を阻止するため、「選ばれし者」に間違われた一作業員の「エメット」が、世界を救う「幻のパーツ」をめぐって奮起奮闘する。その冒険を通じて、遊びにおいて「マニュアル」とは何か? 人はどうやって「選ばれる」のか? といった、意義深いテーマが展開されている。「マニュアル」への叛逆記という意味で、私にとっては西尾維新『少女不十分』の後継として位置づけられる一作だといえる。

 さて、ネタバレしよう。

 『LEGO』は、終盤からメタ視点を物語内に取り入れることで、取り扱うテーマに奥行きを与えている。具体的にいうならば(最近だと)松本人志『R100』的であるということ。端的にいえば、映画の前半で展開されてきた物語が、すべてLEGOブロックで遊ぶ(実写の)子供の空想世界だったことが明らかになる。少年の名は「エメット」。どこにでもいる極めて凡庸な一作業員で、世界を救うと予言された「選ばれし者」、それに誤認された黄色い顔のフィギアは、物語世界に自己投影された自分自身の姿であったのだ。

 少年エメットは、LEGOオタクである父のコレクション・ルームに忍び込み、「マニュアル」(LEGOブロックについている設計図)を無視して、奇想天外なブロックの組み合わせで生じる奇形の作品(乗り物、建物、武器……)を次々と作り上げる。勿論、〈あるべきものをあるべきところに配置する〉ことに執心し、LEGO住民である諸フィギアを「スパボン」(=「スーパーボンド」=瞬間接着剤)で固定しようとする「おしごと大王」に抵抗するためだ。しかし、その所業を発見した少年エメットの父は、自分の観賞用コレクションの配置が壊されたことに激怒し、ブロックを元通りに戻せと命じる。バットモービルが砂漠にいるべきではないし、ビルの最上階がいきなり浮上したりするべきではない。LEGO世界を統べる「おしごと大王」とは、エメットの父のことだったのだ(「おしごと大王」の命名は、恐らく仕事によって普段子供の相手をしない父の姿が暗示されているのだろう)。この設定はいってみれば『トイストーリー2』でいうところの、〈美術館に入りたい玩具〉と〈子供に遊んでもらいたい玩具〉の対立図式の変奏だといえようが、『LEGO』の方が見せ方が断然上手い。

 物語の展開上、当然のことながら、二重のエメットは父=大王と戦うことになる。しかし、それは父=大王の否定を意味しない。エメットが述べるのは、大体次のようなことだ。私はあなたを尊敬している、あなたがこの世界を作った、ならばあなたもまた「選ばれし者」だったはずなのだから。

 『LEGO』は単なる子供心礼賛の物語ではない。「マニュアル」は入門者のために存在している。そして、扱いに慣れた使用者はやがて「マニュアル」を棄て、身体化した知恵と共に、(本来種類の違うブロック同士を組み立てるように)異なる領域を横断する新しく斬新な仕事を始める。しかし、他方で、その熟練者が専門家になればなるほど、一度捨てた「マニュアル」が「公式」や「古典」という肩書きを得たカノン(聖典)として再来してくる。立派な研究者がしばしば陥る先行研究に対する敬意という名の追随(盲従?)、その保守主義は、両極端である入門と専門がみせる奇妙な符合の好例といえよう。専門が入門の対義語であるならば、専門家の門は何処か見知らぬ場所へ旅立つゲートでなければならないはずなのに。

 「マニュアル」は大事だ。しかし、その重要性は聖典の遵守としてではなく、ベーシックな型として、言い換えれば、裏切りや変形奇形を含んだ無数のヴァリエーションを生み出す土台となる母体として大事なのだ。二重のエメットが、父への尊敬心を捨てず、かつ、ブロック組み合わせのヴァリエーション可能性を示すとき、或いは端的にいってこの現実世界のヴァリエーション可能性を示すとき、彼は本当の意味での「選ばれし者」、遊びのエリート(選民elite)となれたのだ。

 世界を救う「選ばれし者」というのは、ある登場人物が勝手にでっち上げた虚構であることが途中で明らかになる。しかし、正に虚構をでっち上げるとき、その瞬間に、人は選ばれるというべきなのだ。小説を書きたいと思うとき、絵を描きたいと思うとき、登場人物を演じたいと思うとき、人は選ばれる。誰に? 自らの内なるフィクション(虚構=擬制)に、そしてその想像力に。

 「想像力」(imagination)という言葉が、歴史的にいって元々創造的なものではなかったこと、芸術活動の源泉として神秘化されたのは、カント(その影響を受けたコールリッジ)の想像力論を経た18世紀以降だったことを思い返そう。想像力は元々、上級の知性的能力に対して下級に位置する感性的な能力であり、己の意のままにならないpassive(受動的)なものだった。スピノザの『エチカ』が、荒々しく高ぶる想像を被ることで静かな心をかき乱されないようにと説いた想像力批判の書でもあったこと、スピノジィストを自認していたアランが体を動かすことで頭に救う妄想を取り払うべきだと述べていたことを想起したい。いってみれば、想像力とは我が家のドアを突然ノックする珍客であったのだ。だから、「選ばれし者」とはそのアポイントメントなしに突入してくる乱暴な訪問客に対して出来る限り歓待する者、意のままにならぬ想像力に対して食事と寝床を用意する者を指すのである。最高の小説の冒頭を思いつくとき、いい台詞が思いついて台本に書き込むとき、映画に沿っていえばエメットが「二段ソファー」や「頭車輪」といったアイディアを思いつくとき、彼はその想像力に「選ばれ」ているのである。

 想像力という訪問客はどんな子供の、いや、どんな大人の頭にも等しくやってくる。想像力は平等主義的に選民主義(エリーティズム)を実行する。矛盾に見えかねない「選ばれ」の曲芸。それ故に、父=大王は否定されず、最終的には「マニュアル」と共存する破天荒が、つまりは遊びのルールが遊びの過程のなかで流動的に変化しつつも、依然ルールに拘束される共有=共遊という解決が本作のラストに与えられるのは至極当然のことなのだ。誰しもが「選ばれし者」なのだ。想像力に対し、閂を外し門戸を開き、彼を内に招き入れることができるかどうかはとても難しい。とにもかくにも、この映画が閂をとっぱらった想像力の一つの大きな成果であることは確かなことだ。