発症から4年以上の月日が流れた。長い闘いだった、とややヒロイックな気持ちになるかと考えていたがそうでもなかった。しかし、病的なペシミズムから解放されるとやはり安楽である。
あの近代ドイツの哲学、観念的な体系を学ぶには、ペシミスティックな体質が要請されるように思う。しかし、偉大な哲学者たちも、それを研究する者たちも、いずれも病的な感覚を湛えながら、それを超える、問い続ける意志を持っているのであって、むろん中には病的というか半ば病気であって、それでいながら学問をしている人もいるのだろう。
現代の哲学では、「病」…アナロジーとしての病があいかわらず流行っているのだろうか。そういったある種の呑気さに与したくはない、というのがうつを患った自分の実感だが、この生が常に病と隣り合う、いやむしろ病を内包…包摂しているものであるのが真実ではないか。こう思われるのである。
人生の実感として幸福感に満ちみちている人というのはそう多くはないだろう。happinessというのは、あるいはhappyであるというのは、あくまでも暫定的な感情の様態に過ぎないのではないだろうか。それが錯覚だとまでは言わないが、生のプロセスにおいて十全に幸福であるということは、狂気をはらんでいるのであって、一種、酩酊に似ているのかもしれない。
生きている限り、悩み苦しみから解き放たれることはない。しかし、自殺するほどの勢いも勇気もない小心者であれば、生きて、生きて、死ぬまで生きて、ある時は死につつ病みつつある己が生を直観し、その時あの偉大な哲学者が造語した「現存在」(Dasein)の意味が、骨身にしみてくるのではないだろうか。
徹底的に問い続けられる者は限られている。それは才能と運によるのかもしれない。多くの人々はタイラクしたまま、やがてこの世を通り過ぎていくほかないのである。