(↑消費税増税前に、ついに『有島武郎事典』(勉誠出版、2010)を買ってしまった。いい加減、図書館で利用するのも面倒になってきたから。よーし、これからがんがんアリシマるぞー!)。
今月、「有島武郎『骨』小論――詩へのスプリングボード――」を書いた。有島の晩年小説『骨』は、〈こつ〉と読むべきか〈ほね〉と読むべきか、という問いを導入にして、勃凸の聴覚的世界を分析し、その描出の背景となる作家論的文脈として、有島武郎の漢字廃止論、そして小説以上に評価される詩の優位性の芸術観を読み取った。文字数は9458字、原稿用紙に直すと24枚程。目次は以下。
- 一、〈こつ〉か〈ほね〉か
- 二、勃凸の聴覚的世界
- 三、有島武郎の漢字廃止論
・有島と非-有島の間で
今回の論考はいつもと比べて割と短い。といっても、実は書いている量自体は余り変わらない。というのも、今回、随分ご無沙汰な有島武郎を取り上げたのは、今年六月に某研究会で『卑怯者』に関する発表をする予定が入り、発表用に論文を原稿用紙30枚近く書いた結果、その副産物として生まれたのが今回の『骨』論だからだ。『骨』は独立した作品論がなく、佳作と評価されながらも単品でマトモに扱われてこなかったテクストだ。そんな訳で、今回の論考は我ながら画期的であり、枚数は少ないが小粒でもピリリと辛い一篇になったと密かに自負している。
有島武郎の専門家を自認しながらも、本当に有島とはご無沙汰状態が続いている。一応、卒論修論は有島武郎だったのだから専門=有島武郎でも間違っちゃいないのだろうが、こうもスルー状態が続くといささか不安になってもなってくるものだ。
しかし、私個人の意識としては有島武郎研究は現在進行形で進んでいる。私の理解に従えば、『小林多喜二と埴谷雄高』で取り上げた小林多喜二は有島文学の特異な継承者の一人であったし(これについては尾西康充『小林多喜二の思想と文学』という素敵本が出たので、有島&多喜二ファンは要チェキ)、現在取り扱っている国木田独歩は、『或る女』や『断橋』など実際に多くの文学的アイディアを有島に提供した作家の一人だ。
有島と有島でないものの往還的研究のなかでこそ、有島を今日考える意義がある。そんな訳で、私のアウトサイド有島研究は今もなお続いているのだが、今回久しぶりに彼のテクストを直接取り扱ってみて、やはり我が終生の研究テーマの原形質がここにある、という感を強くもった。有島はやっぱり素晴らしい。……が、そんなこと言いつつ、今月からまた確実に浮気する。スマン、有島、これも実はお前のためなんだよ(ダメな父親風)。
・名前が覚えられない
本論の中でも触れたが、『骨』は「おんつぁん」「勃凸」「凸勃」など、登場人物がことごとく渾名によって覆われた世界観が大きい特徴の小説である。高校の頃だっただろうか、最初このテクストを読んだとき、「勃凸」と「凸勃」がごっちゃになって、ストーリーをうまく追えなかった記憶がある。加えて、「勃凸」の訛り言葉などもあって、読みにくく感じたのをよく覚えている
小説を読んでいるとき、一番難儀するのは、名前の記憶だ。とりわけ長編小説となると大変だ。偉大なる文豪、ドストエフスキーに唯一注文があるとすれば、もうちょっと人物同士を分別しやすい名前にしてくれないだろうか、ということ。「アレクセイ」と「アリョーシャ」が同じなのはいいにしても、「ラスコーリニコフ」が「ロージャ」でもあるって……なんだ、それ。川端康成を「バタやん」と呼ぶくらい、いっちゃってるぜ。
というか、名前の混乱は小説に限ったことではない。基本的に私は人の名前を覚えることができない。とりわけ、女性の名前は苦手だ。早くも老化が始まっている。ポンコツ研究者だ。正直に告白するが、ここ五年間で出会ったことのある女性で、名前を覚えているのは、おそらく五人に満たないと思う(もちろん、アナタとアナタは覚えていますよ、当たり前じゃないですか)。ある女性に至っては、「漢字が新井素子のモトコと一緒」と紹介されたせいで、私のなかで彼女は「新井さん」になってしまっている。ガッデム!
お願いだから、これから生まれてくる女性はみんな「緑輝(さふぁいあ)」とか「七音(どれみ)」とか、胸に輝くキラキラネームを誇りに思って、己の個性を武器に世界に羽ばたいていって欲しい。こちらとしては忘れられない一撃が欲しいのだ。気にすることはない。恥しいのは最初だけ。みんなでキラキラすれば、そのうちカオリとかアヤネとかの方がクレイジーと呼ばれる日が来るはずだ。優奈も奈々も結衣も美咲も、「聖天使(みかえる)」の前に跪けばいいよ。夢にときめけ、明日にキラめけ!
たまにはそんな男根ロゴス中心主義的冗談を述べてみる。
・荒木梢
女性の名前といえば、最近、「梢」という名前が結構イケてるんじゃないかと思っている。「こずえ」でも、「小枝」でもなく、「梢」。ko/zu/eという音が可愛らしいだけでなく、「肖」にくっついている三つのチョンチョンが芯のある強さを象徴している気がする。点のそれぞれが、「こ」「ず」「え」に対応している気もする。意味としてみても、未成熟だが一歩ずつ成長していこうとする健気な意志が込められていて好感がもてる。
たぶん、私が小説書きだったら、ヒロインの名前に「梢」と名づけ、結構イイ役目を与えるんじゃないかと思う。しかし、残念ながら、私は小説を書くことがないので、「梢」は永久にお蔵入りせねばなるまい。或いは、私が性転換手術したさいには、名前もついでにアップデートして、「荒木梢」と名乗ってみようか。「木」の重複で少し具合が悪いが、決して悪くない。
そんなわけで、関係者各位は心しておいて欲しい。ちなみに、今回のイチオシ論文は方光鋭「明治期における国語国字問題と日本人の漢学観」(『言葉と文化』、名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻、2009)でした。