小林多喜二と埴谷雄高
Amazon:荒木優太 【 小林多喜二と埴谷雄高 [文庫] 】


※ このテクストはもともと高橋から荒木への私信として構想され、書かれ、何人かにメールが送られ、そののち、第三者の判断で公開が提案されることとなった。読者は、以上の経緯を念頭においてほしい。


 1

 小林多喜二と埴谷雄高という二人の作家がいて、少しだけではあるが、同じ時代に生きた。物語はこの二人の出会いから始まる、というのがこの本の書き出しである。といっても、二人が出会うことはなかった。せっかくどちらかがどちらかに会いに行ったのに、留守だったのだ。
 
 昔の作家は、よく会いに行った。吉本隆明さんが太宰治の話をするときには、いつもあの人にカンパを頼みに行った。優しい人だった、と言っている。同じ話を何回もあちこちで言ってるのだ。それだけのことだった、ということだ。会いに行く、という場面から書き始めたのは、この著者のミソであるのかも知れぬ。書いた本人は人間嫌いである。そのことは本人がそう言っているから間違いない。違う言い方ではあるが。それなのに平気な顔でこういうことをする。著者は抜け目なく、なかなか油断のできない人物のようだ。

 二人は出会うことはなかった、と僕は書いたが、それは、この二人は出会わなかったのだ、という意味である。この出会いはあってもおかしくなかったし、実際、あちこちでそういう出会いは起こった、ということで、時代がそうさせたとも言えるし、その時代は人が作り上げ、大きく言えばそれは歴史になった。著者もどうやらそう言いたいように見える。
 
 二人が会う可能性はあったが、実際には会わなかった。というところから著者は、二人の対比を始める。他の誰も書いたことのない組み合わせで驚かせてやろうというのだ。そういう魂胆がここで顔を出した。政治とか文学(またその対比とか、関係とか)という言葉を使っている。しかし、この二人に登場してもらったのは偶然といってもいい、とまでこの著者は言ってのけるのだ。本の題名にまでしてるのに、これはなかなか恐ろしいことだ。気をつけないと、読者ははぐらかされる危険がある。
 
 ここで、ぼくはあたかもこの本を手にするどころか、読んだこともない人に伝えるように書き出すのをお許し願いたい。人が物語を語り出すみたいに話し始めたら、注意しないといけないことがある。物語、なんていう言い方をしていますが、研究だって、何だって、書物は物語ではないのか。人はその驚きを、はじめから終わりまで、それを語り明かすことによって表明するようなもので……。そしてそれは、著者自身にさえ、ということなのです。抽象的な言い方をしているようですが、これはこの本から出てきたことなのです。
 
 そのあと著者は、いきなり全体を予告し、こまかく当時の資料を引き出しながら、小林さんと埴谷さんの人となり、それをへめぐる周辺の実像に迫ろうという目論見があるようだ。読者が忘れてならぬことがある。この二人を選んだのはあくまでこの本の著者であり、彼らはそれぞれに躍動する時代の波にもまれていく、あくまでそこに人物として登場することを願ったのはこの本の著者なのだ、ということである。しかし、また一方でこの二人の出会いを取り出すのは、半ば偶然である、そうとも書いた。これはいったい……。
 
 実は全体の予告のところで、著者は著者なりにこれについてほのめかしている。みなさん、この二人に注目していますね。それはそうでしょう。本の題名なのだから。しかしその二人の間に、小さく、遠慮がちに一文字入っているでしょう?見えませんか?わたしがほんとうに言いたいのは、それですよ。わたしはそれを最後に明らかにする、というそういう形でだ。これはまるで隠喩のようである。詩的といってもいい。
 
 そのことは、続く一章でまたすこし、ほのめかされる。小林さんも含め、色んな所から文章を引いてくる。彼らの意識の発展を追っていくように筆は進む。著者が展開するのはそこで描出されている場面場面とその分析である。過酷な労働がどう運動に止揚していくか、というようなことだ。根こぎの人々が集まった「労働階級」を中心に据えている。この章が「散在する組織」と名づけてある理由はここにある。「労働階級」という言葉はもはや意味がつかみにくいのだが、現代の日本では厳然と存在している。いや、一時期、陰を潜めたように見えた。しかし鮮やかに蘇ったのだ。ここで著者が引く多くの労働の場面はこの意味で価値がある。それは、いま現実に起こっていることが、解釈し直されなければならないからだ。彼らは根無し草ではなく、「根こぎ」なのである。これがもしわかりにくければ、自分を振り返ってみれば良いのだ、と。自分を、というのは自分の生活をということである。この生々しさ。そもそも働く、とは何であろうか。いったい大多数の人において、自分は彼らと同じではない、と自信を持って宣言できる者は、この現代にどのくらいいるか。
 
 ここで、著者がその労働者たちの「散在的組織」を二つの距離の視点から取り扱っている。無限とゼロである。そしてこの距離を埋めていくものがある。それは、共産党である。共産党への帰属がそれを埋めていく。いや、埋めて「いく」のではなくて、一気にこの距離は埋まるのである。著者はこれを「ゼロ距離」と呼ぶ。あちこちに散らばっている最底辺の人々ではあるが、彼らが一つになることが、共産党に入ることによって一気に可能になる、という理屈だ。「どこにいても、なにをしても、われわれは共産党員である。その一員として、世界を革命する」。そのとき、その散らばっている状態はかえってそのままの方がいいくらいだ。どこか攻撃されたとしても、それはその一点だけで、われらは散らばって、と同時に一つである。それがバラバラなまま、全体が一気に革命へと向かうのです。ということだ。一箇所に集中すれば、そこでやられるから、かえって都合が良い。
 
 強い者と戦い、皆が平等になるために、弱い者達は団結せねばならぬ。しかし、どのような?ありきたりの団結ではだめだ。「国家」という大きな者にはとうてい太刀打ち出来ぬからだ。全体が一気に革命する時には、この全体はもはや国家を超えていなければならぬ。文字通り全体でなければならぬ(これを世界同時革命と彼らは呼ぶようだ)。団結することの再解釈がここに早くも提示されている。われわれの結びつきは、物理的空間的、そして人間的団結をも超える。それが共産党である。と多喜二さん(及びその周辺)は言っている。

 この時、著者の声がする。
 
「君たちが忘れているものがある。それは、時間だ」
 
 とうぜん著者はまだ、分析の手を緩めるつもりはない。むしろ始めたばかりだ。さきほど、共産党への帰属が根こぎにされた散在を一気に埋める、と書いたが、このときの帰属は実は帰属「意識」なのである。現実ではないのですよ、と著者は言う。現実に生きる人々との交流において決断を迫られるとき、その帰属意識は世界革命という目的「意識」のために共産党を優先させて、現実をないがしろにするのですよ、と。底辺に生きるところから世界革命へ、一気に向かうことができるのは、意識だけである。そのあいだにかかった時間に起こるさまざまなこと(それが現実である)は、すべてその大きなゴールのために、絶対に顧みられることはないのですよ。そしてそれが、また現実をダメにしていく。こんなことでゴールにたどり着けますか。ゴールがあるということは、スタート地点からの距離があるのだから。何故かというと、これは現実だからである。
 
著者は、こうして理想に燃えて頭でっかちな多喜二さんを批判する、その時かたわらに置く一つの文章がある。それが、埴谷雄高の書いた「永久革命者への悲哀」である。

 で、その続きですが、忘れてならぬのは、その目的を達成するものとして共産党。そこには委員会とか中央と周辺とか、そういった具体的な集団や区別がある、ということだ。その具体的な集団が、あなた方がまさにいま打倒しようとしている強いものたちのやり方を繰り返している、と言うのだ。それに全く気がついていません、と言うのだ。力ある者となき者、上の者と下の者、わかっている者とわかっていない者、もう全て、あなたがたの集まりで同じことをやっているじゃないか。あなたがたは「党の支持に従う」というのだね。よろしい。世界を良くするためだ。革命のためだ。わかりますよ。しかしあなたがいうところの「従う」とはいったい、何なのかね。この言葉は、どこかで耳にした言葉だ。その場所では、同時に労働者の悲鳴が聞こえる。致し方ない、というのかね?革命のためには。いやむしろ喜びだと。ふむ。例えば、ここに革命の意義を理解しない一人の根こぎがいる。彼にはその意義を理解してもらわねばならぬ。そうでしょう。当然そうなる。わからない者には、わからせなければならぬ。なるほど。まだ、わかりませんか。

 あなたは言う、いま、我々がここに立っている。しかし我々はあちらに行きたい。いや、行かねばならぬ。ならぬ、というのは、これはもはや個人の利害を超越しているのだ。こちらは悪い世界で、あちらが良い世界だ。ここに一つの盤石な橋がかかっているのが見えますね。これが共産党です。我々はともに、この橋を支える支柱になろうではありませんか。そうあなたは言う。しかし、と著者は言う、よく見てもらおう。良い世界があるのはあちらではない。それはあなたの頭の中ですよ、と。あなたはいま、鏡の前に立って、自分を見つめているだけですよ、と。お気づきになりませんか。著者はここ(一章の末尾あたり)で、ある作家を引いて「抽象の体系」という言葉を使っている。

 ここまでこう書くと、多喜二さんを否定しかねないぐらいの強烈な批判めいてきた。現実を見失い、自分まで見失って、一体なんてことをしてくれたのだ、君は、といった風に。著者はここでしかし、多喜二さんの存在は必要であったと内心、思い描いているように見える。見てきた通り、一章では主に多喜二さんに半ば身をゆだね、半ば寄り添い、時に愛し憎し、同じ船にて漕ぎ出し、荒波に揺られながらも不条理で過酷な現実を変革する必要性を、共産党の有り様を通じて描いているが、埴谷さんの本を手にし、そこに潜む問題点を容赦なくあぶり出した。そして批判し出した。けれども著者は、これをたびたび「発展」という言葉で形容しているのである。必要かも知れぬといったのは、そういう意味である。


 2

 1章では党員の意識が問題になった。続く2章では、党そのものの顔つきや性質が分析されていき、そこに批判が加えられていく。党員の意識を作り上げる要因はそこにある、と著者は見ているようだ。いわば秘密の鍵のようなものがあるのだ。
 
 ここで、著者はあたらしい切り口で、違った角度から共産党のありようを分析している。それは、裏切り者である。二章のタイトルは「混在する組織」であるが、これはいったいどういうことかしら。
 
 共産党は、不条理な仕組みを是正して、万国の労働者たちがまっとうに働き、そしてまっとうに生きられる、そういう世界をつくりあげねばならぬ、という指名に燃える、そういう政治結社である、ということがこれまでに言われた。この本では約80年ほど前の日本に起こっている出来事が描かれている。いや、場所や時代は問題ではない。この党は、つまり党員は考え方とそれに基づく行動のみによって、結び付けられている。つきあいがなくったって、あったって、そんなことは関係ない。顔が見えなくても連帯があり、人となりをしらなくてもわれわれは同志だ。しかしおかしいぞ、と埴谷さんは思った。と当時を回顧している部分を、著者は引用する(埴谷さんは一旦共産党に入党し、そのせいで捕まり、それからいろいろ考え、おかしいな、と思って党を抜けた。多喜二さんがあくまで党員であり作家であったのに対し、埴谷さんはそうではなくなっていく、という対比がある)。党員の決意を支えるのは、党の思想である。ほかの党員がどうとか、そういったことは、言ってしまえば自分には関係ないのだ。見えなくても、彼らは至る所にいることになっている。そうすると、どうなるか、と著者は問うている。その決意を支える根拠である共産党の思想は、自分の思想との違いがなくなるのだ。これはまことに不思議な理屈であるが、考えてみるとなかなか理にかなっている。同志は全国に散らばっているが、人間的な交流で結びついているのではなく、党の理念によって結びつけられているのだから。だが一方で、と埴谷さんは言う、勝手に並々ならぬ決意をしておいて、そのくせ、党員は幽霊みたいなのだ、と。ロボットみたいなのだ。党員は、党の理念を実現することが第一だ。誰がやるかはどうでもいい。誰かがやるのだ。その誰かが、いま、自分だ、というだけの話なのだから、そりゃ幽霊みたいな顔つきになるのも、また一方で最もなことだ。埴谷さんは回想しつつ、当時のことをそう語っている。しかし、これは繰り返しになるが、もともと横の、労働者のつながりだったんじゃないのか。そのつながりは、一体何によってつながっていたのだ?そのことを考えだすと、よくわからなくなる。確かに、多喜二さんもそのことを描いている。埴谷さんが言うには、それがいつのまにか縦になっていく。上から下に指令が降りてきてそれを実行するのだ。
 
 読者よ、もし散在的組織がはじめからそうなるさだめを負っていたのだとすると、これは一考に値する現象でありはしないだろうか。
 
 ここからである。先に述べた裏切り者、というやつらが登場するのは。共産党の活動は、次第次第に地下に潜ってされるようになっていく。もちろん地下に潜るには理由がある。地上で出来ないから地下でやる。どうして出来ないか。それはまあ国から目をつけられたからなのだろう。だが、著者はそこにもう少し触れておいてもよかったのかもしれない。共産党が当時どうまずかったか、ということについて。これは確かに二人の物語の邪魔になる。だが、なるなら誰かに語らしたっていい。関係諸氏の書簡など、沢山残っていただろうに。「マズイ、マズイ、このままだと地下に潜らないと」とか。それをすると分量が膨れ上がり、著者は知恵を使ってうまくやる必要がありそうだが、、本文だけではそこのところ、あまり触れられえておらず、どうして逮捕されたり、共産党がマズイのかは、わかるようでいて、よくわからない。ここに、いささかではあるが、著者に不満がある(これは、裏切り者というテーマにも関わる)。何でもいいから、もう少し著者は読者に情報を与えてほしかった。それとわからぬ形で。あるいは注釈でやると、よかったのかもしれない(余談だが、本文に振られた注釈番号の漢数字は文字がかすれて極めて読み辛い。ぼくは裸眼で目が良いからまだマシだが、目の悪い人にはこれでは何番の注釈か、わからない)。
 
 2章では、だんだんと共産党が幽霊みたいになって行く様が描かれている。幽霊、というのはいるのか、いないのか、姿はあるようだが、触ることはできない。しかし目に見える。君の前に突然現れたり、消えたりする。ほら、そこにいるよ。ああ、もういない。そういった様子だ。
 
 著者はこれをまず、共産党には名簿がない、というところからはじめる。共産党は国によって、存在自体が相当まずものになっているようで、名簿を作って官憲の手に渡ると、そこから一網打尽にされる。だから、名簿作成を止めたのだ。こうなってしまったいま、名簿は、散在的組織と相容れない。

 しかしそうなると、誰が共産党員かは、わからなくなる。散在して、名簿がなく、活動は地下に潜って(ばれないように)やっているのだから、当然のことだ。ここで、裏切り者が出てくる。著者のこの章で分析している核心である。「混在する組織」というタイトルが生きてくる。
 
 こんなところに裏切り者がいたら、想像しただけでもまことに恐ろしい。誰も自分が党員であることを明かすことはないのだ。それが確かであるのは、党員である自分がそうだからだ。となると、どこのどいつが共産党員で、どこのどいつがそうでなく、また、誰が裏切っているのか、見分けようがないではないか。ちらと目配せをして、もしそいつが党員でなかったなら、私はどうなる。また、もしや裏切り者であったとしたら!裏切り者に密告されれば、もう私の未来はない。当然やられる。最大限の注意力を働かせねばならぬポイントだ。だが、そのポイントの矛先が、まったく五里霧中なのである。いや、果ては、自分まで裏切り者のレッテルを貼られかねない、ということを埴谷さんは回想している。先ほども言った通り、名簿はない。確かめようがないのだから、下手なことをして他の党員に見られたら、自分がその烙印を押される。裏切り者は逆に、党員から見つかれば殺される。党員であろうが、裏切り者であろうが、それがおのおのの敵の手に知られれば、終わりを意味する。どこで誰に見られているかはわからない。しかし、見られている蓋然性があることだけは、確かなのである。もうこの時、党員の背中には、常に監視の目が張り付いている。自分の意識の中に、監視の目を作り上げるのだ。どこに行くにもだ。見えないが、存在している。相手も幽霊だ。自分たちがよかれと思って作り上げてきた地下活動の仕組みに、ここで手痛いしっぺ返しをくらうことになるのである。
 
 と、見てきたように、裏切り者はまことに重要な登場人物である。しかも、著者はもう既に多喜二さんが入党したころには、党の中枢にスパイMという大物スパイがいた、ということを指摘している。裏切り者の登場によって、党の性質はもろとも明らかになる。裏切り者も、かつては党員であった。いや、いや、裏切り者はいまも党員である。中にいながらにして、中の動きを外に報告しているのだから。しかし著者は、そんな彼が何故裏切り者になったのか、というところにはあまり関心は持っていないようだ。ここにも、ぼくは著者に対して小声でではあるが、不満を言いたい。裏切り者には裏切る理由があるはずである。当時の共産党は、しかも著者が扱う場面においてはすべて、極めて思想的な集まりである。その精神の営みに対する考察は、裏切りという行為に言及してもよかったのではなかろうか。なぜ裏切りが起こるのかを、帰属意識の問題と絡めて描いて欲しかった(ぼくが思い返すに、著者は裏切りは散財的組織とコインの裏表である、といったことぐらいしか言っていない。理屈によって結びついているのだから、そこに納得できなければ当然裏切るだろう、ということだ。熱意があればあるほど、裏切りも大きい、ともいうが、しかしこれでは何にだって言える。著者の分析の手はここでは明晰さを少し失っているように見えるが……)。

 ぼくが言いたいのはつまり、裏切りものは、出てこないのだ、ということです。彼らはその役割を与えられているだけに過ぎない。裏切りが全体の構造の中でどのような役割を担うか、といった時にしか、彼らは登場してこないんだもの。著者の表現を借りて、裏切り者のマスクをつけて、と言ってもいい。確かにひとつ、埴谷作品「死霊」の中での裏切りの挿話が登場する。しかしこれはまことに特殊な例であるように見え、ぼくには不十分であった(一方で、この挿話はこれから埴谷さんについて話が展開して行くのには、重要な布石のようだ)。これについては、きっと多くの書物(先行研究)で語られていることなので、あるいは著者は意図してのことかも知れぬ。たしかに裏切り者は、その視線まで導入すると、事態がかなり錯綜しそうであり、テーマも広がる。だからここでもまた、著者はうまくやる必要がある。しかし、ぼくの印象だと裏切り者たちは群衆として登場する、といった趣であった。たとえ一人で出てきても。とにかく、どこに誰がどんな形でいるかわからない、といったところで、一旦散財的にもかかわらずぴしゃりと組織されていた集団が、このような党の性質によって、混ざり合っていく。さきに鏡が出てきたが、ここでその鏡は歪んだ鏡である。重要なのは、どちらが歪んでいるかがもはやよくわからないところまで来ている、ということである。
 
 この章の最後に、多喜二さんが裏切り者、という重要な(共産党にとって本質的な、といってもいい)問題に、存命中にほんの少しだけ触れていた、ということが紹介される。これは興味深い、貴重な指摘である。でも、どうしてかしら?文学の直感ともいえようか。鍵になる問題を先取りしていたということは、まことに不思議でもあり、文学者の仕事である。ここは今後、著者に期待したいところだ。だけれども多喜二さんにはそこから先は見えなかったようだ。彼は裏切り者による密告で官憲の手に渡り、拷問の末殺された。


 3

 書きながら考えているのであるが、ちょっと飽きて、書棚から適当に本を取り出したら、ドミニク・ノゲズさんからのインタビューに答えて、マルグリット・デュラスさんはこのように答えている。



 フランス語のなかで、いえ、全ての言語の中で、私が最も嫌う言葉は「夢」。私は決して夢を見ない。だからこそ私は書く。
 「書く」という言葉、それは毎日毎日このテーブルにつくということ。もし、このテーブルにつかなかったら、ほかのテーブルがある。海にもテーブルがあるし、野にもある。でも、ホテルにはテーブルがない。ホテルには化粧台か、物を置く小卓ばかり。高級ホテルや一流ホテルにさえテーブルはない。あわれな時代。
 そう、書くということは、毎日ここにいて、こんなふうに何もせず、そして何より夢見ないこと。
なぜ夢なのかって?夢は思考の大いなるアリバイだから。それはポルノグラフィだから。政治でいうなら、それは実行に対する妨げ、大いなる敵。とりわけ、でもとりわけ、それは存在しない。夢は決して見られない。
 


 どうして埴谷さんは死ぬまで『死霊』という長編小説を書き続けたのか。その中に出てくる「自同律の不快」とはなんぞや、ということの説明が全面的に展開されていくのは3章。要約する誘惑を拒む章である。

 小林多喜二と埴谷雄高は文学者である。忘れそうになっていた。ここまでほとんど忘れかけていたようだが、この事実を忘れてはいけない。二人はそれぞれ、自分のやり方で小説を書いたのだ。いろいろあったが、死ぬまで書き続けた。
 
 いったい文学とは何だろうか。また、小説とは。唐突に見えるかも知れぬが、これに答えるのはなかなか難しい。映画や音楽は時間の記録である。と、そうすぐにいえる。端的にそこにあるのだ。これらはこれらで、また違った問題が出てくるが、それは確かにかつてそこに存在した。しかし、小説はそうはいかない。あなたが小説を読んでるうちに経った時間の流れには、映画を見たり音楽を聴いたりして過ぎ去った時間に存在したような、そんなものはないのだ。小説は文字で書いてある。読者はそれを読むことしかできないのだ。小説は、その成り立ちからそういう脅かされかたをしているものなのである。どこかに誰かがいる。何か言い、そして何かが起こる。その時、といったように展開していったとしても、今言ったようにこの事実から離れることはできない。小説には人物がいて、風景があって、物語が進む。そうはいってもいいが、それらはすべて、言ってみれば支払われることのない保険である。
 
 埴谷さんの小説『死霊』で、確かに時に人物は生き生きとしているが、どこか幽霊のような存在である。彼らは語るが、声を持たない。物語はあるといっていいのか、ないといっていいのか……どこにいるのかよくわからないし、声のない幽霊たちが語るのは彼らの頭の中の話だからだ。何か話しているが、その中身はどこにもない。彼らの頭の中身が開陳されるだけだ。だが、これはほんとうは同じことなのだ。そうなのだ。物語は保険である。どうせあっても、現実には支払われない。あってもなくても、気にすることはないではないか。そうして埴谷さんは登場人物の語るに任せる。
 
 その、開陳された中身の一つが、ほかでもない「自同律の不快」である。この章で見事に分析してある。人が生きる世の中を変えねばならぬ、と多喜二さんは言った。大いにけっこうなことだが、それは埴谷さんに批判された。著者が見つけだしたのだが、確かにその通りだった。そうしてそれから埴谷さんはどうするか。しばらく逮捕され独房に入ったのち、なんと彼は小説を書き出したのである。多喜二さんも何度か逮捕されている。そして拷問によって彼は殺された。そこで彼の小説は終わった。しかし今度は埴谷さんが書き出しのだ。無論、埴谷さんの小説は多喜二さんのものと同じではないどころか、まったく違う。共通点はほとんどないと言っても良いくらいで、実際にこの本の著者はそのことを認めている。ではもう埴谷さんは多喜二を忘れたのか?共産党のことはどうでもよくなったのか?そうではない。繰り返すが、彼は党員であったということもあり、逮捕され、独房で本を読み、考え、そしてそれから小説を書き出したのである。
 
 彼は文学者であったから、書くということは、生きるということである。では生きるとは何なのだ。小説の中では存在、存在、と声高に言っているが、生きるにはなにか食べたり、飲んだりしないといけない。何を食べるか。それはかつて生きていたものである。食べ物も、食べられる前は生きていた。こうして世界はどんどんとつながっていって、いわば一つになるのだ。『死霊』は、そのことを問うている。どうしてこんなふうに生まれてしまったのだ。どうして世界はこうなのだ、と。それで、本人(殺されて、食べられるもの)が文句を言ったりして、食べちゃった方は責められる。そんな場面もあるのだが、あまり重要ではない。
 
 いや、言われた方は当然、沈黙するしかない。殺して食った相手に文句を言われては、黙るより仕方がないではないか。ただね、君。君はわたしをそうやって恨めしそうに責め立てているがね、君もかつては同じことをやっているのじゃないのか。そんな場面がある。けれども、こんなことをずっと一日考えていては、生きてはいけない。頭がおかしくなりそうだが、彼はもうそうなったとしても、それも小説に入れればいいだけのことだ、と言っているようにも見える。とにかくどうなっているか、ということに埴谷さんの問題意識はあるのだ。良い、悪いと言っているのではない、と。一方で。埴谷さんはこうも答えるだろう、と著者はほのめかしている。この仕組み自身(繰り返すが、埴谷さんの考えでは、世界は一つである。もはや宇宙と自分は存在としてはおんなじである)を俎上に上げ、それを問うて、理屈で突き詰めていった結果、もし悪い。とそう言い放つのであれば、もちろん世界は存在できない。そして、埴谷さんは最終的にはそれを肯定しているんじゃないか、と。そこに凡百の物書きとの違いがあるのだ、と。注意しておくべきは、これは悲劇ではない。もちろんニヒリズムでもない。考えた結果としてそうとしかいえない、というところだ。埴谷文学の大いなる達成、成果の一つである。しかし当然ですが、こんなことは誰にも実行できない。
 
 3章「意識の外へ?」(もう読者は、このサブタイトルに何故はてなマークが付されてあるのかは、理解されよう)に対して何かを言おうと思ったら、基本的には著者に問い返すしかないようだ。なぜなら、いくら末尾にうまくまとめてあるとはいえ、やはりこの部分は全体を読まねばならないし、そういう形で、永遠に会話するみたいな形でしか話が進まないようになっている(もちろんあるところまで進んだら、冒頭に戻る。しかし全く同じではない。そういう仕組みである)。
 
 そういえば先ほど引用したデュラスさんは、ノゲズさんの質問にこうも答えている。



 興味深いものは自己の内部に起こることだけ。従ってそれは語りの性質のものではない。それを物語ることはできない。
 日常生活の中にも、文法から切り離されたキーワードがある。例えば「夜」という言葉。「太陽」と「夜」、「時」「仕事」「テーブル」「家」「死」「風」「河」「平地」「平凡」「海」「平ら」「砂」「広さ」そして「食べる」。
 


 埴谷の鋭い批判にさらされた多喜二ではあったが、どちらが現実的か、との視点から見たときに、著者は何と言うか?ほんの少しではあるが、ここにきて多喜二さんが返り咲く。しかしすぐに著者は言う。「二人はこんなに離れてしまったのに、気がついてみると奇妙に類似している。みなさんどう思われますか」と。
 
 いよいよクライマックスである。小林多喜二でも埴谷雄高でもない一文字の意味が明かされる。しかしぼくは、もうここで筆を置こうと思う。ここまで書いて、突然そうしたくなった。だがその前に、ほんのすこしではあるが、著者との個人的な会話を紹介しておきたい。


荒木:「わたしには友情というのがわからない。友情という感覚が。何なんですか、それは。知り合いならわかりますよ、それは語義から明らかだ。知り合ってるんだから」
ぼく:「確かにそうですね。いま初めてそんなことは考えた。ぼくには友達がいますよ。ただそれは誰なのだ、その理由は、と問われるとなかなか答えるのは難しい。ただそう思ってるだけと言ってもいいかも知れないが……あんまりつきつめたら言葉との間に開きができそうだ」
荒木:「そうですか」
ぼく:「荒木さんには悲しみはありませんか。友人というのは他人ですが、その人との間柄でなにかしら言ったり起こったりしたときに、悲しみが沸き起こるかどうか、というのが一つの試金石にはなりはしませんか」
荒木:「しかしそれは程度問題でしょう?量がどのくらいか、という話だ」
ぼく:「その量が一定に達すると、それが質の変化として立ち上がる、みたいに言ってもいいかも知れない」
荒木:「ホワイトヘッドがそういうことを言ってましたね。あのね、わたしは基本的にはみんな死ねばいいと思ってるんですよ。一日に一度は自分も死のうかな、とそう思います。いや、思うというよりは、勝手によぎるんですね。人間、そのくらいの方が健康的ですよ」
ぼく:「じゃあ、いつか死にますか」
荒木:「そうかも知れませんね。死なないかも知れませんし」
ぼく:「はあ」
荒木:「わたしはね、欄外の註みたいになりますが、近代文学を面白がってくれる人が少なくなると、それだけ面白い解釈をしようとする人が減っていくでしょう。当然の話だ。しかしわたしにとって、それはつまらないことなんですよ。人間はものを考えるときには相反する二つのものを選び取るように操作することができる。そして行動する時、行動は、それを後押しするどころか、かえって退けるんですよ。人は同時に二つのことをすることはできないからです。人は、何を言うかではなく、何をなすかなんですよ。わたしは本を出した。これがわたしの行動です」
 


おわり





【寄稿者】
高橋静(タカハシ シヅカ)
フリーター、及び作曲家(再稼働未定)