エリゼ・ルクリュ
↑ルクリュ『世界文化地球体系』(石川三四郎訳、有光社、1943)。

 エリゼ・ルクリュ(Élisée Reclus, 1830-1905)。地理学者。19世紀最大の地理学者の一人に数えられる一方で、地理学的知見に基づくアナーキズム理論も構築し、自身も積極的に社会主義運動に参加する。自然(地球)と人間の調和的統一という発想で、包括的な人文地理学を展開。主著に『新世界地理』(Nouvelle geographie universelle, 1876-1894)、『進化・革命・アナーキズムの理念』(L'évolution, la révolution et l'idéal anarchique, 1897)、『地人論』(L'homme et la Terre, 1905-1908)。その他多数。
 



◎エリゼ・ルクリュ略年譜

1830年 3月15日、誕生。
1842年 姉と兄が学んだドイツ・ライン地方のノイヴィエドのモラヴィア兄弟の開いた学校に送られる。その後、故郷のプロテスタントの学校に入る。
1848年 バカロレア資格を取得。兄とともにモントーバンの神学大学で神学を学ぶ。
1851年 再びドイツに赴き、ベルリン大学で多くの講義を聴講する。そこでカール・リッターの地理学に出会う。キリスト教から離れる決心をする。徒歩と野宿でフランス横断の旅決行。アナーキズム思想に目覚める。
1857年 イギリス亡命を果たしたあと、様々な雑誌に地理学関係の論文を発表。
1858年 クラリス・ブリアンと結婚。
1865年 イタリアのフィレンツェでバクーニンと会う。
1868年 『大地』(La Terre)全2巻、刊行開始。『大陸』(Les continents)。
1871年 パリ・コミューンに参加。
1872年 10年間の国外追放の刑が確定し、3月からスイスで国外生活。
1876年 『新世界地理』全19巻、刊行開始(94年まで)。クロポトキンと会う。
1880年 「進化と革命」を『反逆者』紙上で発表。
1890年 フランスに戻り、パリ近郊に住む。
1894年 ベルギーのブリュッセル自由大学に地理学教授として招聘。
1897年  『進化・革命・アナーキズムの理念』。
1905年 7月4日、死去。『地人論』全6巻、刊行開始。
 


・地理学とアナーキズム
 
 私はアナーキストなので、政府も共同体も人類も克服するべきだと考えている。こういうのは言った者勝ちなのであって、バックボーンとしてそこにアナーキズムに関する学問的歴史的知識が有るとか無いとか云々といったことで、足踏みするものではない。勝手に言えばいい。というか、どっかの権威に公式的だと認めてもらわなければいけないアナーキズムなんて、どこがアナーキーなのか? 「アナーキズムを語るなら、プルードンくらい読まんとな」とか言って来る輩には馬糞でも投げつけておけばよい。ミキプルーンでも食ってろ!

 さて、そうはいったものの、人は考える必要がなくても勝手に考えてしまう生き物だ。そして、頭が悪いながら、私が有島武郎を読みながらずっと考えていたことの一つに、クロポトキンにしろルクリュにしろ、アナーキズム理論を構築した知識人に、政治学者でも社会学者でもなく、しばしば地理学者がいたのは一体どうしてなのか、ということがある。地理学と無政府主義、この不思議な結びつき。

 といっても、象徴的にいってよければ、答えははっきりしているのかもれない。漱石風に表現してみるとすると、「大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、忽ち切れ切れになってしまった」(『それから』第八章)。つまり、大地の連続性に比べ、国境(「家」)の線引きなど恣意的で不当でしかないという、フィールドに根付いた地理的観察眼である。

 さて、今回はそんな在野地理学者のエリゼ・ルクリュであるが、残念ながらルクリュは本国フランスでも長いあいだ捨てておかれた対象だった。本国でそうだったのだから、日本では言わずもがな。我が国でただ一人といってもいいかもしれないルクリュ研究をする野澤秀樹によれば、フランスでも徐々に再評価が進んできているというが(「エリゼ・ルクリュとアナーキズムの思想」、『空間・社会・地理思想 』、2006)、その成果が的確に輸入されるにはもう少しのときを待たねばならないようだ。

 つまり、何が言いたいかというと、今回の記事ほど、資料集めに難儀したものはない、ということだ。それゆえ、以下記述してみたいのは、ビギナー中のビギナー、入門とさえいえない門をノックするようなルクリュ紹介である。ノックの音を聞き、興味をもった若い人がルクリュの新たな読者に、また、「勝手に」新しい翻訳者となってくれるかもしれない。そんなささやかな願いをこめて、(彼もまた偉大な在野研究者である)石川三四郎『エリゼ・ルクリュの思想と生涯』(ルクリュ+石川三四郎『アナキスト地人論――エリゼ・ルクリュの思想と生涯』収、書肆心水 、2013)を道しるべにルクリュ地図を拙いながらもスケッチしてみよう。


・神学から政治へ

 ルクリュの父親は牧師だった。カトリック教国のフランスでは珍しいプロテスタントだ。この事実はルクリュに絶大な影響を与えた。幼年期から青年期まで、カール・リッターの地理学に出会うまで、彼が主として学んだのは神学であり宗教だった。

 しかし1848年、20歳頃のルクリュ(そして兄のエリー)は、モントーバンの官立神学校に籍を置いたが、二月革命に代表されるヨーロッパで渦巻く政治の動乱に神学以上の感化を受ける。「現実の生活は学校の教授よりも遥かに教訓的になった」(168p)。あるとき、ルクリュ兄弟は別の一人の同志と一緒に、学校から抜け出し、徒歩でセヴェンヌ山岳地帯を越えて地中海地方へと赴いた。これによりルクリュを含めた三人は停学処分された。

 神学よりも政治を優先させた青年期の行動に、後のルクリュの人生が予告されているといえるかもしれない――実際彼は神学を捨てて地理学とアナーキズムを学ぶ――。ともかく、停学された彼は、しかしバカロレア資格を取得していたこともあり、一年間だけドイツ・ノイヴィエドで復習教師としてモラヴィアに滞在する。そのあと、自分の勉学への欲望を抑えきれず、単身、ベルリンに赴いた。



「彼の両親は貧しい牧師で、もとより彼に学資を送る余裕などなかったので、彼は自給自足の道を立てなくてはならなかった。彼は学校内に小さなフランス語教授の広告を出したところ、直ぐに二、三の申込があった。神学教授のヘルグステンベルヒという人は、多分父親の知人であったであろうが、彼のために或る伯爵家の家庭教師の職を紹介してくれた。ところが「共和主義者でないこと」という条件がついていたので、彼は何の躊躇もなくお断りした」(170p)
 


・カール・リッターとの出会い

 ルクリュはベルリンでも神学を勉強しようと思っていた。しかし、彼には特別な出会いが待っていた。当時フンボルトのライバルであった「近代地理学の父」ことカール・リッター(Carl Ritter, 1779‐1859)の地理学講義である。

 リッターは人文地理学の大家で既に1822年から大著『地理学』の出版を初めていた(ちなみに、これは未完に終わる)。この講義により、ルクリュは大地(地球)が統一された全体であるという、後年展開される核心的テーマを学び、在野地理学者への道を歩み始める。この経験は間接的に聖職者としての道を諦めることでもあった。

 しかし、そのベルリン生活は依然として極貧のなかで行われた。



「彼は非常な貧困の中に学究生活を続け、或る時は燃料を購入することもできなくて、已むをえずベッドの中で勉強せねばならないこともあった。聴講料を払うことができないで、公式には講座から締めだされたのであるが、そのような事は素より彼の志を屈するに至らず、彼はこれを無視して講座に出席した」(171p)
 


 モグリ学生、実にアナーキーである。在野研究的に考えてみれば、モグリで大学の授業を聴くという行為は、今日でも有効な学習手段であるようにみえる。

 別に大学の先生にアンケートをとった訳ではないが、(大学に属していた頃の感覚で)直感的にいうと、やる気はないけれども単位のために仕方なく出席する正規の学生に比べれば、やる気のあるモグリの学生の方がずっと歓迎されるのではないか、と思う。従順である限り、大学の先生の多くは余り正規/在野の分節に対して興味がないようにみえる。かつて浅羽通明は『ニセ学生マニュアル』(徳間書店、1988)という本で盗み聞きできるオススメ大学講義を紹介していたが、ゲリラ学問を展開する上で、ニセ学生は(暇が許すならば)今なお貴重な手段だろう。


・有機的全体としての地球

 さて、ルクリュに戻ろう。徒歩で本国に帰国したルクリュは、パリからのニュースで、ルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)が、クーデターを起こし、帝政への道を開いたことを知った。これに反発した彼は市庁舎を占拠し、抵抗を市民に呼びかけるが失敗。この件による逮捕を恐れ、兄エリーと共にイギリスに亡命することになる。5年以上になる海外亡命の始まりだ。

 イギリスからアメリカ旅行へ経て、ルクリュは地理学者として覚醒していく。ルクリュの執筆スタイルは学者のように自室に篭って論文を書くというより、旅行の合間合間に断続的に体験のスケッチを重ねることで成り立っていた。理論があり実験があるのではなく、実験(実見)と共に理論を育てた。

 1857年から1870年前半まで、ルクリュは『両世界評論』を初め、『パリ地理学協会誌』などの雑誌に亡命中訪れた各地方のレポート、そして地理学論文を矢継ぎ早に発表した。また、大手出版社との契約で、旅行ガイドブックの執筆にも協力する。それが処女作といっていい『大地』全2巻(1868‐1869)に結実することになる。

 ルクリュの思想の根本的なテーゼは、地球とは有機的全体であり、山地、半島、河川、海流はそれぞれの地球の器官である、ということだ。地球は生きている。だから地理学は地球の生理学に等しい(この包括的意識は同じ在野地理学者の三沢勝衛を想起させる)。

 それは自由意志をもった人間も例外ではない。そこに住む気候や土地といった自然条件とは無関係でいられずに変化を被り、それに加え、人間は環境を改変していくことで大地に変化を与える。人間と地球は、そのような相互作用的な関係にある。

 例えば、ここから私的所有への疑問という、彼のアナーキズムに連続していくような問いが提起される。一部の土地所有者や不動産屋が美しい自然の景観を金儲けのために破壊することは許されるのか? 人間は大地を専有してもいいのか? 「人」は「地」の子供であるのに?


・人はみな混血

 そもそも、ルクリュにとって国土を所有する主体たる「人種」概念(~人)そのものが混淆的に成立していたものだった。地理学三部作(第一は『大地』、第二は『新世界地理』)の第三作目『地人論』(石川三四郎訳、春秋社、1930)では、冒頭近くで、全ての人間の「混血」性を強調している。
 
 

「若し或る部族が或る岩窟の内に閉じ込められてゐたならば、或は混血を避けて純潔を保持し得るかも知れない。けれども苟も接触が行はれるや、その時から混血は行はれるのである。実際に総べての人は混合した人種に属する。黒種と白種といふやうな最も反対な種族すら、多世紀以来、新らしい混成人種となつて合同してゐるのである。〔中略〕某々愛国者は人種間の混合を否定しようと試みるが、それは無益である。例へば、その血統の最も純潔なることを誇る者でも、みな幾千百万の祖先を有し、その祖先中には最も異なつた諸種の典型が代表されてある」(『地人論』、4‐5p)
 


 人種は沢山ある、しかしどれもみな「混成」という点を共有している。違うことを共有している。大地の子供、「同じ『地』の子供達」(『地人論』3p)として、人間はみな平等だ。大地に根付いた地理学的人間観からアナーキズムを目指す理路は分かりやすい。

 ちなみに、ルクリュが結婚した最初の夫人(ルクリュは三度結婚している)のクラリスは、自分の出身地で出会った、アメリカ人とセネガル黒人との間に生まれた混血児であった。


・純粋環境批判

 ルクリュの(地理学とアナーキズム両方に関係する)仕事の一つは、人間が変えることができる環境とは何か、と問うこと、といってもいいだろう。人間が地理的環境から被るアプリオリ(先験的)な条件と可変的なアポステリオリ(経験的)環境をきちんと区別するという意味で、カントのそれを真似ていえば、ルクリュは純粋環境批判を繰り広げた。



「人間が避けることの出来ない自然の諸事実と、人間が免れ或は全然無視し得る処の人為的世界に属する諸事実との間には、気付くかるべき明白な差違が存在するのである。土地、気候、労働及び食物の性質、血統及び婚縁の関係、集団の方式等は、各人間の歴史にも、また各動物にも、感化力を有する原始的の事実である。然るに、俸給とか、保護とか、商業とか、国の区画とか、いふやうなことは、原始時代の社会の些かも制束されなかつた処の第二義の事実である」(37p)
 

 
 「環境は無限に錯綜してゐる。されば人間は、総ゆる方法に動く処の無数の異つた力によつて引つぱられてゐる。そしてその各種の力は、或は直接間接に互に加勢し合ひ、或は互に反撥し合ふのである」(104p)。複雑な環境を統治する大地からの拘束に比べれば、政府や制度を変えることなど造作もないことだ。ルクリュのなかでは、地理学とアナーキズムは同じ問題の裏表、表裏一体の関係にあった。


・コミューン参加以降

 それ故に、1871年、地理学者として名を馳せていたルクリュのパリ・コミューン(労働者階級を主とする民衆によって樹立された世界最初の社会主義政権)への参加は驚きをもって迎えられたが、彼のなかでは地理学は一貫して社会主義やアナーキズムといった社会思想と親和性のある学問だったことは明らかだ。

 コミューン解散後(コミューンは72日しか続かなかった)、ルクリュは10年間の国外追放の刑に処せられ、スイスで国外追放の生活を送ることになる。その中で、同じ地理学者でアナーキストだったクロポトキン(Pyotr Alekseevich Kropotkin, 1842‐1921)と出会い、アナキスト機関紙『反逆者』で論陣を張るようにもなった。

 こうして、再び旅行を重ねながら、地理学三部作の第二作である『新世界地理』全19巻が異国の地で執筆された。また、アナーキズム論をまとめた『進化・革命・アナーキズムの理念』も同時期に書かれた。その後、フランスに戻ったルクリュは、ブリュッセル新自由大学の教授として、学内から抵抗はあったものの、招聘された。


・革命と(しての)在野研究

 ルクリュのアナーキズム骨子を簡単に要約している講演筆記『進化と革命』(石川三四郎訳、黒色戦線社、1972)は、同時に、ルクリュ流の「在野研究のススメ」でもある。

 まずルクリュにとって、進化evolutionと革命revolutionは相互に関連した社会変動の二側面である。端的にいえば、進化は革命の準備段階、そして、革命とは人間によって意識的に行われる準備段階からのブレイクスルーの瞬間を意味する。だから「革命家こそ真の進化論者」(『進化と革命』、5p)と呼ばれることになる。そして、その「革命家」は学校教育の中では生まれて来ない。



「革命家等は、本来の意義を失つた凡ゆる公式理論から逃れて、学校の教育の外に真理を探し求める。彼等は支配者が秩序組織と言つてゐるもの及び教授達が道徳と言つてゐるもの凡てを批判する」(『進化と革命』、5p)

「若し教育がたゞ学校に於いてのみ得られるものであつたならば、政府は尚ほ人間の心を奴隷的に保持することを望み得るであらう。然しながら大部分の知識が得られるのは、学校外に於てゞある。それは市街に於て撮みとられ、工場に於て、市場の店頭に於て、劇場に於て、汽車中に、乗船中に、新らしい風景を眺め、外国の都市を訪うて、受け入れるのである」(『進化と革命』、12‐13p)
 


 この野外学校、端的にいえば社会は、しかも普通の学校とは異なり、貧富の差異を無視することができる。もちろん、富んだ者たちはガイドやホテルがついた贅沢な旅路を満喫できる。しかし、だからといって旅行者の眼に写る、同じ大地の上の社会の姿は本質的に変化しない。



「偉大な学校たる外在世界は、その驚異すべき人間産業を、富者にも貧者にも、これ等の驚異を出現せしめた人々にも、それ等を利用する人にも、等しく開示しはしないか? 貧乏に窶〔やつ〕れた浮浪人も権勢の人と同様に鉄道や電信や揚水機や穿孔器や発火器やを観察することが出来る」(『進化と革命』、13p)
 


 この平等性の根本には、地理学的視点が見出した大地、「地球」という包摂的な大きな存在があることはもう繰り返さなくてもいいだろう。こうしてルクリュは「永久的教育所」を唱える。



「初等教育が全部でないことは明らかだ。それは科学の片鱗を把握するにも足らない。人々は如何なる方面に於いても科学を応用し得ねばならないのだ。そこで社会主義的進化は、必然的に、学校をして凡ゆる人々に対する永久的教育所たらしめるやうにする。小学校で『一般的知識』を受けた後は各々の人は自由に選択した生活の中で、自分の持つてゐる知的才能を充分に発展させて行くことが出来なければならぬ筈だ」(『進化と革命』、15p)
 


・棄権するな!

 最後になったが、ルクリュはアナーキストらしく、代議制民主主義を全く信用していなかったことを書き記しておこう。ルクリュは選挙で投票するな、と述べる。なぜか? それは自分の権利を「棄権」することに等しいからだ。繰り返す。選挙で一票を投じることは「棄権」することなのだ。石川三四郎が紹介翻訳しているジャン・グラーヴ宛の書簡から引こう。
 
 

「投票する。それは棄権することだ。一人或いは数人を短い又は長い期間に向って指名することは、それは自己の主権を放棄することである。君が王座に又は一の椅子に選んだ候補者は、それが絶対的の王になろうと、王国の一小部分を身に付けた憲法的貴族又は単なる代表者になろうと、それは君の優越者であるだろう。君は法律に優越する人間を指名するのだ。なぜなら彼等の任務は法律を作り、君等を服従せしむるにある」(286‐287p)
 
「だから棄権〔投票のこと……石川〕するな。君の運命を、当然無力な人間どもに、未来の裏切どもに、托してはならない。投票するな! 君の利益を他に依託する代りに、君自らこれを防護せよ。将来の行動方式を提議すべき代弁者を頼む代りに自ら行動せよ! 善意の人には好機会が少ない。自分の行動の責任を他に投ずる、それは勇気を欠くことなのだ」(287‐288p)
 


 選挙については何も言わない。ただし、我々はルクリュの口吻を借りて次のようにいうことはできるだろう。棄権するな。義務教育を終え、単位を修了し、たとえ大学を卒業しても学ぶ権利を捨ててはいけない。当然無力な社会人に君の学びを託してはいけない。君自らこれを防護せよ。自分の行動の責任を他に投ずる、それは勇気を欠くことなのだ、と。



◎ 文中に引かなかった参考文献

・ 野澤秀樹「エリゼ・ルクリュの地理学体系とその思想」、『地理学評論』、1986・11。
・〃「石川三四郎におけるエリゼ・ルクリュの思想――その受容と差異」 、『〃』、2006・12。