その場を立ち去らずにまず聞くがよい、ここにかくも謎のごとき明朗さをもって汝の眼前に繰り広げられるこの同じ生について、ギリシアの民衆の叡智が何を語っているかを――ニーチェ
序
本論の狙いを一言で述べれば、ある特定のパースペクティヴから『悲劇の誕生』を読む、ということである。そのパースペクティヴとは、「道徳をあみ出さなくては生存は不可能であり、しかし道徳をあみ出せばそれが生存を断罪して止まない。この生=二律背反というニヒリズムはいかに解決できるか」という視点であり、言い換えれば、「一方では無意味性に反対し、他方では道徳的価値判断に反対すること」である。「無意味性」とは無価値性のことであり、いわゆるニヒリズムである。ニーチェによれば、「道徳的価値判断」もまたニヒリズムに他ならない。この二つのニヒリズムに陥ることなく、生を肯定する思想はいかに可能か、この答をニーチェの悲劇思想に探るのが拙論の主眼である。したがってここでは、『悲劇の誕生』の一般的理解や内在的読解などは目指されない。私の関心は「ニヒリズムの超克」だけにあり、このパースペクティヴからの再構成のみが目論まれる。それではどうしてこの問題の解決に、ニーチェを読むことが特権化されるのか?ここでは、無神論論争を簡単に振り返ることでニーチェのニヒリズム概念の射程と意義を確認し、『悲劇の誕生』の読解に取り掛かることにしたい。
無神論論争とはフィヒテの神論に端を発し、ヘーゲルも「信仰と知識」(1802)において言及した、信と知をめぐって行われた議論のことである。フィヒテは「神の世界統治に対するわれわれの信仰の根拠」において、「宗教は本質的に道徳行為と結びつくが、神は〈生き生きとして活動的な道徳的世界秩序〉を意味し、特定の実体としては捉えられず、信仰とは道徳的世界秩序が存するということに対する信仰であると論じ」、もちろん神そのものを否定したのでは決してないにせよ、やはり神の特権性に対し結果的に何らかの否定性を突き付けてしまったのである。当時の神観からすれば、この権威の貶めが神そのものの貶めに聞こえたのは間違いない。事実、フィヒテには様々な非難が浴びせられ、弁明を行うものの、ついにはイェーナから追放されるに至っている。
ニヒリズム Nihilismus という語が、哲学的な文脈で初めて使用されたのも、そのような一連のフィヒテ批判のなかにおいてであった。1799年、書簡においてヤコービは「親愛なるフィヒテよ、私は観念論をニヒリズムだとして非難しますが、その観念論に私が対置するものを、貴君なりほかの誰かなりがキマイラ主義と呼ぼうとも、私は一向に平気です……」と書いている。キマイラとは、「またわれわれは、ライオンの頭を山羊の胴に接いだものを十分想像することができるが、だからといってあのキマイラといわれる獅子頭羊身の怪物が世に存在すると結論すべきではない」という『方法序説』(野田又夫訳、中公文庫52頁)の記述からも明らかなように、本来性質の異なる要素を同時に抱え込んだ存在である。ところで、ヤコービの哲学は信仰哲学 Glaubensphilosophie と称されている。つまりは、信仰と知という一般的には対立すると見なされる要素を同時に含み持つ哲学と言ってよい。したがってヤコービの賞揚するキマイラ主義とは、ライオンとヤギとを、すなわち信仰と知とを同居させた哲学と見なすことができる。逆に言えば、知による徹底的な論理的一貫性を目指した哲学ではない、ということである。そしてこの論理的一貫性を志向した哲学こそが――少なくともヤコービにとっては――フィヒテの哲学に他ならない。知による一貫性を求めた結果、フィヒテは信仰の位置を引き下げざるを得なかった。ヤコービがフィヒテの哲学を「観念論」と評したのは、そのことである。つまりニヒリズムとは元来、神や信仰の欠如のことを指称する語であった。だがニーチェは、ニヒリズムという語をこれとは全く逆の意味で使うのである。「キリスト教的・道徳的解釈のうちに、ニヒリズムはひそんでいるのである」、と。つまりニーチェにおいては、神や信仰の欠如どころか、神や信仰そのものがニヒリズムなのである。しかもニーチェは、ニヒリズムとは「至高の諸価値が己の価値を脱価値化すること」を「意味する」と言っており、結果や状態ではなく、過程や歴史を指示するものとして使っている(ヤコービの定義が、前者に分類されるのは言うまでもない)。ニーチェにとってニヒリズムとは、ニヒリズムが、己のニヒリズム性を自己呈示してゆく歴史なのである。ここにこそニーチェの特徴があり、ニーチェを読む意義もある。ニーチェはニヒリズムという概念を、――「概念」どころかそれは、ヘーゲルが言う意味での「理念」である。恐らくは逆向きの「発展」としての――ヨーロッパ文明・形而上学の歴史を批判するための戦略的参入点として用いているのである。ニーチェにとってニヒリズムとは、現在進行中の歴史そのもののことであって、「ニヒリズム」という言辞で何かを批判したり、そのことによって信仰の場所を確保すれば済むといった次元の問題ではない。今やニヒリズムは、「すべての訪問客のうちで最も無気味なこのもの」は「戸口に立っている」のであり、ヨーロッパの根本的境涯なのである。ニーチェがこれを乗り越えようとしたのは間違いない。しかしその超克はいかにして可能なのか?
ニヒリズム超克の書としての『悲劇の誕生』
ニーチェは「これまでの価値を価値変更することなしに、ニヒリズムからのがれ去ろうとする試みこそ」不完全なニヒリズムであり、「その反対のことをうみだし、問題を尖鋭化する」と言っている。これまでの価値を検証することなく、いきなりその「外部」を志向することはニヒリズムであり、したがってむしろ至高の諸価値の脱価値化を加速化させ、ニヒリズムをニヒリズムへと差し戻す作業が必要となる。だとするならばニーチェのニヒリズム超克は、これまでの最高価値の批判から、つまりキリスト教批判から着手されるに違いない。最晩年の著作『反キリスト者』などはその成果だと言えるであろう。事実、ニーチェはこの書を「全ての価値の価値変更の第一書」と見なしている。だがしかし、私の関心はこの書にはない。私の関心は、冒頭にも言っておいたように、『悲劇の誕生』にあるし、そもそもニヒリズムはキリスト教だけの事態ではない。ニヒリズム超克の現場を、キリスト教批判にのみ定位して見てしまうならば、ニーチェがニヒリズムを歴史として診た意義が失われてしまうだろう。キリスト教は、「〈大衆〉むきのプラトン哲学」なのであり、先の断片の射程の広さを活かすならばむしろ、「いかにして『真の世界』がやっとで作り話となったか」が参照されるべきである。この断片では、プラトン哲学とキリスト教とカント哲学と実証主義が、「一つの誤謬の歴史」として一挙に見渡されているからだ。この歴史、つまり「全ヨーロッパ文化は長いことすでに(略)一つの破局をめざすがごとく動いて」おり、「あたかもそれは、終末を意欲し、もはやおのれをかえりみず sich nicht mehr besinnt、おのれをかえりみることを怖れている奔流に似ている」のであって、歴史は反省を欠いているのである。ニーチェはこの歴史に対して、「ここで物語っているのは、これとは逆に、おのれをかえりみること sich zu besinnen 以外にはこれまで何もしてこなかった者である」と自分の態度を表明しており、私はこの「誤謬の歴史」に、それには汚染されていなかった前史として、つまり「反省」があった前史としてアッティカ悲劇を付け加えたいのである。もちろん『悲劇の誕生』にニヒリズムという言葉は出て来ないが、「キリスト教はあらゆる美的価値――『悲劇の誕生』が承認している唯一の価値――を否認している」がゆえに「ニヒリズム的なのである」から、『悲劇の誕生』をニヒリズム超克というパースペクティヴから読むことは不可能ではない。ニーチェは「ニヒリズムの先行形式としてのペシミズム」という言い方もするし、「ペシミズムのニヒリズムへの発展」という断片も残している。だとするならば、『悲劇の誕生』が「ギリシア精神とペシミズム」という副題を持つ以上、ペシミズムをニヒリズムに発展させることなく解消していたギリシア精神を証しする書として、したがってニヒリズムの超克そのものの書として読むことが出来るだろう。
シレノス
ギリシアのペシミズムを端的に表現しているのは、シレノスの次の言葉であろう。
汝にとって最善のことは、とても叶うまじきこと、すなわち生まれなかったこと、存在せぬこと、無たることだ。しかし汝にとって次善のことは、――まもなく死ぬことだ。
この定式を、「彼らにとって最悪のことは、まもなく死ぬことである。その次に悪いのは、ともかくいつかは死ぬことである」へと転換させたときにこそ、ペシミズム=ニヒリズムの超克が果たされたと言える。以下ニーチェと共に、ギリシア精神がペシミズムを扼殺する現場を目撃することにしたい。
先ず「彼らの芸術観の深遠な秘教を、概念にこそよらね、彼らの創造した神々の世界の、目にも鮮やかな形姿によって、具眼の士に感得させる」ギリシア精神を、その「起源と目的」から診るには、その壮麗なオリュンポスの神々の世界を、「直接直観によって確証する」必要があるという。この「直観」とはむろん芸術を、自然力の放恣として、つまりはアポロン的芸術か、あるいはディオニュソス的芸術か、さてはまたその結合かによって弁別・観察することである。つまりはすべての芸術家を、自然の模倣者という観点から見る、ということである。あるいはこう言い換えてもよい。オリュンポスの住人たちを、シレノスの哲学を超克しようとするギリシア精神との関係において捉えることである、と。この視点の獲得によって「我々はいまやギリシア人に近づき、自然のかの芸術衝動が、彼らのもとでいかなる程度にかついかなる高さにまで発展していたかを認識」することができるし、「いわばオリュンポスの魔の山が、(略)その基底を我々に示す」のである。
それではこの視座から、一体何が垣間見えて来るのか?実にニーチェはオリュンポスの神々を、苦悩せるギリシア人が生きるために見ざるを得なかった「燦然たる夢の産物」だと喝破するのである。「要するに森の神シレノスのかの全哲学――憂鬱なエトルリア人はこの哲学のために破滅したのである――それをギリシア人はその神話的実例もろとも、オリュンポスの神々というかの芸術的中間世界によって絶えず新たに超克した、ともかくそれを隠蔽し、目から遠ざけた」と。ここには生から、まさに私が冒頭で示しておいた二律背反的な生から、芸術が理解されるべきだというニーチェ特有の洞察が表白されている。
あれほど敏感な感受性を持ち、あれほど強烈に欲望し、苦悩することにかけてはあれほど無比な能力を持ったこの民族が、もし彼に生存が、より高い栄光に包まれてその神々のなかに示されなかったとしたら、どうして生存に堪えることができたであろうか?生き続けるように誘惑する生存の補充および完成としての芸術を産み出すこの同じ衝動が、またオリュンポスの世界を生ぜしめたのであって、ギリシア的「意志」は、この世界を聖化の鏡として、己が姿を写し見たのである。かくして神々は、神々みずから人間の生を生きることによって、これを是認する。それだけで十分な弁神論ではないか! かかる神々の燦々たる陽光の下における生存は、それ自体努力して獲得するに価するものとして感ぜられる。
「弁神論」という言葉に留意すべきである。ここにこそ、ニヒリズムの超克を直接に目指した後期思想との接線がある。ニーチェは晩年「ヨーロッパのニヒリズム」において、キリスト教的な道徳上の「仮説」は、「(2)この世界は苦しみや災厄に溢れているにもかかわらず、それに完璧さ――あの「自由」も含めて――という性格をこの仮説は与え、その点で神の弁護人の役を果たした」と指摘した後、直ちに「この仮説は、人間が人間として自分自身を軽蔑することを防ぎ、また人間が生に対抗する立場を取ることを、そして認識によって絶望することを防いだのだ。この仮説は自己保存の手段であった。――総括して言えば、道徳こそは、実践的および理論的ニヒリズムに対する大きな抵抗剤であった」と結論しているのである。ここから生存を苦悩させるペシミズムというニヒリズムに、芸術や道徳というニヒリズムでもって対抗して来た、というニーチェ独特の歴史観が露になる。私が、ニーチェの「ニヒリズム」とはヘーゲル的な「理念」であり、逆向きの「発展」と呼んだのはそのことである。とまれ、この「弁神論」の構造を明らめなければならない。ここではアポロン的原理が勝ち誇っている。アポロンが勝ち誇るところ、そこにはホメロスが立っている。いまやシレノス哲学の価値変更、すなわちニヒリズムの超克は、ホメロスに懸かって来るのである。
ホメロス
ホメロスとは、ニーチェによれば、素朴的芸術家の謂いである。しかしここで留意しなければならないのは、この素朴的という概念が、情感的という概念との対立関係で言われている訳ではない、ということである。ニーチェは芸術に、叙事詩対叙情詩、主観対客観といった二項対立を認めていない。『素朴文学と情感文学について』のシラーや――『メッシーナの花嫁』には肯定的な言辞が寄せられているにせよ――『劇芸術と文学に関する講演集』のA・W・シュレーゲルが批判されるのはそういった事情による。
それではニーチェの言う素朴とは、いかなる意味であるか?ニーチェは夢に考えを致すよう、私たちを促している。私たちは普通、夢より現実の方を生きるべきものと考えている。しかしそれでは素朴的芸術家の意義は捉えられない。こういった俗論に陥らず、素朴的芸術家の真の姿を見定めるには、アポロン的原理との関係性において考察することが要求される。つまりはショーペンハウアーの図式を通して夢を解釈する、ということである。
ショーペンハウアーの図式とは、現象や表象としての世界は意志から発現するという例のそれである。したがってショーペンハウアーは、「人間や全ての事物が、時として単なる幻影、あるいは夢幻のように思われるというあの天賦の素質を端的に哲学的才能の特徴と呼ぶ」のであり、その判断を受け入れるニーチェにとっても「哲学的な人間は、われわれが生きかつ存在しているこの現実の下にもまた、第二の全く別の現実が隠れ潜んでおり、従って、この現実もまた一つの仮象であるという予感をすら抱いてい」ることになる。つまりここでニーチェが言いたいのは、この現実は、実は決して現実などではなく、仮象に過ぎない、ということなのである。俗物はこのことに気付いておらず、哲学者と芸術家だけが、この世界の破れ目に立ち会うことが許されている。しかしいくら才能ある少数のものだけがこの事実を洞察しうると言っても、そもそも世界の方に洞察可能性が存しなければ、やはりそれは叶わないだろう。それならば、いかにしてショーペンハウアーはこのことに気付き得たのか?それはこの世界を可能にしている「真実の存在者にして根源的一者たるもの」が、「永遠に悩めるもの」「矛盾に満てるもの」であるからである。したがって意志は、始めからから亀裂を孕んでいるのであって、いわば不具の原理と言える。ゆえに、この不完全なる一者は、己を完全ならしめるため、あるいは完全であるかのように振舞うために、「恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を同時に自己の絶えざる救済のために必要とする」。つまり、この世界は仮象以外の何ものでもない。現実であるかのように見えるだけである。そして夢の本質もここから把捉されるだろう。すなわち、時間、空間、因果律、論理的構造、動機、畢竟カテゴリーによって捉えられざるを得ないこの仮象が、「仮象への根源的欲求のさらに高次の満足」を目指して見たものが夢である、と。この意味で夢とは、仮象の仮象である。そういったわけで、「自然のもっとも内奥の核心は、素朴的芸術家および同様に『仮象の仮象』にすぎない素朴的芸術作品にたいして、かの名状し難い歓喜を覚えるのである」。
この視点の獲得によって、私は再び問い得るようになった。ニーチェの言う素朴とは、一体いかなる意味であるか?ニーチェは、ラファエロをホメロスの化身として差し出して来る。
彼自身かの不滅の「素朴人」の一人であるラファエロは、一つの比喩的な絵のなかで仮象が仮象へと弱まる作用を、すなわち素朴的芸術家の、同時にアポロン的文化の根源的過程をわれわれに画いて見せた。彼の「キリスト変容」においてその下半部は、憑かれた少年、これを抱き運ぶ絶望する人々、なすすべもなく心痛める使徒たちの姿によって、世界の唯一の根底たる永遠の根源的苦痛の反映をわれわれに示している。「仮象」は、ここでは、もろもろの事物の父たる永遠の矛盾の反照である。この仮象から今や甘美な香気のごとく、幻想にも似た新たな仮象の世界が、かの最初の仮象に囚われた人々には全く見えない仮象の世界が立ち昇ってくる、――至醇なる歓喜と大きく見開かれた眼から輝き出る苦悩なき直観とのうちにおける燦然たる漂揺が。ここにわれわれは、最高の芸術的象徴法によってかのアポロン的な美の世界とその基底たるシレノスの恐るべき叡智とを眼前に見、これら両者相互の必要性を直観によって把握するのである。
いまやホメロスとは、シレノスの言に反して現世に留まりながらも、緩慢なる自殺を防ぐため、ギリシア人たちが打ち建てた勝利の記念碑と結論して良いだろう。シレノスの転倒したオプティミズムを転換しつつも、ペシミズムを排して生きるためには、夢の夢が夢見られなければならない。
だがしかし、これだけでは悲劇の本質には至り得ない。いうまでもなく、ディオニュソス的なものが語り落とされている。事実、ニーチェはここで、容易くこの芸術段階を乗り捨ててしまうのである。『見よ、これは人だ』の言葉をもう一度思い出せば、「キリスト教は(略)『悲劇の誕生』が承認している唯一の価値を否認している」がゆえに「ニヒリズム的なのである」から、ニヒリズムの超克もやはりこれまで述べて来た第一段階(シレノス)と第二段階(ホメロス)の局面だけでは果たされていないことになる。したがって私は、アポロンがディオニュソスに併呑されてしまうことになる第三段階(アルキロコス)、そしてアポロンの逆襲が遂行される第四段階(ドーリス文化)、最後に両者が結合する第五段階(アッティカ悲劇)へと、ニーチェの論を追ってゆかなくてはならないだろう。
アルキロコス
アポロン的原理を体現している者がホメロスだとすれば、ディオニュソス的原理を体現しているのはアルキロコスである。ディオニュソスによるアポロンの併合は、この抒情詩人が意志の模倣物として産出した音楽を、いかにアポロンの力を借りて形象化するか、という過程において表出されている。根源的一者が亀裂を孕んでいる以上、その模像である音楽は、個体化の原理によって現象せざるを得ない。アポロンの合併とはこの意味である。したがってこの段階は、いかにディオニュソスが優勢であろうとも双方の矛盾的結合の一つとは言うことができ、ニーチェがディテュランボスの原型をここに見るのも至当である。
ギリシア人たちは、民謡 Volkslied の導入という業績によって、アルキロコスをホメロスに匹敵する詩人と見做していた。それでは叙事詩と民謡との違いは何か?ニーチェの認識においては、前者がアポロン的なものであることは言うまでもないが、ニーチェは民謡をアポロン的なものとディオニュソス的なものとの化合として解釈している。つまりニーチェは、アルキロコスを称揚するギリシア人の生の根底に、ディオニュソスへの志向が止み難くあることを言いたいのである。それが証拠にニーチェは、ディオニュソス的芸術である音楽を歌詞に先行させて民謡の成立を説明しようとするのである。
しかしわれわれは民謡をまず第一に、音楽的な世界の鏡として、根源的な旋律として考える。この旋律が今やこれと対応する夢の現象を求め、この現象を詩に表現するのである。それ故旋律は、最初にして普遍的なるものであり、さればこそまた様々な歌詞における様々な客観化をその身に受けることができるのである。事実また旋律は、民衆の素朴な評価においても、はるかに重要かつ必要な要素である。旋律は詩をその身から生み出す、しかも繰り返し新たに生み出すのである。民謡の分節形式がまさにこのことをわれわれに語っている。かかる現象こそ、私が常に驚嘆をもって眺め、遂に上述のごとき解釈を発見するに至ったものである。
ここでニーチェが密かに挿入しようとしているのは、言葉は音楽を模倣する、という図式である。ニーチェにとって言語と音との関係は、これ以外のかたちではあり得ない。いまや「音楽は意志として現象する」。音楽は意志たることが出来ないにもかかわらず、そうなのである。言語は、根源的一者には絶対に到達し得ない。
ここからアポロンによる逆襲が始まる。その戦いの戦利品こそがドーリス文化に他ならない。だがドーリス文化への言及は極く僅かである。いまやニーチェは、アポロンとディオニュソスが有機的な結合を遂げたディテュランボスの叙述へとその筆を進めるのである。
ディテュランボス
ディテュランボスにおいて、アポロンとディオニュソスが一体化する。より正確に言えば、ディオニュソスがアポロンを取り込む。ディオニュソス的なものだけでは、シレノスの哲学を超えることは出来ない。なぜなら「生存の日常的制限や限界を破壊するディオニュソス的状態の恍惚境」は、「過去における一切の個人的体験が浸され(略)忘却というこの空隙によって、日常的現実の世界とディオニュソス的現実の世界が相互に切り離される」が、「かの日常的現実が再び意識に上るやいなや、その現実は吐き気を催させる」からである。つまり「今や人間は至るところに存在の戦慄と不条理のみを見」、「森の神シレノスの叡智を認識する」からである。つまり単なる狂酔乱舞は、ニヒリズムを超えることがない。陶酔している瞬間は、一時的なものに過ぎないからである。冷酷な理性がなければ、日常性に復帰したとき対処出来ない。ここで必要とされるのが、アポロン的原理である。両者が結び合わされた芸術のみが、シレノス的認識を回避し得る。つまり狂酔乱舞しながらも、踊り狂う自分の背後に覚醒した己自身を坐らせなければならない。言わば半覚醒状態で、夢を夢見なければならない。この状態を可能にするものこそが「中間世界」であり、この世界を出現させる芸術こそが、ディテュランボスである。ディオニュソスの秘祭が、単なる性的放縦でしかなかった小アジアのそれを脱し、世界救済を果たせるギリシアの祭祀となったのはこの瞬間においてである。アッティカ悲劇は、ここから発現する。
ここに、意志のこの最大の危機に際して、医術に長けた救済の魔法使いとして芸術が近寄って来る。芸術のみが、存在の戦慄と不条理に関するあの吐き気のする思想を、生きることを可能ならしめる表象へと変形させることができるのである。この表象こそ、戦慄すべきものの芸術的制御たる崇高なものと、不条理なものの嘔吐からの芸術的解放たる滑稽なものである。ディテュランボスのサテュロス合唱隊はギリシア芸術の救済的行為である。ディオニュソスのこの従者たちの中間世界によって前述のあのもろもろの発作は鎮まったのである。
結論しよう。シレノス哲学の価値変更、すなわちニヒリズムの超克は、ディテュランボスによってのみ可能である。後期ニーチェ「ニヒリズムの超克」の内実も、ここから捉え返すことが出来るに違いない。
夢
しかし私は結局のところ、疑問を持たずにはいられない。それではニーチェが称揚するオリュンポスの神々は、ニーチェが論難してやまない道徳と根底においては同一のものであるのか?あるいはこう問うても良い。オリュンポスの神々と、キリスト教の神とを分け隔てる差異は、一体どこにあるのか?ニーチェの夢に対する態度とデカルトのそれとの対比が、両者の差異を際立たせるのに寄与するだろう。
周知のようにデカルトは「ただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、(略)ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた」。そしてデカルトは感覚を疑い、幾何学を疑い、「そして最後に、われわれが目ざめているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまたわれわれに現れうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれないということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてはのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮定しようと決心した」。そしてその直後にコギトを発見し、それを哲学の第一原理とするのであるが、それではデカルトは、夢と現実との境界線を一体どのようにして引いたのか?
周知のようにデカルトは「ただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、(略)ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた」。そしてデカルトは感覚を疑い、幾何学を疑い、「そして最後に、われわれが目ざめているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまたわれわれに現れうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれないということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてはのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮定しようと決心した」。そしてその直後にコギトを発見し、それを哲学の第一原理とするのであるが、それではデカルトは、夢と現実との境界線を一体どのようにして引いたのか?
デカルトは、神と精神との関係を持ち出して来る。真なるものを、真なるものとして保証しているのは神である。種々の人間精神は、神との距離によってそれぞれ分節される。そして理性は、最も神に近い能力である。
理性は、われわれの観念や概念がすべて、やはり何らか真なる点を基礎にもっているはずであることを教える。なぜならまったく完全でまったく真実なる神が、そのような真理性の基礎なしに観念をわれわれのうちにおいたということはありえぬはずだからである。そして、われわれの推理のほうは、われわれが眠っているときには、目ざめているときほど明証的でも完全でもけっしてありえないのであるから、たとえわれわれの想像のほうが、睡眠中に覚醒時と同様にあるいはそれ以上に力強くはっきりしていることがときにはあるとしても、理性はやはり次のように教えるのである、われわれがあらゆる点で完全なのではないゆえにわれわれの思想もあらゆる点で真ではありえぬのだから、われわれの思想の真なる部分は、夢においてよりもむしろ、われわれが目ざめてもつ思想において、まちがいなく見いだされるはずである、と。
つまり夢には、理性より下位の能力である想像や感覚が関与すること大であるので、真なるものが少ないと評価されるのである。夢は神から遠いがゆえに、疑わしい。このようにデカルトにおける夢は、実際には出来ないにもかかわらず、神の名において現実から截然と区別される夢である。
一方ニーチェはどうか?ディテュランボスが発生する際に、重要な抑制装置としての機能を果たしたその存在規定に戻れば、アポロンはそもそも「夢の表象の神」であった。だがこの「夢」は、いわゆる夢ではない。「それでもわれわれはこの夢の現実の最高度の生に際して、やはりこれは仮象だというおぼろげな感じにつきまとわれる」、そういう夢である。これは夢だと分かって見ている夢なのであり、言わば覚醒夢のことなのである。このことはアポロンが予言の神であり、巫女が半覚醒状態で神託を受けることを想起させる。つまり「美しい仮象の神は同時に真の認識の神たらざるをえない」のであり、反省的認識の神なのだ。ディオニュソス的原理は破壊の原理である以上、それを見た者も破壊されてしまうし、ディオニュソス神の方でも何かに己の身を仮託しなければそもそも現象し得ない。単なるディオニュソス的な恍惚境は、一時的な慰藉に過ぎない性的放縦・乱痴気騒ぎに過ぎない。この文脈で、いわば安全弁としてアポロン的原理が要請されるのであり、その存在規定もここから決定されなければならない。つまり「永遠に悩めるもの」、「矛盾に満てる者」である「根源的一者」は、始原的かつ恒久的に亀裂を孕んでいるのであって、時間や空間、因果律、論理的構造、動機などによって媒介的に光を放たざるをえない。したがってアポロン的原理とは反-省 Re-flexion の原理以外の何物でもない。この意味でデカルトの夢理解は直線的であり、ニーチェのそれは曲線的である。
オリュンポスの神々とキリスト教の神との限界線を画定しよう、それは反省の有無である。
※註:ニーチェの翻訳は、ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』と白水社の『ニーチェ全集』を使用させて頂いた。