水木しげる『猫楠』186p
↑水木しげる『猫楠』(角川文庫、1996)の186頁。

 南方熊楠(1867‐1941)。民俗学者・博物学者。粘菌研究者としても有名。あらゆる分野の学問を渉猟した知の巨人として興味の赴くまま広範囲に研究活動をした。「歩く百科事典」との異名をもつ。その領域横断的思考は「南方曼荼羅」として図式化され、今日、諸学問を総合した思想家としても高く評価される。主著は『南方随筆』(岡書院、1926)、『十二支考』(平凡社、1972)など。


◎南方熊楠略年譜

1867年 4月15日、和歌山県にて誕生。次男。父親は金物商。
1883年 和歌山中学を卒業し、来年、東京に出て東大予備門に入学。
1886年 期末試験の点数が足りず東大予備門を退学し、和歌山に帰る。
1887年 アメリカ留学。独学の道を歩み始める。
1893年 科学雑誌『ネイチャー』に、最初の論文「東洋の星座」が載る。真言密教僧・土宜法龍と出会い、書簡を交換し合う。
1897年 ロンドンで亡命中の孫文と会う。
1900年 10年以上の留学を終え、帰国。菌類彩色図譜の制作を始め、死ぬまで続ける。
1904年 日本国内の雑誌に初めて投稿記事が掲載される。
1906年 田村末枝(28歳)と結婚。翌年長男誕生。
1909年 神社合祀反対運動を展開する。
1911年 柳田国男と往復書簡をする。
1916年 新種の粘菌を発見し、後に学名「ミナカテラ・ロンギフィラ」が名づけられる。
1926年 『南方閑話』(坂本書店)。『南方随筆』。『続南方随筆』(岡書院)。
1941年 12月29日、死去。
 


・Kumagusuから熊楠へ



「小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあらず」(「履歴書」=矢吹義夫宛書簡(1925・1・31)=『南方熊楠全集』、第七巻、平凡社、1971、61‐62p、以下ページ数のみ記す)
 


 「在野研究のススメ」も第十回目の更新である。今回は十回記念として、知の巨人、というか学問バカの南方熊楠を取り上げよう。熊楠、熊goose、熊鵞鳥…特に意味はない。

 しかしながら、今回の南方熊楠は、在野研究者のスターといってもいいほどに、研究され、言及され、考察され、その奇人伝説も含めて既に人口に膾炙している。参考資料も大量にある。前回のエリゼ・ルクリュとは正反対だ。みんな大好き中沢新一の『森のバロック』(講談社学術文庫、2006)でも読んでればいいんじゃないか。わざわざ、門外漢の筆者が熊楠紹介などする必要もないのではないか、と思わないでもない。

 しかし、在野研究者としての熊楠のキャリア構築に関して、やはり無視することはできない。それぐらい、興味深い研究サンプルだからだ。先取りしていえば、熊楠が初めて学問的に認められたのは日本ではなく、外国の学術雑誌だった(ちょうどいまSTAP的な何かで話題の『ネイチャー』である)。そこからの逆輸入で、熊楠の研究とその人となりは日本で広まっていく。

 この過程は今日において極めて重要だ。例えば、今日の大学院生はポスドク問題に直面しているが、それは所詮ドメスティックな、頭の悪い日本政府が生み出した問題にすぎない。就職先の視野を海外にまで広げてみれば、そのような閉塞感は、もしかしたら容易に(?)解放されるのかもしれない。グローバル社会において、(嫌な言い方だが)「グローバル研究者」になって戦うことができれば、日本でのチンケな椅子取りゲームに参加せずともよいのだから。

 そんなとき、単身外国留学して学術雑誌に投稿し続けた熊楠の在野生活は極めて現代的な意義をもっているように思われる。今日、第二第三のKumagusuは可能か? 天才すぎて途中でやる気をなくす気もするが、熊楠伝説のハジマリハジマリ、である。


・学校嫌い、勉強大好き

 1879年、熊楠は和歌山中学校の一期生として入学した。この頃の小中学校は明治の新体制の元で新設されたばかりで、つまりは新時代の新しい教育を熊楠は受けることになった。しかし、その新体制は彼にとって余り意味をもたなかったようだ。



「明治十二年に和歌山中学校できてそれに入りしが、学校にての成績はよろしからず。これは生来事物を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い多きものを知りたるゆえ、一向傾聴せざりしゆえなり」(8p)
 


 しかし、このような態度は、学者的素養の欠如を意味していたのではなかった。入学以前、熊楠は自身がいうには、「漢学の先生について素読を学ぶに〔中略〕一度師匠の読むを聞いて二度めよりは師匠よりも速やかに読む」(8p)ほどのリテラシーを身につけていた。神童すぎる。

 このような自習癖は中学を卒業し、上京して東大予備門に入ったあとも変わらなかった。



「明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず」(8p)
 


 ちなみに、ここで出会った教授に高橋是清(1854-1936)がいる。第20代内閣総理大臣である。高橋は南方を「ナンポウ君」と呼んでいたらしいが、後年、首相になった高橋は、(計画は頓挫するものの)南方植物研究所を設立するための資金援助の協力をしてくれようとする。縁がどんな形で活きてくるかは分からない。


・単身アメリカ留学へ

 成績不振のために二年で東京の学校を落第した熊楠は、地元の和歌山に帰る。そして、アメリカ留学を決意することになる。十年以上に渡る海外生活の始まりだ。しかし、そこでも東京での生活と根本的な態度は変わっていなかったようだ。
 


「商業学校に入りしが、一向商業を好まず。二十年にミシガン州の州立農学に入りしが、耶蘇教をきらいて耶蘇教義の雑〔マジ〕りたる倫理学等の諸学科の教場へ出でず、欠席すること多く、ただただ林野を歩んで、実物を採りまた観察し、学校にのみつめきって図書を写し抄す」(8p)。
 


 アメリカ時代の熊楠は、英語本読書と生物採集(高等植物、地衣類、藻類、菌類)に意欲的に取り組んでいる。そして五年間アメリカで生活した後、イギリスに渡る。ちなみに、生活費はすべて実家からの仕送りで食いつないだ。基本ニート、これも熊楠の大きな特徴だ。


・海外デビュー



「『ネーチュール』(お承知通り英国で第一の週間科学雑誌)に、天文学上の問題を出せし者ありしが、誰も答うるものなかりしを小生一見して、下宿の老婆に字書一冊借る。きわめて損じた本でAからQまであって、RよりZまで全くかけたり。小生その字書を手にして答文を草し、編輯人に送りしに、たちまち『ネーチュール』に掲載されて、『タイムス』以下諸新誌に批評出で大いに名を挙げ、川瀬真考子(当時の在英公使)より招待されたることあるもことわりし」(13p)
 


 欠けすぎだろ、というツッコミはおいておいて、イギリスは熊楠の研究者としてのデビューの地となった。当地で購入した『ネイチャー』に東洋の星座に関する問題提起の投書(東洋人の星座の知識はどうなっているのか?)を見つけた彼は、その応答文を書き、見事掲載される。『ネイチャー』には、誌面で科学的な疑問に関する問答を繰り広げるコーナーがあったのだ。これが処女論文である「東洋の星座」だ。それ以降、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クリエーツ』に沢山の論考が掲載された。寄稿は、日本に帰国したあとも続いた。

 熊楠の海外デビューは、自身が英語を操れる日本人である特殊な境遇が幸いしていた。珍しい東洋の専門家として、発表が許された、というわけだ。しかし、興味深いことに、熊楠は、総合学術誌『ノーツ・アンド・クリエーツ』では、東洋専門家を脱するかのように、欧米文献を用いて、民俗学的論考を発表するようになる。既に領域横断的研究の面目躍如が見て取れる。

 もうひとつ大きな縁故ができた。美術商である片岡政行が仲介して、大英博物館の情報提供者として重宝されることになったのだ。神道や仏教と不可分の日本宗教美術に関する知識を英語で説明できる人材が求められており、英語論文を書いたこともパフォーマンスとなって、熊楠に白羽の矢が当たったのだ。

 大英博物館に通いつめた熊楠は、西洋東洋問わずよく似た風習や民話が語り継がれていることに気づく。このような体験が比較民俗研究へと発展することになったのだ。


・「リテレート」として生きる

 熊楠は学校嫌いを公言し、学位というものを馬鹿にしていた。南方と同じく民俗学の巨人であった柳田国男に宛てた書簡(1911・6・25)では「学位を受けること大嫌いで、学校もそれがため止め申し候」と書き綴っていた(『全集』、第八巻収、51p)。

 その理由は、熊楠からすれば、「amateur素人学問」の方が「玄人専門の学者を圧するもの多し」(26p)と感じていたことに由来する。例えば、「スペンセル〔スペンサー〕、クロール、ダーウィン、いずれも素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり」(26p)。



「わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を防ぐること多きは百もご承知のこと。小生は何とぞ福沢先生〔福沢諭吉?〕の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四、五歳のとき手に得られるべき学位を望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学して和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこを卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆が世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思いおりたり」(26p)
 


 熊楠はこのような素人学者を、「リテレート」(文士)と呼んでいたそうだ。



「官学者がわしのことをアマチュアだというが、馬鹿な連中だ。わしはアマチュアでなくて英国でいう文士即ちリテレートだ。文士というても小説家をいうのじゃない。つまり独学で叩きあげた学者を呼ぶので、外国ではこの連中が大変もてる」(雑賀貞次郎『追憶の南方先生』、紀州政経社、1976、13-14p)
 


 筆者(荒木)の経験上、在野研究者だからといって別段女性にモテることはない。しかし、学位の下らなさについては心底共感するものがある。プロでもアマでもなく、リテレート。熊楠が留学が獲得した最大のものは、英国由来のこの概念だったかもしれない。「リテレート」であることにプライドを感じるかのように、職なく妻なく金なくとも、彼は以降の在野研究に自信満々で前進していった。


・熊野の自然で研究する

 熊楠の父母は共に留学中に死去している。熊楠は親の死に目には会えず、兄弟を通じて仕送りを貰っていた。それ故に、兄のていたらくに呆れた弟からの送金が途絶えると、彼は泣く泣く日本へと帰国せねばならなかった。1900年、33歳のときである。

 和歌山に帰ってきても、学位ひとつ持ち帰らず、ヘンテコな植物の標本しか成果がなかった彼を、家族は煙たく感じていた。そのため、熊楠は和歌山でも、那智、そして田辺に移り住む。その地から国内雑誌、海外雑誌への投稿することで、研究成果の発表が続けられた。

 また、その田辺の地で周囲の勧めもあって熊楠は田村松枝と結婚する。翌年、長男の熊弥が誕生する。同時に、粘菌研究もその熊野の地で大幅に前進した。



「熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上きわめて尊かりし所以で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。例せば、只今小生唯一の専門のごとく内外人が惟う粘菌ごときは、東大で草野〔俊助〕博士が二十八種ばかり集めたに過ぎざるを、小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し候。その多くは熊野の産なり」(28p)
 


 このような自然にある研究フィールドへの親和が、神社合祀反対運動というエコロジー運動の動機づけになった。神社合祀令(神社の統廃合)は、森林で覆われている日本の神社にとって、自然破壊の原因となってしまう。またそれだけでなく、神社の破壊は庶民の信仰心を荒廃させ、共同体の連帯感や道徳心を断ち切ってしまうのではないか。熊楠は自然保護の目的だけでなく、人間性保護の精神で運動を展開した。

 「自然環境」と「社会」と「人間」という三相で、自然保護論を考えたフェリックス・ガタリの『三つのエコロジー』(平凡社ライブラリー、2008)を思い出す。


・「履歴書」以後

 自身の半生を綴った「履歴書」は1925年までで終わっている。その後の熊楠はどのような人生を送ったのだろうか。

 合祀反対運動で著名となった熊楠は知名度を高め、様々な民俗学者との親交を深めた。この結果、熊楠の功績を認めた仲間たちが中心になって、「南方植物研究所」設立の話が持ち上がる。結局、その計画は人間関係の行き違いから頓挫してしまうが、在野の熊楠が、しかし決して孤独に研究生活をしていなかった興味深いエピソードだといえる。

 また、もうひとつの大きな事件として、1929年、63歳になった熊楠は、昭和天皇が田辺湾の神島を見物したさい、長門艦上にて御進講を行い、粘菌標本を進献している。その喜びはひとしおだっただろう。

 在野研究者のくせして、熊楠ほど成功した研究者は類を見ない。その成功にはたぐい稀なる才能があったことももちろんであるが、海外の評価を先に獲得して、その後、国内へと逆輸入した珍しい経歴が大きく関係しているだろう。そして、そのような戦略は、繰り返しになるが国内大学の就職状況が厳しい昨今、今一度見直されていいキャリア構築の方法であるように思われる。


・下ネタ大好き

 最後になったが、熊楠がもっとも生き生きとしてるいるのは、学問話をするときもさることながら、下ネタを書き綴っているときのテンションの高さも半端ないことを指摘しておこう。



「処女は顔相がよいのみで彼処には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光がさすと諺の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝れり。それは「誰が広うしたと女房小言いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥井のあいだでステッキ一本持ってふるまわすような、何の手ごたえもなきようなが多い。故に洋人は一たび子を生むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後から取ること多し。これをラテン語でVenus aversaと申すなり。(支那では隔山取火という。)されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊が鰯をからみとり、章魚が梃に吸いつき、また丁子型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなれるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれそんなにされるともうもう気が遠くなりします、下略、と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦ぎにもなる理屈なり」(57-58p)
 


 そ、そうですか…。こういうガハハ系オヤジが飲み屋にいると本当に難儀するが、ともかく、熊楠の領域横断的好奇心はシモの次元にも果敢に突入していくのである。文句を言ったって、領域横断なんだから仕方ない。

 ちなみに、熊楠本人の証言を信じるならば、彼は40歳で結婚するまで、自分の童貞を貫き通した、童帝でもあった。下ネタ大好きだけど、童帝王の学問バカ。偉大なる研究者として大成するには女体の色香に騙されてはいけない…のか?



◎ 文中に引かなかった参考文献

・鶴見和子『南方熊楠』、講談社学術文庫、1981。
・仁科悟朗『南方熊楠の生涯』、新人物往来社、1994。
・『南方熊楠――奇想天外の巨人』、平凡社、1995。 
・『南方熊楠―森羅万象に挑んだ巨人 』、平凡社、2012。 
 

※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。