※この文章は私が大学三年生のときに、「倫理学概論B」で提出したレポートである。パソコンのデータ整理をしていたら、たまたま発見した。文章が硬く、タームに依存している点に若さを感じる。昔の恥部を晒すようで、恥ずかしくもあるが、読み直してみると、恥ずかしさよりも「こんな時代があったのだなあ」と懐かしさが勝り、その記念にここに公開しようと思う。学生のレポートなので基本的に大したことは書いていない。一応強調しておく。
 
 
 フランス語justiceは正義を意味すると同時に司法をも意味する。これは正義論が基本的に第三者の審級をどのように挿入させるか、或いは又その第三者性を何処に委託するかという問題を論じることを意味している。そして多くの正義は神と国家(共同体)と個人の複合的組み合わせによって行使されることとなる。勿論、国家(共同体)がナチのような独裁政治を行ったり、或いは選挙制を破棄して民主主義を否定したりするような形態ならばそれは自然、神の超越性に近くなる。それ故、これを抽象的に表現するならば、超越項、間主観項、主観項の組み合わせと言いうる。
 
 プラトンは神(超越項)にその第三者性を委託し、その代理として哲学者を選んだ。それ故彼の目指す政治形態は民主主義を否定する哲人による独裁政治となる。が、その場合誰が哲学者を選ぶのだろうか。もし、哲学者を選ぶのが哲学者ならばそれは無限後退となる。プラトンは個々の不正、例えば一般大衆の一人が哲学者になるような不正が発生しても、死後に超越的な神の審判があるので、不正行為の報酬は正しい行為の報酬より少ないという宗教的解決を採る。が、これが「神が言うから正しいのだ」(「正しいから正しいのだ」)というトートロジーであることは明白である。我々が知りたいのは何故神が正しいといえるか、ということなのだ。
 
 ロールズを始め、現在の正義論者はこのようなトートロジーを避ける為、間主観項の近似的超越化、即ち超越論的間主観項の成立を目指す。これは具体的にホッブズの自然法「自分がされたくないことは人にもしない」やカントの定言命法の定式「あなたの行動が他の誰にとってもモデルとなるような行動をするべきだ」に見られ、「私」(間主観)を基点に他の誰でもが承認出来るであろう条項を基本的に法として近代国家は認めているのである。
 
 ロールズの場合、その出発点としてホッブズやカントの主体を社会的弱者の立場として設定する。これは、「社会が正しいから正しいのだ」という上述したようなトートロジーを避ける為で、社会的弱者だけが社会そのものに懐疑の眼差しを向けうる。強者は当然今の社会に満足しており正義論に於けるエポケーをする必要はなく、例えしたとしてもその多くは現在の功利的利益を獲得出来なく、エポケーを徹底させることが出来ないだろうからだ(ここには後にR・ノジックがロールズ批判としてロールズの正義論には社会が人間の人生の全てを運命づけるかのような「決定論」があり、自由を謳う彼の正義論と矛盾しているという指摘を見ることが出来る)。
 
 ロールズのこのような「私」の定立に役立つのが、「無知のヴェール」という原初状態へのモメントである。これによって、全ての人間の「私」のあらゆる社会的ポジション(性別、才能、運命、順序等)は隠蔽され、自分の知識と倫理観によってのみ幸福な人生を目指さなくてはならない。このようにして、各々の「私」が競合し人生の幸福を目指そうとすると、自然格差が生じる。が、この格差の割り当ては偶然性によるものである。ここで人々は次の様に問われる。一、一生遊んで暮らせる可能性が50パーセント、反対に一生ルンペンの可能性がやはり50パーセントの賭に乗るか、或いは、二、金持ちでもなければ貧乏人でもないような程々の財産で暮らせる人生のどちらが良いか。余程肝が座っていなければ、大体の人間が二の保険的な人生を選ぶだろう。このような選択によって、ロールズの格差原理、即ち社会的弱者に対する平等主義的配分の原理が打ち出されることとなる。これは今見たように弱者が正義である訳ではなく、万人にあった筈の弱者になるという可能性に由来している。
 
 このようにロールズも又、「私」(主観)から出発し、その「私」を普遍化することによって、間主観項の成立を目指す。ロールズの正義論がいかに社会構造に依拠してるように見えても(言う迄もないだろうが)社会が即正義である訳ではない。そこで良心的兵役拒否という市民主体の正義が可能となる。ロールズが依拠しているのは「私」が即万人であるような(主観が即間主観であるような)物語的自己である。
 
 このことは多くのロールズ批判を機能停止に陥らせる。特に、彼の設定が現実的でない等という批判は、鏡花にはリアリズムがないから読む価値がないという言うのと同じレヴェルである。その物語的自己は間主観項を目指す為、寧ろ現実的に等なってはならない。ロールズは「正当な」(reasonable)という語と「合理的な」(rational)という語を区別する。人間が従う規則の中には「正当」ではあるが、「合理」的でない行為がある。例えば、下らない教授の下らない話を、真面目に聞くことは「正当」であるが「合理」的ではない。もし、下らなければその授業中は内職や睡眠等で有限な時間を合目的性に添わせた方が「合理」的である。ロールズは普遍的な正当性の定立を目指し、もしそこに合理性があるとするならば、それは物語進行の順序に於ける合理性であり、その設定そのものを一笑に付すことに意味はないのだ。
 
 私はロールズの間主観項に基づいた社会制度、又その延長としての国際法を実定させる為に、インターネット投票による選挙制を導入すべきだと考えている。しかし、この時注意せねばならないことが一つある。インターネット投票の導入は間接民主主義から直接民主主義への移行を示しているが、それで代議士が消滅するということではないということだ。代議士は純粋な命題として存続する、つまり、代議士や有識者が徹底的に討論し、その結果提出された(作者の無名性を保持した)命題を国民の判断によって決定することを意味する。これは、間接民主主義に見られたような代議士の個人的欲望や利害関係によって民意が曲げられてしまうという事態を避ける為であり、代議士自身が党や派閥といったローカルな共同体の柵から自己を解放し、よりグローバルな政治的判断を下すことを可能にさせる為だ。又、ゴミ処理場建設等の地域間でばらつきが生じるような選挙は、「無知のヴェール」に従って、該当地区には補償を与えることを事前に取り決めるべきだ。ゴミ処理場地域は物語的自己の行き着く可能性の一つであったのだから。
 
 現在、日本の選挙に於いての投票率は極めて低い。この原因は政治に対する国民の間接性が影響しており(その為私は直接性への移行を提起した)、「誰が誰に投票しても同じ」という無為性は当然もたれて然るべきである。勿論これは「同じ」ではない。が、投票する側にとってはその間接性は直接的な有為性を感じさせてくれる程の希望には値しないのだ。
 
 この「同じ」というある種の信憑は我々が貨幣を使用する際に生じる価値の保障点という信憑に近い。貨幣はそれ自体価値を持つ訳ではない(その形態は所詮紙切れや貝殻に過ぎない)。貨幣が価値を持ちうるのは、他者がそれを欲望しているという点に於いて可能になる。よって、貨幣というメディアの機能は他者の欲望を表象する点に求められる。しかし、この他者は決して現前して来ない。例えば我々は労働の報酬として自分が欲している商品それ自体ではなく貨幣を受け取るが、それは何故だろうか。これは貨幣を渡してくれる現前する他者の後ろに控える(と思われる)後続の他者が貨幣を欲していると私が信じているからであり、この無限後退を余儀なくされる「他者の他者」、「外部の他者」、「余剰的な他者」を信じていなければ、貨幣を受け取る等という危険な行為(商品それ自体ではない媒体を受け取るという行為)をする事は出来ない。だが、実際に貨幣による交換は今もなされている。これは、我々が「他者の他者」という物語(信憑)の中で生活していることを証明してくれる。
 
 貨幣に於ける同一性(不変性)という信憑は、欲望論に立脚した生活世界を我々に提示してくれる。ロールズが現代日本にもたらせてくれるのは、物語的他者の中に物語的自己を挿入させること、換言すれば、正義論に於けるエポケーによって一旦生活世界を破壊し、再度市民が当然持ちうる政治的発言権や主体の社会的有為性を物語的に再構築、再呈示させてくれることにある。

 

  参考文献

  • ジョン・ロールズ『正義論』矢島欽次、篠塚慎吾、渡部茂訳 紀伊国屋書店 1979
  • 大澤真幸『恋愛の不可能性について』 ちくま文芸文庫 2005
  • プラトン『国家(上)(下)』藤沢令夫訳 岩波文庫 1979
  • ロバート・ノジック『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳 木鐸社 1995