凡例1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(15 ~18p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
3 : 過去と未来
生命の領域であれ、非‐生命の世界(結晶化)であれ、数多くのメタファーによって記号化されたイメージの現実存在と増幅の複雑な世界が、イメージを作り出す。純粋に心的であれ、対象‐イメージに具現化されてであれ、グループ間にあるのと同じく個体的な主体に対しても、過去と未来の媒介を作り出す。
〔過去の方を考えよう。〕個体的生命にとって、実際に、イメージは、想起になることができるし、特に複雑な間隔作用の再生を形をとって、過去の参照項のごとく顕示してくることも可能だ。このアスペクトは、テーヌの『知性について』と題された著作のなかで分析されている。つまり、イメージとは、概して文字通りの感覚作用に比べエネルギーも明確さも欠いている、突如として蘇った感覚作用である、そしてどんな感覚もそのようなイメージをもっている、ということだ。対応しているイメージと感覚作用は等しく類似した効果をもつ。もしイメージと感覚作用が異なるというならば、それはその内容や出現の固有のモードにあるのではなく、イメージそのもののうちにある。だが、イメージの還元機能の効果によって、イメージに伴って幻覚hallucinationへと発達してしまう幻影illusionが迅速に修正されている。イメージはいつも多かれ少なかれ長期の幻覚を含んでいるが、想起と一般的判断がそうするのと同じく、ほとんどの場合においてその幻覚は対立する感覚作用によって打ち消されている。対立する感覚作用が特別な還元機能であり続ける間は、補助的な還元体がその一貫性によって形成される。精神とはイメージの母体であり、それゆえに、身体である細胞群の母体と比較可能なものだ。細胞群は互いに相互作用し、それはイメージも一緒で、理性的覚醒状態のなかで相互的均衡に達する。イメージは感覚作用の代替物substitutで、感覚作用そのものよりも取り扱いやすい心的アクティヴィティーの道具だ。
〔未来の方を考えよう。〕対立を用いることで、イメージは予測の土台となり、近い未来や遠い未来の予示préfigurationと、予見される問題解決を象徴的に試みることができる。予測のアクティヴィティーはその方向と、想起としてのイメージの使用や発揮のモードによって差異化される。予測において、還元機能には効力がなく、イメージの増殖的増幅が発生する。これはつまりラ・フォンテーヌが寓話のなかで描写したのと比較可能なものだ。つまり、還元機能として不意に作用するミルク壺が壊れるまで、ペレットは《子牛、牡牛、豚、雛鳥》を見ていたのだ。芸術家と作家の想像力は、私たちがサイエンス・フィクションles romans d'anticipation〔=予測文学〕のなかで発見するように、人生の新たな相貌、新しい社会的状態を前もって形成することpréformerができる。いわんや発明は、主体の外を出て、現実の新たなモードを現実存在させる未来を力強く目指す。
しかしながら、想像力が純粋に再産出的であったり純粋に創造的であったりすることは極めて稀なことだ。過去の喚起évocationとは新しい生命であり、古いものとは別の仕方で図式化され、アクティヴな想起によって、洗練され形式化されている。歴史的場面を再現する版画estampes、ナポレオンの赫々たる武勲を讃えるエピナル版画のようなものだ。この喚起は、価値の乗り物である理想を提示し、別の世代に対しても後続する範例としての未来に向けて投影される。イメージ-想起は転生se réincarnerと永生se perpetuerを欲し、喚起に伴い予測の伏在sous-jacenceを提供し、蘇りの未来に向けて徐々に開かれていくようにするために現在時をある程度強制する。予測は、その持ち前により、古くからあるイメージ-対象のなかで既に具現化されているかつての夢を取り戻し、いにしえの憧れの残響を含み持っている。人間の飛行と《星座signes célesteまでの》旅行は、イカロス伝説とプロメテウスの冒険に応答している。人間にとって、翼とは、発明に等しい想起であり、予測に等しい記憶である。
集団的な生命にとって、正確にいえば心的イメージが累積的因果性のプロセスのみではなく、感性的、補綴的、技術的な対象-イメージを創造する発明の道筋に従う限りにおいて、イメージは過去を取り込み、未来の仕事のためにそれを自由利用することができる。集団的領域(企業、加えてネーション)での未来学prospectiveは諸計画と短中長期の合理的予測の機能に対応している。だから検討範囲……に従い、専門化された未来学についての専門家がいる。未来に投げ込んだ眼差しを集団的に合理化するこの努力は、現代の特色のひとつである。前世紀において、未来を頼りにすることには、社会的観念に染まり、希望が詰まった、情動的感情的な重い役目が刻印されていた。未来の次元は神話的であり続け、隠し玉として超越性transcendanceのヴェールに包まれたものを頼りにしていた。永遠の欲望のための隠れ家だ。科学的な歴史家たちは、唯一過去だけを科学の材料とした。なのに、行動actionに役立つ長期的な予見の必要性によって未来の次元での合理化が導入され、未来の神話を追い払った。少なくとも、経済学ないしは人口統計学の領域ではそうだ。空間のように時間が組織化され始めたのだ。将来futurが知と一緒になると、将来はもはや願望、欲望、意志の特権的な場ではなくなる。しかしながら、イメージは集団的未来の予測へと向かっていく密度を力を取り戻す。だからイメージは、未来学的合理化の外部や超越において、真の発明でなくても、特別な外挿法extrapolationであるのだ。
科学的虚構〔サイエンス・フィクション〕はイメージが未来の力能、即ち予言的prophétiqueな機能を取り戻す道筋のうちのひとつだ。その虚構とは傾向のなかで把握された現実世界のイメージであり、さらに言えば、単に推定されたのではなく、現実的に予測され、認知的かつ感情的なアスペクトに従って予め把握されたイメージである。現実的な予測であるために未来学に欠けているのは、この質的な力であり、発展途上としての真の次元を未来に与えるその「自然physis」なのである。予見するには、単に見ることだけではなく発明し、そして生きることが問題なのだ。真の予見とは或る程度の「実践praxis」であり、既に始った行為の発達上の傾向である。イメージは、一つの知に結ばれて方向づけられた感情を準備し、進歩に忠実な行為の連続性を約束する。イメージは未来学に《先取り的=先行アクティヴ的proactive》な力を与えるのだ。
イメージのもっていた古き良き忘却された形式は、宗教という形式、とりわけて供犠の働きにもある、予言的な行為のなかにあった。それでも宗教は構成されたイメージを通じて、過去と未来とが交流し力を貸し合うのに従って存在する、諸モードである。巨大なサイクルのなかでは、破壊されたものは再来するだろう、死んだものは生き返るだろう、堕落したものは咲き返るだろう。『死者の書』のなかで、最初の証人の一人は、既に生気なく、丁度死ぬ準備ができ、群衆に向かって引き抜いた腸を投げ、神が自分に命をまた与えて再生させるだろうと叫ぶ。《一粒の麦もし死なずば》という言葉について考えさせるのだ。過去の苦しい消尽は再生を準備する。死は誕生を準備する。イメージは宣告された死を補い、誕生の前兆を予言する。殉教者の血は種子だ。言葉のイメージとしての予言は秋から春に向かうように過去から未来に向かう隠れたそのサイクルを伴って表現する。
「第三の実在」のこの秩序は、十分に知覚できるわけではないし全体的に概念化可能なわけでもない。その領域において、古代ギリシャ哲学者には上に向かう道と下に向かう道があったように、イメージの研究は生成の神話の喚起、国家間相克conflagrationと炎上déflagrationのリズム、〈ブドウの当たり年〉の回帰、ネメシスの概念さえも使って相互に補完されねばならない。
グループの現実の一部分はイメージで作られる。それはデッサン、立像、モニュメント、衣装、道具や機械、加えて言語の言い回しや、(スローガンと比較して)言葉の真のイメージである諺のような慣用句でも具現化される。そのイメージはグループの文化的連続性を約束し、過去と未来の間の永続的な媒介になる。それは期待の一定のモードと同じく経験と知の乗り物vehiculesであるのだ。
【訳註】
・テーヌの『知性について』――イポリート・テーヌ(Hippolyte Adolphe Taine、1828‐1893)はフランスの実証主義哲学者。ラ・フォンティーヌについての論文で学位を得て、批評家として活動。心理現象も物理現象に還元できるといった決定論を展開。美術教師を務めたのち、『知性について』(1870)で哲学に復帰する。
・ペレットは《子牛、牡牛、豚、雛鳥》を見ていた――ラ・フォンティーヌの寓話のひとつ。少女ペレットは牛乳を市場で売るため、ミルク壺を頭にのせて町を目指す。その道中、売ったお金で卵を買い、鳥を買い、豚を買い、牛を買いなどと夢想し、動物になったような気になって飛び跳ねるが、その振動でミルク壺が落ちてしまい、なくなってしまう。「捕らぬ狸の皮算用」的な話だが、ラ・フォンティーヌ自身は、人が夢見るのは人類の特権だとコメントしている。
・エピナル版画――フランス北東部、ボージュ山脈の都市エピナル(Épinal)で作られる伝統的な彩色版画。子女のしつけや童話、ナポレオン伝説などが主題に取り上げられた。
・外挿法extrapolation――既知のデータを元に、本来未知であるはずのそのデータ外の数値を予測すること。
・『死者の書』――古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書。死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園に入るまでの過程を描く。
・一粒の麦もし死なずば――『ヨハネ伝』のキリストの言葉。正確には「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」。一粒の麦が死ななけれればそのままだが、死んで地に落ちることで子孫が繁栄して新たなる生命に恵まれる、の意。
・ネメシス――ギリシア神話に登場する翼をもった義憤の女神。復讐の神として紹介されることが多い。報償と刑罰の両方を分配するとされ、ここではその二重性が注目されているようだ。





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