(運営注:このエントリは所謂エス・エヌ氏問題とは何の関係もないことを予めお断りしておきます。)


ふりむくと、彼は言った。
 
 

私は普段、音楽聴きませんね。それは、いついつなら聴く、ということじゃないんですよ。全く聴かないんです。だって、何も思わないですからね。音楽を聞いてもなにも感じないんですよ。私には必要のないものだ。誰か、音楽を聴く人もいる。いや、多くの人は音楽を聴く。それで、何か思ったり、感じたり、泣いたりするんでしょう?怒り出す人もいるくらいですからね。私はなにも感じない。だから聴かないです、と言った。それからそのあと言った。
 
「でも、感じるといっても、一体何を感じるんでしょうね」
 
 
 
ここに一群の音楽がある。それは、日本語では現代音楽と言われている。この用語がどこから来たのかは知らない。同じ音楽をドイツ語では「新しい音楽」と言っている。フランス語や英語では「同時代の音楽」という。フランス語では「現代の音楽」ということも、あるようだ。「現代音楽」はそこからかも知れない。あるいは、英語の「同時代の」という形容詞を「現代の」としたのかも知れない。
 
とにかく、その現代音楽のことについてなのであるが、といっても、全体のこととなると難しいので、具体的なことから入っていこうと思う。具体的なこと、というのは、ある作曲家や、作品のことだ。それに、現代音楽というのは、その音楽自体がえらく難しいということもある。何かが難しい、ということは、実にやっかいな問題なのだ。さまざまな面で、そうなのである。おいおい明らかになるであろう。
 
それもあって、言うのだ。一つの作品を取り上げるというところから語り始めるのが良いのではないか、と。ヘルムート・ラッヘンマン(ドイツ人)という作曲家を取り上げてみようと思う。
 
いや、ラッヘンマンさんのかんたんな略歴は、どうかじぶんで調べてください。いまはそういう時代ですから。
 
どうしてラッヘンマンを取り上げてみるか。
 
西洋音楽の未来が、現代音楽の肩にのしかかっているとする。そうであるとして、さらに、その未来は、もちろん、ふつうの意味あいにおいて、聴衆に聴かれるかどうかが、深い深い問題としてある(このことについては後述する)。それは今後、より、深刻になるのであろう。そうなると、今までよりももっと、色んなところから聴衆を獲得せねばなるまい。これは、ほんとに西洋音楽の、歴史の正念場である。胆力の見せ所だ。
 
聴衆がいるかどうか、というのは、西洋音楽はひとつの完成した作品である。つまり、それは閉じているということだ(いや、ジョン・ケージの作品でさへも、そこではそうなのですよ)。ひとつの作品である、というのは、決して決して喩えではないのだ。人が聞かなければそれは存在しないのである(もちろん、演奏者と聴衆が同じ人間だってかまわないのだ。とにかく、そこには聴衆の存在が必要なのである)。森や雪景色や夕焼けは、キレイだけれども、だれもいなくてもそこにある。ここが、自然とは違うところである。
 
もし、こんなことがいえるとしたら、ラッヘンマンほど、それを考えさせてくれる作曲家がいるであろうか。これは、たとえばジョン・ケージとかでは無理なのです(ケージさんには度々申し訳ない)。なぜか? 彼は、西洋音楽の伝統を無視するどころか、まったくその逆であるからである。すると、もし、ラッヘンマンによって、聴く人がふえれば、一挙に事態が良き方向へ、つまり、西洋音楽のぜんてきな作曲家へ、つまりその歴史へ、向かうかもしれないのです。どういうことか。
 
一から語っていたが、長くなってしまった。預言めいたことばかりで恐縮であるが、作品の解説は次回にしようと思う。「アレグロ・ソステヌート」という作品について語るつもりにしている。ほんとうは演奏の様子の動画があれば良いのだが(古典的な西洋音楽からあまりにかけはなれている、ということもあるのだが、彼の音楽は楽器を演奏する行為が非常に重大な要素なので)、残念ながらなかった。ちょっと聴いてみてください。漫然とではなく、何が起こるか、次はどんなか?といった感じで集中して聴いてみて?
 
若いころに書いた「現代音楽の音響分類」(注)という論文にラッヘンマンさんは基本的な考えを表明している。邦訳はない。
 
(注) H. Lachenmann, Musik als existentielle Erfahrung - Schriften 1966 - 1995, 2. Aufl., 2004, Breitkopf & Härtel, Wiesbaden, S.1-20
 
彼が、作曲家として、どういうふうに、音と接するか。どういう態度でもって、音楽をつくるか。「アレグロ・ソステヌート」は、そのことが、とてもよく現れてる作品なんですよ。クラリネット(棒みたいな黒い楽器)、ピアノ(音楽の先生が弾くやつ)、チェロ(大きいヴァイオリン)の三つの楽器による三重奏の作品です。

 


(02へ続く) 



【寄稿者】
高橋静(タカハシ シヅカ)
フリーター、及び作曲家(再稼働未定)