承前と告知 

承前〕で言及の通り、多摩美術大学の青野聰研究室が発行する学生・OB作品集《多摩美文學》に短編小説を寄稿しました。タイトルは《≠ストーリーズ》、名義は戸籍の方を使用し、総文字数はおおよそ2万7千字。原稿用紙換算では90枚弱(※ 青野教授が三月末付けで退官なさったため、作品集はこれが最終号となる。実本は画像参照)
 

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 【多摩美術大学 文学特殊研究ゼミ誌2013-14 青野聰教授退官記念号 《多摩美文學》】


◆ 多摩美術大学の青野ゼミ、公的な名称を〔文学特殊研究〕とする場の発端は実に四十年以上も前に遡る。

◆ いわゆる《安田講堂攻防戦》(しかし、なんて大げさな呼称だ)のあった1969年を頂点にする大学紛争の混乱を引きずり、まったく授業の行われなくなっていた多摩美内で、当時、既に文芸批評家として高名だった故・奥野健男氏が、ゲバ棒や火炎瓶や政治的アジテーションとは無縁の、創作に関わる〔場〕としてひとつのゼミを開講した。そこへ集った学生と奥野氏との対話から生まれたささやかな〔文学〕の営為は、学生たちの小説を中心とした作品集という形に結実する。

◆ 71年にまず《雑色種》と名付けられた小冊子は、のちに《葡萄弾》と名を変え、97年に奥野氏が退職なされるまで、途切れることなく〔文学〕の〔特殊〕な〔研究〕を行うゼミの〔研究成果〕として発行され続けてきた。(但し、昔から〔特殊研究〕というカリュラム上の呼ばれ方をしていたかについては、確認できていない)。

◆ 〔場〕としてのゼミは奥野氏が後を託した青野聰先生に引き継がれ、幾度か名前を変えた作品集と共に、先月まで15年に渡って存続してきた。わたしも院生だった2007年から数年のあいだ、自分の作品原稿とは別に編集作業へ携わり、《En-Soph》と名付けた08年の号では編集責任者も務めた。(ちなみに、このウェブサイトの名前が《En-Soph/エン-ソフ》なのも、そこに由来しているのです)
 
◆ ゼミでは、学生たちが週度に書いてきたテキストを研究室へ持ち寄り、青野先生も含め皆で読み合いながら、立場に囚われず率直に意見を交わしあう。それをもとに、一年間という短いスパンのなか、未分化で荒っぽい〔ことば〕を、各々が各々なりに〔文学〕の言語へ、(たいていは)小説という形にこね上げ、成形してゆく。傍観者や受動的な聴講者でいることが禁じられた、相互に干渉する批評の空間でもあった。

◆ 青野先生の退職に伴い、後任を据えずにゼミが終了となったことはとても残念だし、いずれまたゼミそのものについても書いてみたいと思うのだけれど、ともかく作品集も今年で〔最終号〕ということで、今回の〔本〕には、特別な編集体制と人的資源と予算が用意されることとなった。それは、間違いなく、これまで発行されてきたどの号よりも充実したものだった。

◆ そうして完成をみた結果が、上掲の写真にずしーんと映っている物体である。まず、掲載された作品の内容以前に装丁、綴じ、各種紙質、フォントなど、何れも実に素晴らしいクオリティ。総ページ数は777。限定三百部。〔組み〕で、いくつかヤバい誤植もあるのだけど、まるで昔日の《世界文学全集》のように重々しく、さらにはそれらよりも明らかに形として美しい本である

◆ 大半の日本人が、広告か週刊誌か書類か液晶画面でのみ日本語を読む二一世紀の現世において、その重々しさも美しさもある種の時代錯誤性を孕むものと言えるかもしれないが、物質としての本というものの有り様が強く打ち出される機会は(とりわけ美大生が製/制作するのだから)あってしかるべきだろう。こうした〔本〕に自分のテキストが印字されたのは実にとても、幸運。ページを捲れば、筑紫明朝体の鮮やかさが目に染みる。


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◆ わたしが寄稿した《≠ストーリーズ》(そのままノットイコールと読む)という2万7千字の短編は、短編にも関わらず3パートに分かれ、50年代末のキューバ史を扱った歴史小説なのかと思ったら突如2011年のハバナと原発事故の話になり、そのまま昨年末の東京へ時間軸が飛んだ半私小説が、《一冊の本》に載っていた金井美恵子による斎藤美奈子への嫌味を引用して終わるというものであり、いま書いていて我ながら意味不明だなというか訳わからんなと思ったわけだけど、実際のところあれこれ飛躍した内容となっている。

◆ そもそもこの小説は、震災をきっかけに数年前から半分方死に瀕していたアイデアをどうにか再生rebornできないか、という意図のもとに構想された。大学時代の春休み、わたしがキューバのハバナに一ヶ月ほど滞在していたとき住んでいた古いアパートが革命時代に起きたとある虐殺事件の場所だったことに刺激され、恐れ多くもバルガス・リョサがものした独裁者小説の超大作、《チボの狂宴》のように複合的な時間構造を持つ、長い長い歴史のお話を目指して冒頭部を書きながら資料を集めていたら、2011年3月にすべてが中断されてしまった。エダノがジャックバウアーになるような状況で、こんなもの書いてる場合か!というわけである。

◆ 以降2年以上、わたしの脳みそが思考に費やせるパワーというか余力の7割くらいは震災に関することへ向けられており、3割強の領域で立ち上げたエン-ソフにもそればかり書いていたので当然小説を書いている場合ではなく、相変わらず水をぶっかけ続けなくてはいけない原子炉とは違って完全に冷温停止の状態が続いていたのだった。スクランブルで入った制御棒ずっとそのまんま、みたいな。停止させた/られた核反応の連鎖は制御機構を解除すれば再び始まるのだけど、停止したまま核崩壊が進めば余熱も徐々に失われ、最終的には何をしようが反応を起こさなくなってしまう。

◆ 《≠ストーリーズ》は、脳みその容量に余裕がでてきた去年春辺りから芽生えた憂鬱な感情、そうした事態に対してどうにか自分なりに答えを出さなくてはという強迫神経症的な欲求のもとで書かれることとなった。もう震災前のお話を書ききる意欲はどこにも無いのだけど、それをただ放り出すことも許されない、という。

◆ 直接的なきっかけは去年の秋に大阪の友人から薦められたローラン・ビネ《HHhH (プラハ、1942年) 》を読んだことで、ビネが採用した、「過去の物語を記述しながら、記述する主体それ自体の物語を記述する」という歴史へのアプローチは、わたしに大きなネタ示唆を与えてくれた。早い話、「( ・∀・)ツカエル!!」と思った。ビネは病的なほど《ハイドリヒ》に魅入られていたわけだけど、《ハイドリヒ》には、他の固有名はもちろん、さまざまなものが代入可能なのだから。




◆ そういうわけで、わたしは脳の片隅から中断していたお話を引っ張り出し、『「この《お話し》はもう書けません!というお話し」を書くお話し』を2万7千字使って仕上げたのだった。ビネを薦めてくれた友人は、一言、「短い!」とだけ感想を言っていた。

◆ こんなふうに書くとなんともネガティブな行為だと受け取られるかもしれないのだけど、いまのわたしは、まるでリハビリを終えた患者のように、投薬の結果どうにか排泄を終えることができた重症の便秘持ちのように、(話しが少し古いが)離婚が成立したダルビッシュのように清々しさで満たされている、と書くほど嘘っぽいことはないが、実際、そんな心持ちでいる。たかが2万7千字ではあるものの、(まったく個人的に)重要な2万7千字なのだ。

◆ 《多摩美文學》は三百部しか刷りがなく、恐らくそれを所有する数多くの人が十数分だけページを捲って以後、卒業制作の画集がそうであるように、ほぼ永遠に本を開くことは無いと想像される(わたしは最近毎日開いているのだけど)。前回のエントリで、「そもそも、どのようなチラシの裏でさえ、実のところそれは〔誰か〕に読まれるために書かれている。読まれるために書かれたものは捲られ、表に返され、人前に出されるべき」だと書いたわけだし、《≠ストーリーズ》というお話も、そのうちウェブ上で読むに適した別の形態で公開することがあるかもしれない。

◆ とりあえず、何回読んでもわたし自身が退屈やつまらなさを感じない、全体の中程の部分から切り抜いたものを少しだけ転載して、この《お話》を一旦〆にしようと思う。


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【装丁】北海裕里子(大学院グラフィックデザイン領域、広告デザイン研究)


〔承前〕         

 チーーーーーーーーーーーーーーーーニョ!

 階下の路上から叫び声が聞こえる。目をやると、見覚えのある黒や褐色、あるいは白い顔が、にやにやしながらおれを指差している。確かラウーだかラウリートだかラウルだかやっぱりラウーだか忘れたが、近所に住んでいる子供たちだった。十歳前後で、全員が白い半袖ワイシャツに赤か青のスカーフ、えんじの半ズボンという制服を着ている。大学生は別だけれど、キューバの学生は殆ど全員が同じ制服を着る、みんなが同じものを着る、すべての子どもたちは同じものを着る、ローとハイのティーンも同じものを着る。みな一緒だ。二十一世紀になって十年が過ぎた現在もこの国は共産主義を奉じており、全体主義の徹底で《国体》を守っている(それが守られていること自体を指すのなら、まさに《美しい国》といえよう。いやはや!)。五十四年前の春に、眼下の路上でノボ大佐が危惧した未来は実現し、未だに続いている、というわけだ。
 数秒のあいだラウーだかラウリートだかラウルだかは口々に「チッチッチーーーーノ、チニョ!(ち、ち、ち、ち、中国野郎ぉ~!)」と叫んで、囃し立てていたが、怒声と共に一階の中古車整備ガレージからリゴベルトが巨体を揺らして表に現れると、バカ騒ぎは瞬時に終わった。素朴なレイシズムの愉しさを無邪気に満喫していた子どもたちは奇声をあげながらいっせいに駆け出し、この天候でさえ薄暗いバリオの奧へと消えていった。黒いオリーブのように光る滑らかな肌に大粒の汗を浮かべた修理工は、荒い息を吐きながら油や汚れの染みで変色したタンクトップで、顔をぬぐっている。
 こちらを向いたかれに手を振り、未だ覚束ないスペイン語で「ブエナス」とか「タルデス」とか、適当な挨拶をモゴモゴと発し、おれはシャワーを浴びるためにバルコニーから退散した。

         *

 壁に固定された蛇口を捻ると、幸いなことに今日はシャワーが機能していて、錆だらけのノズルが耳ざわりな呻きをあげながら、不均等できれぎれの水流が飛び出してからだを濡らす。ほとんど温度調整が利かないため、屋上のタンクが温められてしまう季節は水が生ぬるい(当然、季節が変われば今度は逆の不快さに耐えなければならない)。近場の多くの住民にとって、〈シャワー〉とは洗面所に据え付けられたドラム缶に溜めてある水と、金属やプラスチック・バケツの組み合わせを意味しているのだけれども、このアパートには五十四年前から一応、〈本物〉が付いているのだ。
 きれぎれで生ぬるい水を浴びながら日本から持ってきた残り少ないボディ・ソープを泡立てていると、胸を悪くするほど濃密な人工の香料が、突如として強力な《資本主義》の達成を洗面所に現前させる。朽ちて傷んだ空間に、革命ではない《革命レボルシオン》の成果が召喚され、鼻を突く下水の臭いは消え失せる。香りに意識を集中させて目をつむると、おれの意識は島の外へと飛びだし、周囲の風景はハバナから遥か日本に、さらには東京へと飛び、嗅覚を媒介にした意識のテレポテーション現象が起きる。資本主義と封建制と社会主義が、ハイブリッドというよりは半端な無秩序と共に《メルティング・ポット》ではなく《サラダボウル》化している島と、そのキッチュな首都、春先からは巨大地震と大津波、そして放射能の脅威に直面している、おれのパスポートを保証する国と、おれの住んでいた都市。
 だが、目を開ければそこは真夏の、酷暑のカリブだった。窓格子から目に入る景色は打ちのめされるほど青いが、洗面所と浴室は薄暗く、たまらなく蒸している。資本の芳香は失せ、再び下水の臭いが強まっている。
   
         *

 タオルを被ったまま屋上に上がると、いつもと同じようにホージョーさんとラモンシートがいた。
 ホージョーさんはパラソル付きのデッキチェアに寝そべり、横のテーブルに高級なカスタマイズVAIOを置いて、いつもと同じように《ふくいちライブカメラ》で原発の様子をボケっと眺めている。テーブル上には読みさしのジェイムズ・エルロイ《キラー・オン・ザ・ロード》が伏せてある。ときおり、三年もののハバナクラブをボトルから直に飲んでいる。ラモンシートはそばに座り込み、漫画を読んでいる。
 「どうですか、きょうは。なんかありましたか?」
 おれは屋上に放置してある椅子をひいてホージョーさんの横に座り込み、東京電力が設置した定点カメラが二十四時間捉え続けてオンライン公開している福島第一原発の様子に目をやる。モニタには昨日と何も変わりなく、破壊された発電所が映し出されている。
 上部が半分ばかり無残に、というよりは奇妙なほどきれいに吹き飛んで、屋台か舞台の骨組みのような鉄骨がむき出しになった一号基の原子炉建屋の横には超巨大クレーンが手を広げ、奥には見た目はまったく無傷の二号基(しかしもっとも深刻な原子炉の損傷が疑われている)、さらに奥の、一番大きな水素爆発を起こした三号基(あの象徴的なキノコ雲を連想させるような、凄まじい量の黒煙が立ち昇った)は、鉄骨がぐんにゃりと曲がって半ばぺしゃんこになり、一番奥には外壁が崩れ落ちそうなままぶら下がっている四号基(千体以上の核燃料を収めた冷却プールの耐久度が危惧されている)が小さく見える。画面内にはさらに、原子炉横の三つの排気筒と画面手前から奥に伸びる復数の配管が映っている。あまり鮮明でない青空の下に白い雲が動き、生い茂った雑草が風に吹かれている。しかし定点カメラは映像のみで音声を記録しないため、十数センチ四方の枠内に収められた世界の中ではすべての出来事が無音で進行している。音も無く揺れる草木と、吹き抜ける風。箱庭サイズに切り取られた、非現実感に満ちた母国の景色を、おれたちは一万二千キロの彼方から眺めている。(多摩美文學p672~674)