bandicam 2014-03-04 20-00-42-708


 「本と出版の未来」を考えるためのWEB雑誌「マガジン航」に、去年自費出版した拙著『小林多喜二と埴谷雄高』の一年分の決算を報告した「自費出版本をAmazonで69冊売ってみた」を書かせてもらった。

 この記事でも書いたが、Amazonのみだと69部、印税にすると2万8980円になった。対面でも(おそらくウェブ上でも)En-Soph関係の方々にも買っていただき、またそれだけではなく、反省してみればそのほか有形無形の協力を沢山いただいたように思う。改めて感謝します。本当にありがとうございました。頂戴した印税は資料のコピー代や図書館への交通費として用いることで、今後の研究成果に還元させていただきます。


 「マガジン航」に原稿を書くのはこれで三度目で、第一作は「在野研究の仕方――「しか(た)ない」?」(2013/4/3)で、第二作は「カネよりも自分が大事なんて言わせない」(2013/6/13)。今回のと合わせて「マガジン航」三部作が完成したように思う。

 もちろん、ただたんに媒体が一緒なだけで三部作をつらぬく一貫した意図が最初からあったわけではない。けれども、書いてきたものを通読してみると、(同じ人間が書いているのだから当然かもしれないが)なるほど、私はずっと同じような関心の下で行動していたんだなぁということがよく分かった。

 簡単にいうと私はルサンチマンを克服するにはどうすればいいのか、を延々考えていたのだと思う。ルサンチマンressentimentとは何か? それは強いセンチメント(感情)であり、しばしば「怨恨」と訳され、ニーチェの哲学の鍵語となる。しかし、ニーチェのいうルサンチマンとは、単なるウラミ・ツラミを意味するのではない。

 ニーチェにとって、宗教や道徳は弱者が勝手につくりあげたものにすぎない。弱者は強者の迫害を受け、現世では太刀打ちできない、そんなフラストレーションを解消すべく、現世(イマココ)ではない超越的世界、天国や神の国をでっちあげる。正しい世界、「本当」の世界だ。それが「姦淫すること勿れ」と言ったりするキリスト教(宗教)や「嘘をつくな」と命令するカント的定言命法(道徳)が生まれてくるメカニズムだ。

 だから、弱者は本当は苦しいのに涼しい顔をしている。自分は「良きこと」をしているから、神様や聖職者に褒められると、死後に自分は救われると信じているからだ。しかし、その余裕は、現世での生の充実を否定し放棄することによって得られる。そんなんでいいの? その問いがニーチェの破壊力の核心にある。

 何が言いたいのか。たとえば、「近代文学は終った」のだから自分が評価されないのは仕方がないと言うとき。たとえばポスドク問題を作るような政府だから研究に集中できないのは当然だと言うとき。たとえば、新人賞に受からないから何を表現しても無駄だと言うとき。私たちは、自分の無能を棚に上げて、適当なものを超越化して、それを理由にして、その偽物の神様が言うのだからしょうがない、と居直っているのではないだろうか。モシとかタラとかレバとか、そんなイマココにはない可能世界に逃避したいと思っているんじゃなかろうか。

 別にそれが悪いとか言いたいわけではないし、それなしではたぶん人間は生きていけないのも本当だ。無能が悪いわけでもない。けれども、私は「こんな風になっているのはアイツ等のせいだ」とか「本当はああしたいのに世間が許してくれない」とか、そういうお手製の「神様」がいる世界に心底ウンザリしているのだと思う。どいつが神様を作ろうが、そんなもの偶像にすぎない。道端にいるお地蔵様と一緒で、適当に会釈して、よくできてますねとかお世辞を言って、そのままスルーして歩けばいい。お地蔵様をわざわざぶっ壊す必要はないけれど、他人のお地蔵様を拝む義理もないよ。

 私は「アナーキズム」という言葉をそうやってどしどし歩いていく奴の思想の意味で使っている、と思う。お手製の神様で誰かを支配することも、不細工な他人の神様に支配されることも、糞くらえだぜ、馬鹿野郎。やれることがあったらやってみればいい。できることをできるだけやってみればいい。それで失敗したらまたやればいい。どうせ人間なんて他の人間のことを馬鹿にしながら生き続けるのだから、他人の目なんて気にしたって仕方ない。進め、進め、歩け、歩け、転べ、転べ。歩くことで国境を超えれば、別のルールが待っている。歩くこと、それはルールとルールの間を歩くことだ。歩くこと、それは沢山のルールを収集し、そのルールの束を用いて自らアレンジしながら自分ルールを錬成することだ。

 さて、拙著が出版されてから一年経った。もうそろそろ次の仕事に取りかかるべきだろう。在野になってからもう三年くらいだろうか。その期間で薄々分かってきたのは、持続こそ力なり、という平凡だが極めて普遍的な至言だ。今後も拙いことをぐちゃぐちゃと書きなぐるかもしれないが、(生)暖かい目で末永く見守っていただければ幸いである。頑張るぜ!