それが「三年殺し」になるのか「七年殺し」になるのかは判らないが、東京の展覧会巡りで相当の距離を歩いたので、これを書いている身体の疲労はピークに達している。

1990年代以降の東京の展覧会巡りは歩く事こそを強いられる。東京のギャラリーの分布は、1980年代までのそれに比べて相対的にバラけたものであり、加えて公共交通の網の目の中心部分に位置するものが多い。更に東京の地形は「日本坂道学会」が形成されたり「全力坂」というテレビ番組が成立する程に起伏に富む。平坦な地形に「人工/体系」的に「設計/構築」された町の数え歌は「まるたけえびす」や「てらごこ」であり、それが今でも当地の住人の脳内GPSに於ける「座標系」の役割を果たしているが、一方で自然(地形)と人間(移動体)との相関で形成される「坂」という「道」は、「人工/体系」的「座標系」としての「道」とは異なり、配列的変数を条件とする数え歌の成立自体を拒否するものである。それは環境が持つ諸特性(物理的抵抗等)によってその形が決定される「根茎(rhizome)」の様なものだ。

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 「根茎」である東京の道や地下鉄やバス路線は、移動の計画を立てる合理性を何処かで否定するところがある。「根茎」の中に点在する東京のギャラリーは、鑑賞者にただ「歩け」と命じる。これは飽くまでも私見だが、1990年代に入ってギャラリーが東京中に点在する形になったのは、1980年代の所謂「ポスト構造主義」ブームの影響が大であるとすら思っていたりする。そして、相対的に「碁盤の目」という「体系」に基いて構築された町である「銀座」の、美術界に於ける地盤沈下もまたこの時期に始まっているのである。

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この日最初に訪れたのは上野だった。東京都美術館と東京藝術大学構内で行われている「第62回東京藝術大学卒業・修了作品展」を開始時間と同時に見始める為に、9時30分に都美術館に到着する予定を組んだ。上野駅の不忍口を降り、京成上野駅側から続くだらだら坂を、2メートル毎に道行く人に道を尋ね聞く女性を横目で見ながら登って行く。途中「上野大仏」の御尊顔を拝しようとパゴタの方を見上げると、何やら相対的に大きな「建造物」が出来ている。「プロ」の手になる造作ではない事は明らかだったものの、一方で上野公園に多い「ブルーシート住宅」に比べれば、それなりに「建築費」が掛かっている作りであったから、こうした「酔狂」としか言えないものは「美術」の人間の手によるものに違いないと思っていたら、果たしてその通りであった。「現役芸大生6名による屋外グループ展」との事である。

丘に登って大仏の御尊顔(顔しか無い)を拝してから「グループ展」へと足を運ぶ。その光景に、或る一枚の絵が瞬間的に脳裏に浮かんだ。「エドゥアール・マネ」の「草上の昼食」である。背景に「ティツィアーノ・ヴェチェッリオ」を置き、前景に「マルカントニオ・ライモンディ」に1860年代のフランス風俗のレイヤーを重ね、御丁寧にも脱衣した服のレイヤーまで重ねてしまった19世紀の名高い「合成」画像である。この「野外グループ展」もまた、「背景」に「自然」を置くそうした「合成」画像の様なものに見えた。「美術」の「新規ファイル」の場合、その背景もまた「白」であったりもするが、この人達は「新規ファイル」ではなく「既存ファイル」の上に「美術」を「合成」する事を選んだのだろう。

「草上の昼食」に登場する「人間」には「自然」に赴く理由があるに違いない。しかし「背景」である「自然」には、珍妙な格好をして珍妙な行動を取る「人間」を呼ぶ理由は一つも無い。こうした場面に対しては「人間」の側から「ふれあい」という語が多用されもするが、それは当然「人間」の「都合」というものである。時にその「都合」を正当化しようとして「自然」と「人間」のレイヤーを繋げようとする努力がされる事もあるが、しかしそれをすればする程「都合」ばかりが見えて来てしまうという逆説がある。一般論として、野外展の場合には「『都合』で何が悪い」という「開き直り」から、「単なる『都合』では無い」という「エクスキューズ」までのバリエーションが存在する。この「屋外グループ展」の作品もまた、その間の何処かに位置するものだった。

一人の作家の一つの作品のその一部分のみを脳内に持ち帰った。そこから「お化け灯籠」方面へと階段を下ろうとすると、そこにあった筈の「ブルーシート住宅」群がすっかり無くなっていた。頭の中がその事ですっかり占められてしまった。

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9時40分に都美術館に到着した。作品点数の多さに怯んだ。これら多数の「才能」は、「美大生」である事を外された4月からどうなって行くのであろうか。全員が「作家活動」をし続けて行くというケースはあり得ない。そこに並んだ多くの作品から、その先の人生を想像する事は難しかった。

いずれにしても、11時30分に上野を離れるというこの日の計画からすれば、東京都美術館と東京藝術大学構内で行われている全ての作品を見て(≠目撃して)回るのは現実的では無い。ふと脇を見ると「講評会とラウンドテーブル<まだ実現できていないことを、いかに可能にするか>【本日開催】」の告知があった。「絞り込み」の方針はそこで決まった。14時まで待てば、その「東京藝術大学先端芸術表現科卒業修了作品展2014の全作品の講評会」を実見する事が出来るものの、しかしそこまで上野に留まっている事は出来なかった。その場で見られなかった多くの「才能」については、「社会」で「淘汰」されたものを見て判断する事にする。

「先端芸術表現科」作品の評価は難しい。例えば「油画」や「日本画」の卒業制作に対して「良く描けている」といった類の評価があり得るとするならば、「先端芸術表現科」作品の評価は「良く考えられている」事がその基準になるのであろうか。しかしそれも違う気がする。「良く考えられている作品」が「曲がっただけの針金(例)」を超えられず、「良く考えられている作品」以上に「曲がっただけの針金(例)」の方が、それを見て考えるところが多いというケースも、「社会」の現実として多々存在するからだ。

勿論「東京藝術大学」まで行って、4年間或いは6年間「曲がっただけの針金(例)」を作り続けるというのは、或る意味でかなりの「勇気」と「努力」が伴う行為と言えるだろう。「良く考えられている作品」というのは「良く描けている作品」同様、「美術大学」という世界の中で有効性を持ち得るのは確かだ。しかし一旦「美術大学」から外の世界に出てしまうと、「良く描けている作品」や「良く考えられている作品」が、「曲がっただけの針金(例)」を永遠に超えられないという場面に数多く出くわす事になる。その時に初めて「美大生の私」から帰納的に得られたものとは全く異なる「社会」や「世界」が見えて来るのかもしれない。この日に見た多くの「社会人」の作品が、「美大生」の作品と大きく異なっている部分はそこにある。

「卒業修了作品」は、未だ「制作」の「予行演習/シミュレーション」の段階にある。それが「予行演習/シミュレーション」でしか無い事に自らいち早く気付き、直ぐ様「社会」の中の自らの立ち位置を俯瞰的に見られる「才能(「美術大学」はそれをこそ「伸ばす」べきであろう)」こそが、「美大生」という名の「エクスキューズ」である事を外された「社会」では求められる。「社会」の側にいる者による「講評会とラウンドテーブル<まだ実現できていないことを、いかに可能にするか>」が、どれだけ「美術大学」とは別の評価軸を示し得たかは、その場に立ち会っていない者には判らないが、少なくとも「美術大学」のそれと全く同じでは無かったと思いたい。でなければそれは無意味だ。

「第62回東京藝術大学卒業・修了作品展」で「引っ掛かった」作品は幾つかある。それなりにネタウケしたものもある。しかしそれを過大に評価する事はここではしない。いずれも昨年度の「五美大」展で見た「あれ」よりは、その「評価」に一定以上の時間が欲しくなるものだった。

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予定よりも10分遅れて山手線内回りに乗った。次の下車駅は西日暮里である。

しかしこの日の初っ端で、これ程に肉体的に疲労を感じてしまって良いものだろうか。「生きる事は死ぬ事と見付けたり」という言葉も何処かで見た様な気がするが、その顰で「展覧会を見る事は死ぬ事と見付けたり」と言いたくもなる。しかしそれは或る意味で極めて真実なのだろう。恐らく「優れた展覧会」や「優れた作品」とは、平穏な生活の寿命を縮める為に存在するものなのである。そしてその「危険物」の扱いを学ぶ場こそが「美術大学」なのだ。

【続く】