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(↑三人の会編『葉山嘉樹・真実を語る文学』、花乱社、2012。ブックオフオンラインで650円で買った(定価は1600円)。便利だなぁー。)

 今月、葉山嘉樹論である「葉山嘉樹の寄生虫」を書いた。葉山嘉樹のテクストに登場する「寄生虫」の表象を追うことで見えてくる、葉山文学の本質を考察しようとするものだ。文字数は13878字、原稿用紙に治すと34枚程。一年前に書いた「貧困混成――葉山嘉樹『移動する村落』試論」も似たような感じだったから姉妹篇な感じでイイ感じ。目次は以下。


  • 序、幸福と寄生虫――『求めよ』
  • 一、生活と寄生虫――『悪夢』
  • 二、国家と寄生虫――『寄生虫』
  • 三、思想と寄生虫――『尻尾は尻に』
  • 四、寄生虫と寄生虫と
 


・パラサイトは今日?

 今日、「パラサイト」の語感は、多くのひとびとにどんな印象を与えるだろうか。いい加減、「一人暮らししていないから(=親元に住んでいるから)ダメダメ」、という古臭い人も少なくなってきたかもしれないかもしれない。が、それでも、ニート・フーリーター概念に親和性があることも手伝って積極的に評価されてもいないのだろう。

 葉山嘉樹という作家も、(少くとも、彼のテクストの端々から伺えるのは)そのような古臭い男の一人だったと思う。誰かの世話にならないように、自分の腕一本で生きていくこと。彼の短篇『悪夢』や『子を護る』には、自分が十分に働けず共同体の寄食者になってしまったことに関する自己嫌悪の念がユニークな形で表現されている。

 しかし、葉山という男のアンビバレントな所、そして私が面白いと思った所は、自立や独立に関するコンプレックスを負いながらも、その実、一人暮らしをしたことなどほとんどないという点だった。大学に行くときも親戚宅に厄介になり、学校を出ても船乗りになってマドロス仲間との船上生活、労働運動中は同志宅に潜りこみ、結婚も早く子供も沢山いたので、家にはいつも人が溢れている。しいていえば、監獄にぶち込まれて独房に入れられたときが「一人暮らし」なのだろうが、それにしても「声」の往来が響くことで他の収監者とのミクロなレヴェルでのコミュニケーションがあったことは、『牢獄の半日』などを読んでみてもよく分かる。監獄は、集団を管理するため設置された強制的な共同生活制度だとさえいえるのだ。

 葉山の生活は端から、パラサイト的だった。そのくせ(或いは、それ故?)、彼はパラサイトを憎む。ともかくも、ここに葉山のアンビバレンスがあり、それがどんなに憎んでも「撲滅」することができない『寄生虫』の「蛔虫」に表現されている、と思った次第である。

 パラサイトを憎む、しかしそんな自分自身こそもっとも不甲斐ないパラサイト。生きるに値しない、けれども、死ぬこともできない。終わらない、終われない。そんな毎日の繰り返し。「終わりなき日常を生きろ」(宮台真司)とかわざわざ言う必要もないのかもしれないけれど、葉山の文学は高度にアクチュアルだと私は思う。自分が嫌いで、でも自殺する勇気もなくって、そんな不甲斐ない自分を思い出させるのが嫌で妙に弱者に攻撃的になるけど、それもそれで虚しくって。葉山文学はそんな連中に分かりやすい回答を与えてくれないけれど(というか、希望なんてなくって生きろとか割とシビアなことを言ってくるけど)、彼のアンビバレンスは、今日でも(今日だからこそ?)十分に共感可能なものだと思う。マジでガチで葉山嘉樹。


・楜沢健リスペクト

 私の葉山論においてもっとも影響を受けているのが、プロレタリア文学研究者である楜沢健だ。主著は『だからプロレタリア文学』(勉誠出版、2010)。私の感想では、楜沢の葉山論はどれも天才的だ。

 本稿でも言及した『移動する村落』論である「葉山嘉樹の昆虫記」(『日本文学』2000)は勿論のこと、プロレタリア文学に宿る集団創作性を分析した『セメント樽の中の手紙』論の「プロレタリア文学と集団創造」(『小林多喜二と『蟹工船』』、河出書房新社、2008)、葉山文学の本質は偶然性にあると看破した「葉山嘉樹とシュルレアリスム」(『国文学解釈と鑑賞』、2010)、どれも新しいアイディアに溢れた意欲的な仕事である。

 少し珍しいものとしては、「やりがいの搾取」でお馴染み、社会学者・本田由紀との座談である「プロレタリア文学の逆襲 ハイパー〝プロ文〞時代がやってきた!?」(『すばる』2007・07)。ここでは、楜沢さんがプロ文入門として研究のエッセンスを紹介している。

 実は、楜沢さんには拙著『多喜二と埴谷』を献本している。直接は知らなかったものの、Twitterを通じて彼を知っている人がコンタクトをとってくれたのだ。今頃、私の本は適当に打ち捨てられているような気もするが、連絡のさいに丁寧なメールも頂戴し、尊敬するプロ文先輩研究者に献本できて、とても感激したのをよく覚えている。

 現在、私の葉山論は、楜沢的な葉山文学像を踏まえつつ、その先を目指す方向に向かっている。研究者の挙げる参考文献は、意外な確率で実際問題参考になっていなかったりするものだが(ハクをつけねばならぬ問題)、楜沢論文は例外的に、テクストを読むこと、新しい読みを試みることの快楽を具体的実践的に教えてくれる稀有な先行研究である。素晴らしい。


・近代文学の住環境

 元々、私が葉山嘉樹に興味をもったのは、彼のテクストに登場する住環境がどれもろくなものではないという点だった。子沢山であるため、大家族が小さい借り家にぎゅうぎゅうで住む。特高に狙われているために労働運動の仲間の長屋で共同生活をする。バラック小屋を建てて住もうとする。マドロスとなって波に揺られながら船上のタコ部屋でみなと一緒に眠る。その住処は、どれも壁が薄く、部屋の仕切りがなく、騒音が漏れ聞こえる。

 「お二階」での半プライベート空間が内海文三のアイデンティティを回復する空間でもあった『浮雲』にしろ、孤独な船室での読み書きによってドイツでの辛い思い出が語られる『舞姫』にしろ、近代文学というものは、「個室」を前提にした文学だった。近代文学以前は、文学(物語)とは、特権的にリテラシーのある者が本を音読し、それをみなで聴くというスタイルが一般的だった。文学は元々共同で享受するものだった。それが、近代以降、教育はもちろん、住環境の変化によって、個室で一人で本を黙読する習慣が生まれた。そういう条件がなければ、花袋の『蒲団』なんて恥ずかしくって読めやしないだろう。そのなかで「自我」というものが強化される。

 ともかくも、「近代的自我」なるものは、もしかしたら「個室」のような新住環境の発明によって生じたのではないか。私は長年そう考えていたのであるが、その観点からみると、葉山のテクストはそのような住居に徹底的に抵抗していることにはたと気づいた。「家」は、ボロボロで、隙間風が寒く、屋根には穴があいていて雨の日はぽたぽた垂れてくる。ノイズに溢れたそんな環境で、「近代的自我」など生まれるはずもない。

 しかし、その代わりに、葉山のテクストには、「近代的自我」、もっと簡単にいって「孤独な私」に欠けていた、連帯や共同性の位相があるのではないか。それを追うことで、プロレタリア文学の新しい価値を提示することができるのではないか。今構想しているのは、そんなことである。

 ああ、そうそう、そういえば、遅ればせながら、アケオメコトヨロ 。