昨年も書いたのだけれど、私は2010年以来、毎年この時期になると、山中の僻地にある瞑想センターで瞑想のコースに参加している(参照:「今年の瞑想」http://www.en-soph.org/archives/22476712.html)。

だが、今年(もう昨年だが)は砂漠の瞑想センターで、コース運営の手伝いをすることにした。今日から九回ほど、そのときのことについて書いてみようと思う。


【瞑想に人間性を高めるというような効果を期待してはいけない】

砂漠のセンターは私の家から車で3時間くらい。2011年の春にこのセンターが開所する直前から、たびたび手伝いに行っている。まとまった休みをとるのは難しいので、いつも2日か3日、長くても5日の滞在だ。でも今回はコースの最初から最後まで、11泊12日の日程で手伝うことにした。通しでコースの手伝いをするのは初めてだ。

瞑想センターと聞けば、さぞかし平和で穏やかなところだと思うかもしれない。そういうところに滞在すれば、きっとすっきりキレイな気持ちになれるだろう。それは正しいが、瞑想センターは、お客様の満足を約束するリゾートではない。心をキレイにすることができるかどうかは本人次第だ。

私の場合、滞在中にストレスで悩むことも少なくない。

センターに手伝いに来る人たちはさまざまだけれど、私のような勤め人は少数派だ。というより、センターで知り合った人の中で、会社員なんてやっている人は自分以外に知らない。ここで奉仕活動していてわかったのは、瞑想に、人間性を高めるというような効果を期待してはいけない、ということだ。

瞑想し、結果的に優れた人間性を獲得する人は多いと思う。
でも、瞑想は基本的に個人的な行為で、社会的な意義はない。
瞑想する人は、自分のために瞑想する。
よりよい人間になって社会に役立つためではないのだ。

瞑想コース参加者と違い、手伝いのスタッフは会話が禁止にならない。それでもNoble Speechという規則があり、うわさ話や討論、乱暴なものの言い方は禁止だ。社交のための、必要のないおしゃべりも歓迎されない。身体の接触は同性同士でも常時禁止。キッチンや食堂の作業は男女共同で行うものの、スタッフ用の食堂は男女別々だ。

けれど、性別年齢人種を問わず、どうでもいいことをしゃべり続けないと生きていけない人はいるものだ。私はそういう言葉を受け流し損ねて、時には致命的な打撃をうける。

去年の夏に手伝いで滞在したときは、ひどかった。

確か4日間の予定で手伝っていたのだが、仲間のスタッフの不用意な言動がどうにもならないトラウマになり、グループ瞑想中に涙と鼻水が止まらなくなってしまった。

コースの責任者はAT (Assistant Teacher) と呼ばれる瞑想の先生で、通常男女一名ずつ、男性ATは男性のコース参加者とスタッフ、女性ATは女性をケアする。病気や怪我はもちろんATに報告、特別なリクエストはATの承認が必要だ。

私はひとりごとやモノを乱暴に扱う所作をコントロールできなくなってきていたので、ごまかしの利かない事態が発生する前にセンターを離れたほうがいいと思い、女性ATに相談しに行った。だがATは、こういう苦労は先へ進むためのチャレンジだから、もう少しがんばって予定の滞在期間を過ごしなさいと言う。

でも身体の反応はすでに病気のものだったし、精神的にもキッチンの仕事を続けるのは無理だ。どうしたものかと思ったが、ATが「このまま自分の部屋に行って休みなさい。キッチンに戻ってはいけません。次のグループ瞑想も来なくていいから、部屋で休んでいなさい。キッチンマネジャー(手伝いスタッフのまとめ役)には私から伝えておくから心配しないように」と言ってくれたので、それに従った。


【自分の手に負えないことに直面したら、あきらめるのがいい】

さっき書いたように、私はコース期間中、通しで手伝いをする機会はなくて、いつもパートタイムだった。英語が母語ではなく、見るからに平凡な中年の女性がコースの途中で突然現れると、「キッチンの仕事がよくわかっていない、ちょっと迷惑な人が来た」と思う人もいる。数ヶ月に一度は手伝いに行っているので、キッチンも食堂も作業の手順は大体わかるのだが、「私、わかってるから」という態度に出るのも傲慢なので、大人しくしている。半日も経てばセンターの仕事の手順を理解していることはわかってもらえて、穏やかにうれしく過ごすことができる。

そして去年の夏のように、そうでない時もある。

キッチンとダイニングホールの仕事は、10人程度のスタッフで回している。スタッフはすべてボランティアで、それぞれ自分の都合に合わせて申し込む。だから実際にコースが始まるまで、どんなメンバーが集まるかわからない。

誰とでもうまくやろうなんて、考えないことだ。

どうにもこうにも私とケミカルの会わない人が集まっていることもある。でもそれは私がコントロールできることではない。もうどうにもならないのだ。唯一できるのは、もうダメだという事態になったときにATに相談して対策を考えることだ。

努力なんてしても無駄だ。あきらめるのが、正しい。


【どうにでも好きにしてください】

でもこういうことが続くと、センターに手伝いに行くのがイヤになる。
私は会社勤めなので、長期の休みを取るなら年末年始がチャンスだ。コース期間を通して手伝いをするのはこの時しかないので、募集開始の時点で早々に申し込んだ。でも出発直前になって、どうしてセンターへ手伝いに行かなきゃいけないのか、自分でもわからなくなってきた。

イヤなら、やめればいい。
それは私の自由だし、実際にそうすることもできる。

現地に到着したあとどうなるかなんて、出発前には、わからない。私の意志ではどうにもならないこともあるだろう。それだったらもう、煮て喰うなり焼いて喰うなり、好きにしてもらうしかない。そして私は、あきらめる、降参するということを学ぶのだ。

宗教に帰依する、という表現がある。帰依とは何だろう?
英語ではrefugeあるいはsurrenderと表現されることがある。

避難する、もしくは降参する。

降参といえば目的語はふつう「敵」だが、宗教に降参するのもありかもしれない。
もう降参です、どうにでも好きにしてください、と。

(『砂漠の瞑想センター』へ続く)