「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』)
 

 映画『ゼロ・グラビティ』を観た。原題はGravity(重力)――余り変わらないのだから普通に『グラビティ』で良かったのでは?――。梗概は簡単だ。アクシデンタルに飛んできた隕石の破片によりスペースシャトルが大破。地球との無線も絶たれ、乗組員は主人公であるライアン・ストーン博士以外全員死亡。知恵と勇気を振り絞り、彼女は命がけで「地球」(原語ではhome)に帰還する。

 梗概だけを紹介すると、全くもってつまらなそうな映画なのだが、3Dに特化して作りこまれたその映像表現の魅力を知るには騙されたと思って実際に劇場に足を運んでいただくしかない。それ以外の言辞はことごとく無力だ。

 だからこそ、私の感想は一言、素晴らしいに尽きる。…が、しかし、観ながら多少思ったこともある(それは拙文エヴァンゲリオンの手に関係することだった)。

 『ゼロ・グラビティ』では主人公が大半の時間、船外活動を行っている。ということは、当然、無重力状態である宇宙空間に投げ出された人間の身体が描かれるわけだが、とりわけ、その舞台設定ゆえに映画内で何度も反復されるのが、何かを掴むというシーンだ。シャトルの船体の一部を掴む。仲間の手を掴む。ロープを掴む。重力を失い、安定性を失った空間では、上も下もなく重い軽いもなくどんな物体も寄る辺なく浮遊し、回転する。それを一時的に固定し、視座を仮構するのが、掴むこと、つまりは人間の手の力能である。

  掴むことによって、居心地がえられる。居心地のことを、我々は心の土地と呼ぶべきかもしれない。心は心だけで充足していない。心は地面からアフォードされている。無線が途切れたように、大地のアフォードが途切れてしまえば、心は居心地を無くしてしまう。デカルトは間違っていた。物質の重みや質感は心の揺蕩うべきホームである。だからこそ居心地が低下すると、それは居たたまれなさに変化する。自分がいるべき場所がないこと、つまりは心許ないこと、これは正に自身の過失ゆえに仲間を失ったストーン博士の心持ちでもあった。分厚い宇宙服で覆われた彼女の手が掴むのは、シャトルの凹凸部ではなく、端的に心の拠り所である。

 人間の手は単なる前足ではない。そしてそうであるならば、足もまた単なる後足ではない。人間は直立二足歩行をする。言い換えれば、人間とは重力に従う肢(=足)と重力に逆らう肢(=手)という相反する二力能を同一身体内で分業させた生物学的に特異な進化を遂げたシステムにほかならない。体勢の新体制、アティテュードのレジームが更新される。人間の手は大地にバイバイするために存在している。なんたることか! チンパンジーが長時間木にぶら下がっていられるように立ち続けることはできない、中途半端な進化のくせして! 二点で体を支えるという明らかにアンバランスな進化のくせして!

 しかしながら大地へのバイバイは、実は大地に根ざした(後足ではない)によって支えられている。ジョルジュ・バタイユのテクストにしばしば臭い「足」が登場することを思い出そう。バタイユが言いたいことは単純だ。理性や合理を司る「頭脳」(=ヘッド。彼の作った秘密組織がアセファルAcephale、つまり「無頭」であったことを想起せよ)は、実は、大地に縛られ、泥で汚れ、アカが溜まって嗅ぐに堪えない異臭を放つ「足」によって支えられているではないか、ということだった。直立二足歩行はヒトの身体に垂直性を導入する。そして垂直性は様々に変形する。創造者と被造物、天上的なものと世俗的なもの、聖なるものと穢れたもの、精神と身体、祝祭と労働、超越と経験。バタイユが弁証法的発想を駆使しながら、人間のなかに見出すのは、相反するものの共犯関係であり、その共犯の前提となるのが前述した分業、つまりは四肢を足と手に分節した特異な生物学的条件である。

 だからこそ、映画の最後、主人公が浜辺の泥状の赤土をで握り、そして無重力状態で使い物にならなくなっているはずのでよろよろと立つ、ただそれだけの姿に、我々観客は感動することができる。手の物語は足の物語に(文字通り)着地する。劇中始終齷齪し続けた手は、最後の最後でやっと足という力強い相棒に再会する(仲間を失う或る場面では、足の無力が浮き彫りにされていた)。なんという足のフィナーレ! この映画は、ただこのシーンのためだけに存在しているといっても過言ではない。バタイユが示唆していたように、手は足のサポートの中で初めてとなることができる。異なる力能のカップリング。奇妙な婚姻関係。つまりは人間。宇宙遊泳を経て、彼女は(手と足が存在するという)不調和の調和を回復する。

 こうして『ゼロ・グラビティ』は宇宙航行という最先端科学の意匠を用いながら、ヒトの進化の原像を再現してみせるのだ。その感動は、ピクサー作『ウォーリー』(2008)が『2001年宇宙の旅』をパロディに表現したあの立脚シーンのそれによく似ている。

 埴谷雄高は「まったく国境を知らない」という理由で人工衛星の打上げを肯定的(楽天的?)に評価し、エマニュエル・レヴィナスは人工衛星に「場所」からの離脱を読んでいた。しかし、『ゼロ・グラビティ』はそのどちらでもなく、ハンナ・アーレント的、つまりは人工衛星によって地球(=人間の生の条件)を客観視したと豪語する科学者の傲慢を揶揄していた『人間の条件』的なメッセージを伝える。「地球の重力に魂が引かれる」(シャア・アズナブル)。国家間戦争は終わらないかもしれないし、ハイデガー的世界は再来するのかもしれない。

 ならばこれは保守的な映画だろうか? そうかもしれない。しかし、足が手をサポートするように、人間は相反する二つの力を共犯的に駆使することで前進する生き物である。そうであるならば、保守は革新と両輪で進み、保守とは革新の保守でなければならない。人間とは、アンバランスを含み込むその両立可能性の謂であり、正にそれこそが映画のテーマだったのではないか。少くとも、この映画の宇宙映像表現は、以後の映画史に確実に刻まれる革命的事件であることは明らかである。