谷川健一
↑大江修編『魂の民俗学――谷川健一の思想』、冨山房インターナショナル、2006。

 谷川健一(1921‐2013)。民俗学者。詩人の谷川雁は弟。柳田国男や折口信夫の古典民俗学の批判的読み直しから、民俗学とは神と人間と動物のコミュニケーションの学であると再定義。それまで顧みられることのなかった辺境地などの日本の負の遺産を広範囲に渡って研究する。地名の研究などでも有名。主著は『魔の系譜』(紀伊國屋書店、1971)、『青銅の神の足跡』(集英社、1979)、『常世論』(平凡社、1983)、『南島文学発生論』(思潮社、1991)。その他多数。 



 ◎谷川健一略年譜

1921年 7月28日、熊本県葦北郡水俣町で誕生。
1934年 小学校を卒業し、熊本市にある旧制熊本中学に入学。下宿生活。1939年:中学校卒業。医者になってほしいという父を説得し、文科志望。翌年、旧制大阪府立波速高校文科に入学。
1943年 東京帝国大学文学部入学。しかし、すぐに喀血し、結核で入院生活。徴兵は免除される。
1952年 東京大学を卒業、平凡社に入社し、『児童百科事典』編集部に配属。
1957年 民俗学への関心を活かし、鎌田久子・大藤時彦・宮本常一を編集委員に『風土記日本』(全七巻)を企画。
1963年 一年限りで、雑誌『太陽』の初代編集長をつとめる。
1966年 処女小説『最後の攘夷党』(三一書房)。第五五回直木賞候補作となる。
1967年 小説家の道と民俗学者の道とを悩んだ末、後者を選び、平凡社を退社。最初の調査地を沖縄に決める。
1970年 『沖縄・辺境の時間と空間』(三一書房)。
1971年 『魔の系譜』。
1975年 『民俗の神』(淡交社)。『神・人間・動物』(平凡社)。
1979年 『青と白の幻想』(三一書房)。対談集『地名の話』(平凡社)。『青銅の神の足跡』。『鍛冶屋の母』(思索社)。
1980年 『谷川健一著作集』(全十巻、三一書房)刊行開始。『神は細部に宿り給う』(人文書院)。
1981年 神奈川県川崎市に日本地名研究所を設立、所長に就任。
1983年 『常世論』。『失われた日本を求めて』(青土社)。
1986年 『白鳥伝説』(集英社)。
1987年 この年から96年まで近畿大学文芸学部教授となる。
1989年 『民俗、地名そして日本』(同成社)。歌集『海の夫人』(河出書房新社)。
1991年 『南島文学発生論』で芸術選奨文部大臣賞受賞、南方熊楠賞受賞。
1994年 「宮古島の神と森を考える会」を主宰。
2006年 『谷川健一全集』(全24巻、冨山インターナショナル)刊行開始。
2007年 『谷川健一歌集』(春風社)。『明治三文オペラ』(現代書館)。11月、文化功労者に選出される。 
2013年 8月24日、92歳で死去
 


・渚の谷川健一

 『谷川健一全集』全24巻。しかも中に入っているのは学術的研究だけではない。小説もあれば歌集もある。この圧巻のボリュームを前にして私が思うのは、隠れた知の巨人、である。

 谷川健一の知名度は今どれほどのものなのだろうか。個人的印象では、同じ民俗学者でも、柳田国男、南方熊楠、折口信夫、宮本常一といったビッグネームと比べて、余り意識されてこなかったのではないかという気がしている。しかし、今回谷川の文章を読み直してみて、感じ入ったのは、彼ら名だたる学者と比べても遜色ない谷川民俗学のポテンシャルの高さであり、そんな巨人がつい最近まで生きていて活動していたという事実であった。

 赤坂憲雄は谷川について、「谷川さんは最後の民俗学者になるとの予感を抱いてきた。柳田国男、折口信夫の振幅の大きい学問の可能性をもっともよく引き継いだのが谷川さん、しかし、学会では全く正当に評価されていない」と評したそうだ(『毎日新聞夕刊』、2008・3・13)。

 私は主として『渚の思想』(晶文社、2004)で語られる、幼年時に水俣で(そう、あのミナマタで)体験していた、渚という場所の特殊な平等分配性についての文章を愛している。引用しよう。
 


「渚は、平等性を確保される場所です。漁師たちが地曳き網をするとき、小さな容れ物を持ってそこへ行くと、漁師たちは同じように分けてくれます。これは、労働の平等性と同時に分配の平等性にも従っているわけです。渚の漁撈に加わった者に対する平等感覚が、昔から伝統的にあったのです。海岸だけでなく、山でも狩猟に居合わせた者にも分配します。このように、狩猟にしろ、漁業にしろ、平等性をもった行為がおこなわれていて、そこには階層的な秩序や力の強弱はありません」(『渚の思想』=『全集』第7巻、237p)
 


 渚は海でもあれば陸でもある。言い換えれば渚とは海と陸が出会う中間的な場所、海と陸のインターフェイスである。谷川がいうのは、そんな両義的な場所であるからこそ、人と人とが属性や地位を超えて平等に結ばれるコミュニティ結束としても機能する、ということだ。谷川は後年、全国の渚を守る運動を展開したが、それは島国ニッポンがもつ世界有数の海岸線が消失してしまう環境破壊の危惧であったと同時に、戦後民主主義が登場する以前から行われていた平等的コミュニティの環境破壊の危惧でもあった。

 「渚」は初期から南島(孤島)を扱った谷川終生の主題であり、それは「海辺のカント」を書いた筆者にとっても本質的に重要な研究成果であるようにみえる。

 以下、主として引用したのは「私の履歴書」(『日本経済新聞』2008・5・1~31)=『全集』第11巻(冨山房インターナショナル、2009)である。本連載vol.06のF・アリエスと同じく対象が途中で(10年間ほど)大学教授になっているが、それ以前の在野研究の蓄積が大きいため、それまでの過程を中心にフォーカスしよう。


・文学青年から平凡社社員

 谷川健一の年譜を通読してみると、二三ユニークな点があることに気づく。一つは、谷川は民俗学の研究を本格的に始める前に、平凡社の編集者として働いていたということ。もう一つは、編集だけでなく小説家として本を出し、処女作で直木賞候補作(1966)となっているということだ。しかし、どちらにしてもその営みの背後には、民俗学的関心があったことは明らかだ。

 元々、谷川は中学校時代からの文学青年だった。黒岩涙香『巌窟王』(デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』)をきっかけに、翻訳もの、そして江戸川乱歩、夢野久作など探偵小説を読みあさる青年時代を過ごしていた。夢野については後年、『夢野久作全集』(三一書房)の編集の仕事さえしている。

 そんな文学青年は東京大学文学部に入学した。幸か不幸か、祖母から受け継いだ結核によって、すぐに入院生活をすることになった谷川は戦役に赴くことなく、療養所で終戦宣言のラジオ放送を聞くことになる。
 


「私の健康はそのうち回復したので、五〇年に上京し、大学に復学したが、アルバイトに追われ、ほとんど授業には出席せず、形ばかりの大学生活を終えて、五二年に、雁の知人であった日高六郎の斡旋で、平凡社に入社した」(321p)
 


 日高六郎(1917‐)は日本の有名な社会学者であるが、日高は弟の先輩だった。30歳で入社した谷川の最初の仕事は『児童百科事典』で集まった原稿のリライトだったそうだ。ちなみに、この事典の編集長は評論家の林達夫で、谷川は『神は細部に宿り給う』(人文書院、1980)という本を書いているが、この有名な文句は林が好んだ言葉でもあったそうだ。


・柳田国男との出会い

 ともかくも、そんな会社員生活の中で谷川は決定的な出会いを果たす。柳田国男の『桃太郎の誕生』である。この本は全国各地に伝わる桃太郎説話を収集して子細に分析したものだが、そこで谷川が見たのは、「日本の庶民が、おさまりの五大お伽噺を、自由奔放な筋書きに作り変えていること」だった(323p)。続けて次のように述べる。



「庶民の発想が、このように生き生きと独創的に発揮されているのを見て、これまで戦後啓蒙思想によって無知な存在として不当におとしめられていた庶民は、私の中に復権した。貧しくとも楽しみを追求し躍動する庶民に、日本人の幸福への確信をはじめておぼえた。その本の読後感は、私にとって決定的だった。その後、私は柳田の他の著書をひもとくことはあっても、その本だけは、一度も開いたことはなかった。触れれば火傷するような思い出がその本にあったからである」(324p)
 


 百科事典の仕事を終えた後、民俗学に興味があった谷川は平凡社で望み通りの方面の仕事をやれるようになった。大藤時彦と宮本常一とで編集委員を務めた『風土記日本』。次にとりかかったのは(フランスのリラダンの『残酷物語』を模した)『日本残酷物語』。どちらもベストセラーになった。大島渚の映画『青春残酷物語』はこの本のタイトルに触発されたものだ。

 しかし、それらの仕事は他方で、社内からの陰口を呼び寄せていたようだ。民俗学には体系性がないこと、また階級闘争の歴史に眼をつむり体制側に利用されやすい学問であること、云々。正にマルクス主義的啓蒙主義的批判であったわけだが、柳田国男の一冊は揺れ動く谷川の心に、民俗学が対象とする「庶民」の存在を安心の重石として与えたのだといえる。



「この啓蒙思想のいちばんイヤなところは人民を持ちあげたり、君と僕はおなじ人間だと猫なで声でいいながら、民衆を見下していることである。しかもそれに本人は気がついていない。その原因は本人がいつも人民とか市民とかを抽象的に考えてものをいっているからだ。普遍的な人間の認識であるかのようにいいながら、その実、ヨーロッパ中心主義やヨーロッパ第一主義を克服できないイデオロギーに対する私の不信感は、人民や市民という言葉をふりまわす連中への不信とつながりあっていた」(「成熟へのひとしずく」、『春秋』、1972・2、3=『全集』第11巻、419p)
 


 戦後の進歩的なアカデミシャンの姑息な手段に全面的に対抗してきた在野考古学者・原田大六のことを想起させるが、ともかく、この「庶民」に根付いた知のあり方への関心が、谷川に在野研究者としての道を歩ませることになった。


・小説家デビュー

 編集業を社長から評価された谷川は、新雑誌『太陽』の編集長を任される。自分の体調を気遣い、一年限定の編集長だった。

 40代前半、編集長をやめ、閑職(辞表は受理されず休養期間の一年分の給料を貰う)についた谷川は、とうとう研究……ではなく、かつての文学青年らしく小説を書くことにした。長州奇兵隊の残党である大楽源太郎を主人公に、久留米藩の勤王党である応変隊が起こした明治四年の反政府事件を描いた顛末記、処女小説『最後の攘夷党』である。

 題材の選択にもう民俗学的関心が読み取れるが、面白いのがその出版経緯である。まず谷川は平凡社に出入りしていた詩人・評論家の秋山清に出版の相談をする。秋山は三一書房で詩集を出しており、その縁で三一書房の編集者の正木とお茶をすることになる。



「そこで秋山さんが「谷川さんが本を出したいのでよろしくお願いします」と言ったら、その正木君が「よろしゅうございます」と。あんまり簡単に言うから、「少し原稿を見せましょうか」と言うと、「それはいいです」。読まないでいいって言うんだよ、正木君が。「じゃあ筋をお話しましょうか」と言ったら「いやそれも結構です」って(笑)」(『全集』第20巻、「巻末対話」)
 


 ……なんだそりゃ(笑)。しかし、こんなフザけた経緯で出された本が直木賞候補作となってしまうから驚きだ。作品の蓄積がないという理由で受賞からは漏れたが、大仏次郎からの激励の手紙を貰い、その後も二三小説を書いた。

 しかし、それでも谷川は小説家としてではなく、民俗学者として活動していく決意をひとり静かに決める。「私は最初の頃小説を書いていたのですが、小説では自分を満足させることができない。私は民俗学によって人間性に肉薄することができると思い、民俗学に進みました」(『全集』第22巻、「巻末対話」)、とのことである。


・在野民俗学者、沖縄へ

 1969年、48歳、最初の調査地に選んだのは沖縄だった。民俗学者としての処女出版『沖縄・辺境の時間と空間』(三一書房、1970)に結実するわけだが、その年から10年間、1982年に日本地名研究所を川崎につくるまで、毎年日数にして四ヶ月は旅行に赴く生活が始まる。毎月平均10日は旅行の生活だ。ここで研究資料の蓄積を行い、『現代の眼』や『流動』や『展望』などの雑誌に原稿を寄稿し続けた。谷川の膨大な著作のほとんどは雑誌に発表したものの再録でできている。

 金の方は、平凡社退社後、小説を出した三一書房で編集の手伝いをすることで何とかなったようだ。

 しかし、そもそもなぜ沖縄だったのか? 1969年はまだ沖縄返還されておらず、沖縄はアメリカの統治下にあった。「今ではちょっと考えられないのですが、沖縄では挙って日の丸を掲げて、日本は母の国であるからそこに還りたい、と熱望していた時代」(『全集』第6巻、「巻末対話」)だった。



「その時私は考えました。一時的にそういう政治的な機運が盛り上がったとしてもけっして長続きせず、すぐに元に返るに違いない。沖縄で一番根本的なものは何かということを今考えておかないと、時代とともに沖縄は何処かへ流されてしまうんじゃないか。そこから「沖縄の根」というのを考えたんです。/それを見失った時、沖縄は日本本土から来る衝撃に耐えきれず、単なる小さな南の島々の連なりというだけになるに違いない」(『全集』第6巻、「巻末対話」)
 


 この「根本」への探求は以後の研究でも、それこそ彼の研究の根本になっていったようにみえる。島尾敏雄の造語「ヤポネシア」(Japonesia=日本+群島)を拝借し、島国の特殊性について考察した成果は、やがて島特有の死生観・宇宙観を考えたエッセイ集『孤島文化論』(潮出出版社、1972)や日本文学の源流を鹿児島県奄美地方・沖縄に伝わる歌などに求めた『南島文学発生論』(思潮社、1991)へと展開していく。この作は芸術選奨ならびに第二回南方熊楠賞を受賞した谷川の代表作だ。


・敗者の歴史

 谷川の膨大な研究成果を逐一紹介していくことは困難であるが、その関心の核は、辺境や敗者のもっている(正史では忘却されがちな)歴史性への眼差しといえる。

 1975年、50代になった谷川は、岐阜県不破郡垂井町にある南宮大社のふいご祭を見に行った。そこは銅鐸(弥生時代に祭りに使われたとみられる青銅製のカネ)の製作が盛んだった土地だったが、その関与に、従来は無関係だとされていた(大社の近くの伊富岐神社の氏神である)伊福部氏の存在を思いつく。

 これが『青銅の神の足跡』(集英社、1979)や『白鳥伝説』(集英社、1985)などの著作に結実するのだが、谷川が伊福部氏に関心をもてたのは、彼が「物部氏は敗者として正史から抹殺されている。敗者は記録を残さない。陽の目を見ることのなかった敗者の歴史を、敗者になりかわり世に知らせたいという物書きの姿勢」をもっていたからだ(『全集』第23巻、「巻末対話」)。

 勝者ではなく敗者、死者の怨念が日本の歴史を動かしてきたとする観点から書かれた『魔の系譜』(講談社学術文庫、1984)には 、「安藤昌益、高野長英、近代になってからも石川啄木、宮沢賢治の思想は東北の飢饉が生み出したものである」というハッとするような文言が書かれている。米の生産力が低いというコンプレックスが与えた思想的社会的影響。ご存知、開沼博『フクシマ論』(青土社、2011)の原発問題とも決して無関係ではない指摘だ。


・「小さきもの」への眼差し

 このような関心傾向を「小さきもの」への眼差しと言い換えてもいいだろう。それは源流をたどってみれば、青年期に出会ったキリスト教に求められる。谷川はキリスト教徒にはならなかったが、キリストにシンパシーを感じていた。いわばイエスを一個の民俗学者的存在としてみなしているのだ。



「イエスが付き合ったのは、当時いちばん嫌われていた徴税人や娼婦、不浪人など下層の人びとです。イエスには彼らに対する深いシンパシーがある。それは庶民を対象とする民俗学の世界と共通しています。こうして見ると、民俗学に入った契機は間接的にはイエスの教えの影響だと言えますね。/のちに私は「小さきもの」の世界を繰り返し書いてます。聖書には「懼るな小さき群れよ」(ルカ伝十二章)というイエスの言葉があります。そこでイエスは「我を信ずる此の小さき者の一人を躓かする者は寧ろ大なる碾臼に頸を懸けられ、海の深処に沈められんかた益なり」(マタイ伝十八章)、つまり小さい者をつまずかせる人間など、大きな石臼を首に掛けて、海の底に沈めたほうがましである、という激烈な言葉を吐いているわけです」(『全集』第23巻、「巻末対話」)
 


 このような「小さきもの」への眼差しは、後の地名研究にも結びつく。小さな地名ひとつひとつはかけがえない固有名であると同時に、それを名付けたのは無名の庶民たちだ。そこには誰もが忘れてしまった土地の過去の記憶が結びついている。「地名もまた小さきものの一つであった」と述べる谷川は地名の価値を次のように主張する。



「地名は大地の表面に描かれたあぶり出しの暗号である。とおい時代の有機物の化石のように、太古の時間の意識の結晶である。地名を掘り出すことで、人は失われた過去にさかのぼる。そしてそこで自分の関心に応じて、地名から興味のある事項を引き出すことができる。地名は大地に刻まれた人間の過去の索引である」(「地名を守る意味」、『東京新聞』、1978・3・9=『全集』第15巻、219‐220p)
 


 このような主張から、1978年、谷川は地名改変の動きに抵抗して「地名を守る会」を発足させた。民俗学者の南方熊楠は神社合祀令(一町村に神社はひとつでよい=多くの神社を壊してよい)に反対する運動を起こしていたが、学問からアクションへのフットワークの軽さも、フィールドワークを主として行う民俗学の伝統であり、谷川はそのレヴェルでの継承も的確に行ったといえる。


・独学のすすめ

 谷川の広範囲に渡る著述を一々確認することはもうしない。しかし、ひとつだけ、『独学のすすめ――時代を超えた巨人たち』(晶文社、1996)は見逃せない。南方熊楠、柳田国男、折口信夫、吉田東伍、中村十作、笹森儀助の在野精神を紹介するという、本連載の先取りであるかのような一冊だからだ。

 『独学のすすめ』には当然、アカデミズムに属さない独学の自由の素晴らしさが讃えられているわけだが、他方で、その危険性も決して無視していない。つまり、孤独な営みであるがために、ややもすると見解の偏りを修正することができない。しかし、それは独学者の胸に懐疑心を常に宿すことことで克服することができる。懐疑は学問の母だ。

 『独学のすすめ』のなかで谷川は、司馬遼太郎『風塵抄』(中央公論社、1991)で語られた司馬のエピソードを紹介している。つまり、英語の授業中、先生にNew Yorkという地名の意味を聞いた若き司馬は、教師から怒鳴られ、「お前なんかは卒業まで保んぞ」とイヤミを言われる。それが縁で司馬は学校嫌いになり、そして同時に図書館好き、つまり「独学癖」を身につけたという。ちなみに、「学校大嫌い、勉強大好き」は天才・南方熊楠も同じだった。



「権威主義の学問はいずれにしても硬直をまぬかれません。それは知識の死滅につながります。そこに生気をあたえてよみがえらせるためには、在野の精神が必要なのです。またアカデミズムが眼をむけなかった分野へのあくことのない好奇心が求められるのです。そうした未知の世界に進むには、既成の尺度は役に立ちません。そこでは独創の精神が不可欠です。独創ということに焦点をあてると、独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」(『独学のすすめ』=『全集』第19巻、191p)
 


 本連載の結論にしてもおかしくない言葉だが、谷川はこの言葉通り、「独学者」の道を自ら歩いた。特に、独学者には院生のように、目指すべきポジションがあるわけではない。独学は無限の探究を学習者に課してくるが、それが却って偉大な独創に寄与することになるだろう。ポジションの欠如は同時に、学びの無限のポテンシャルでもあるのだ。



「仮に教授となったところで、社会的に評価されたからといって、独学の精神というのは、自分自身そこで満足するような立場ではありえないのです。それは脅威でさえあります。たえず先へ先へ進むのが独学者の精神ですから、社会的評価というのは、独学者にとってはある意味で邪魔でもあるわけです。ほんとうの独学者というのは、それを無視できるわけです」(『全集』第19巻、180p)
 


・学びの渚

 宮台真司の名言をモジって、終わりなき学びを生きろ、とでも言おうか。正直にいえば、東大に入学し、平凡社で編集者を勤めていた経歴が、谷川の在野生活に大きなアドバンテージを与えているのは明らかであり、逆にそれが無い者はどうしたらいいのか、という感想もないではない。谷川は数々の賞を受賞し、文化功労者にさえ選出されている。

 しかし、もし本当に「独学」に没入できるのだとしたら、谷川のいうように社会の評価など完全に無視することができるのかもしれない。教授であろうが、フリーターであろうが関係ない。そういう下らないことに意識を奪われているようでは、「独学者」としてはまだまだなのだ。

 こうして我々は冒頭の「渚」に戻ってきた。そこは本当の「独学者」だけが訪れることのできる学びの渚であり、そこでは社会的地位や属性に左右されないない平等的空間が広がり、学びの成果をみなでシェアリングする分配の思想が具体化されている。その渚には多くの民俗学者が集まっているだろう。そして当然、我らが谷川健一は、読者のひとりひとりが彼の地を訪れることを首を長くして待っていることだろう。

 

※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。