『萎えた光』

10日目、メッタの日は朝早く目が覚めた。

朝食当番ではなかったので、ホールへ行って瞑想した。おしゃべりが解禁になる前の、最後の数時間を味わいたかった。早朝の瞑想は「グループ瞑想」ではなく、参加者はホールで瞑想してもよいし、自室で瞑想してもよい。キッチン要員は参加の義務はない。また、事情があれば中座することもできる。

いつものように6時からパーリ語の経典の詠唱が流れ、6時半で瞑想は終了した。ATから指導されたとおり、いったん自室に戻りベッドに横になる。頭からつま先まで意識を移動させ、気持ちを落ち着かせてからキッチンに向かった。

昨夜の予想どおり、この日は曇っていた。

いつもなら夜明け前の空がすみれ色に冷たく澄み渡るのに、今朝は薄い雲が空を覆いつくしている。その雲を通過して地面に届く光は平面的で、まるで皆既日食のようだ。砂漠の白い大地が妙に明るく、空の光を反射しているというより、それ自体が発光しているように見えた。

スタッフ用のダイニングルームでは、すでに仲間たちが朝食を摂っていた。

「おはよう。元気?」
「そうねぇ... なんか変な感じ。メッタの日だからかな?」

ダイニングルームの空気中を、見えないホタルがフカフカ舞っているような気がした。さわやかな朝とは言いがたい。朝食後、いつものようにみんなで後片付けをすませ、8時からホールでグループ瞑想。今日は苦手なメッタの日だ、無理は禁物だと、自分に言い聞かせる。リラックス。一時間の瞑想を無事に乗り切る。

大変だったのはこのあとだ。

いつもの日なら、朝のグループ瞑想のあとキッチンで昼食の支度がある。この日はメッタの日だから、短い休憩のあとホールに戻り、メッタの指導を受けた。


『メッタの指導』

ホールの中、いつもと同じように座り、目を閉じる。
教典の詠唱に続き、メッタの指導の音声が流れる。

実を言うと、私はいまだにメッタの「キモ」を理解していない。技術的なインストラクションは、身体に感じる微細な振動を外部に放つ、というだけである。それしか言わないのだから、きっとそれ以上のことをしなくてもいいのだろう。「自分やそれ以外の存在の調和と幸福を思念」することが強調されるが、単に象徴的なものに思えてならない。どことなく宗教っぽいところもイヤだ。

困るのは、自分がメッタを行う状態でないことがままあることだ。
メッタを行うときは、自分自身が満ち足りて幸せであることが重要だという。
一時間の瞑想のあとは、情緒的に落ち着いて穏やかな気持ちなのがふつうだ。メッタは、そういう状態で行うことを想定している。

それでは、情緒的に混乱し、メッタを行うのにふさわしくない状態の時はどうすればいいのだろう?

メッタの思念についての説明が、ゆっくりとホールの中に流れる。それはいちいち、今の私には不可能なことばかりだ。

いったい私に、何をしろというのだ?

みんながありがたがって聞いている言葉のひとつひとつが偽善で、これを黙って聞いているのは自己に対する欺瞞とすら思えてくる。この言葉の聞こえない所へ行かないと、生きていけないような気がしてくる。

ホールの中で座ったまま、私は頭を垂れた。いつものように背筋を伸ばして座っているより、そのほうが楽なんじゃないかと思ったからだ。みんな目をつぶっていることがわかっていても、誰かに顔を見られているようで、怖い。こんなふうに混乱するのは酸素が足りていないからじゃないのかと、根拠のないことを考え、酸欠のキンギョのように口を大きく開けた。

でも、このホールの中に、私が吸える空気はあるのだろうか?

どんなに苦しいときでも、時間はちゃんと経過するものだ。
メッタの指導は終わり、経典の詠唱が流れ、瞑想は終わった。


『呼び出し』

この日のランチはオーブンで加熱すればよいだけのメニューだったが、デザートにクッキーを出すことになっていた。メッタ指導のあと大急ぎでキッチンに戻り、クッキーを作るのだ。

私は瞑想センターでクッキーやケーキを作るのが好きだ。どれも玉子を使わないベジタリアンのレシピで、凝ったものではない。でもセンターにはプロ仕様のミキサーやオーブンがあり、そういった機材を使って大量のお菓子を作るのは楽しい。

でも、この日はクッキー作りに参加しようとは思わなかった。限られた時間でお菓子を作るのはチャレンジだ。みんなチームワークを発揮して、一丸になって作業するだろう。

そういう盛り上がった雰囲気に入っていけるとは思わなかったし、入りたいとも思わなかった。

グループで調理作業をした経験のある人なら分かると思うが、頭数ばかり多くても仕方がないときもある。クッキーなら何日か前にも作ったから、もうみんな大体の手順は心得ている。私が参加しなくても、十分な人手がある。

私はキッチンマネジャーに、30分か40分休みをとりたいと申し出た。そのあいだに、クッキーはできあがってしまうだろう。私は楽しいクッキー作りが終わったあと、キッチンに行けばよい。マネジャーはしょうがないなという表情だったが、私がいなくても作業に支障がないのはわかっているはずで、許可が出た。

部屋に戻って、ベッドに横になった。やはり疲れていたのだろうか。頭からつま先に意識を移動していく。二往復もやったら、眠くなってきた。寒かったが、少しだけうとうとしてキッチンに戻った。クッキー作りに使ったミキサーのパドルやボウルが洗い場に転がっていた。

こういうふうに無理ぜず苦手なところを避けていれば、明日まで持たないこともないだろう。

昼食時、リネーがちょっとうんざりした表情で言った。コースマネジャーの仕事も10日目で、彼女もいい加減疲れているのだろう。



「あんたATとインタビューすることになっているから、ホワイトボードに名前を書いといたわよ」
 


どうしてそういう変則的なことになったのだろう?10日目のスケジュールにはATのインタビューはない。それに、インタビューは本人が申し込むのが普通だ。でも、それでもインタビューがあるのなら、行けばいいだけの話だ。私は、「あ、そう。ありがとう」とだけ答えた。

参加者用のダイニングホールまで、インタビュー申し込み用のホワイトボードを見に行った。メッタ指導のあと会話が解禁されたので、ダイニングホールは別世界のような賑やかさだ。ホワイトボードの5人目に私の名前があった。私以外にも5人の参加者がインタビューを受けることになっていたが、ボードに書かれた字はすべて同じだ。きっと全部リネーが書いたのだろう。ということは、今日インタビューを受ける6名は、インタビューに来るようATから指名されているのだ。

私は呼び出しを喰うような問題行動を起こしているのだろうか?


『三回目のインタビュー』

昼食の片づけを大急ぎですませ、タイミングを見て瞑想ホールまで行く。順番が来て、私は中に入った。

ATがにこやかに言った。

「調子はどうですか?」

メッタ指導中の私の不調を、ATが見ていないわけがない。

「あまりよくないです。でも、私はもともとメッタの日が苦手なんです」
「メッタのときはエネルギーが強いからですよ。それに圧倒されているのでしょう」

私はそんなにエネルギーに圧倒されやすいのだろうか? 
エネルギーに圧倒される、と書くと胡散臭い感じだが、私には本当にそういう傾向があるのかもしれない。

パーティや飲み会で楽しめないのはどうしてなのか?イベントやお祭りに関心がないのはどうしてなのか?道場で空手の稽古に参加するより、一人で海岸をランニングする方が好きなのはどうしてなのか?映画は面白いと思うけど、映画館はきらいだ。

こういう性向は「エネルギーに圧倒されやすい」という理屈で説明できるのではないか?

ATは言った。
「あなたはとてもまじめに瞑想に取り組んでいるから、インストラクションをあげたいと思います」

うれしいといえばうれしいけど、やっぱりどこか足りないところがあるのだろう。

「まず朝晩1時間ずつ、毎日必ず2時間瞑想してください」

やっぱり。

ここで教えている瞑想法は、日常生活で朝晩1時間ずつ、毎日2時間瞑想するのが標準なのだ。ただし、実際に毎日そこまで瞑想している人もあまりいないような気がする。私も1日1回、30分瞑想するのがやっとだ。ただ、いつかは「朝晩1時間、毎日必ず2時間」瞑想する習慣をつける必要があるだろうと感じていた。いい機会だ。やってみよう。それで私の「エネルギー代謝不全」が治るなら、やってみる価値はある。

「それから、日常生活でも五つの戒律を守ってください」

センター滞在中は仏教の五戒に準拠した五つの戒律を守ることになっている。



  1. (不殺生戒 ふせっしょうかい)いかなる生き物も殺さない。
  2. (不偸盗戒 ふちゅうとうかい)盗みを働かない。
  3. (不邪淫戒 ふじゃいんかい)いかなる性行為も行わない。
  4. (不妄語戒 ふもうごかい)嘘をつかない。
  5. (不飲酒戒 ふおんじゅかい)酒や麻薬などを摂取しない。 





仏教の五戒は在家修行者向けの戒律で、特に難しいものではない。1.の不殺生戒については、掃除中に誤って小さな虫を殺したりするのは仕方ないとのこと。ただ、できるだけ上手に捕まえて、外に放してやらないといけない。4.の不妄語戒についても同様で、程度と目的をわきまえて判断してくださいとのことだった。

3.の不邪淫戒については、センター内は性行為禁止だが、日常生活では「不道徳な性行為禁止」という意味だ。だから相手のいる人は、その相手と行為すればよい。

残念に思ったのは5.の不飲酒戒だ。私はあまりアルコールは飲まない。でも正月やそれ以外の記念日にワインをいただくのは楽しみだ。グラスに一杯も飲めば十分で、もっと飲めれば楽しいのにと思うこともあるくらいだ。数ヶ月に一度、気の置けない知人とワインを飲みながら会話を楽しむのも、いつも楽しみにしている。

「私はたまにワインを飲みますが、たしなむ程度で、中毒でも何でもありません。それでも、お酒を断ったほうがいいですか?」
「アルコールは少量でも行為のコントロールに影響があるのです。あなたはLiberateされたいですか?」

話がいきなり飛躍した、と思った。
Liberation「解脱」と理解したので、混乱した。
私が「解脱」を目指して瞑想しているわけがない。
でも、ATががっかりするようなことは、言いたくなかった。

「私はそういうことにはあまり積極的ではなくて... 」

と言い始めてから、考えを変えた。
相手はATだ。適当な言葉で取り繕おうなんて考えないほうがいい。そのまま話せばいい。



「私はそんな大きなことは望んでいません。私はシャワーのついているアパートに住んでいるから、毎日シャワーを浴びます。瞑想するのも同じで、瞑想のやり方を知っていて瞑想する場所があるから瞑想するのです。実のところ、何も望んでいません」
 



私は本当に何も望んでいない。
瞑想してストレスを解消するとか、心の平安を得るとか、そういうことも望んでいない。

Liberationというのは」とATは続けた。



「ひとつの大きな出来事ではないのです。それは毎日起こる、小さなことです。ひとつの小さな苦しみから解放されれば、それがLiberationなのです。あなたはそれを望みますか?」
 



正直なところ、それは私の求めていたことだった。
私は答えた。「はい」

「それだったら、せめて二ヶ月続けてみたらどうですか?」
「そうします」
「それから、瞑想するときはこのまえ話したインストラクションを守るように。感覚をキャッチするより、心のEquanimityに着目するようにしてください」

Equanimityについても、私の理解は十分でなかったことがわかった。
瞑想中のさまざまな感覚に対して「良い・悪い」の判断をしないこと、と理解していたけれど、普通の意味で「心が平穏かどうか」と考えれば良いのだろう。感覚を得てそれを判断せずに処理する一方、心が平穏でないこともあるのだ。感覚処理のパフォーマンスより、心の状態を優先させないといけない。

「出発はいつですか?」

ATは私が不調なのを気にかけていたのだろう。キッチンの仲間には、このコースが終了したあとも滞在して次のコースの手伝いをする人もいる。でも私は明日、コース終了とともにセンターを発つことにしていた。会社の仕事もたまっているはずだ。あさっては出勤して、片付けないといけない。精神状態はあまりよくないが、明日の朝まで持たないこともないだろう。

「明日の朝です。ちょうど良いタイミングだと思います」
「私もそう思います。またこのセンターに来ますか?」

正直に答えたほうがいい。

「わかりません。自分の家に帰って、そのときにどう感じるかで決めたいと思います」


(『想像上の銃』に続く)