【幸福否定の研究とは?】
勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究。心理療法家、超心理学者の笠原敏雄が提唱している。
間隔が空いてしまっていますが、前回では「無意識下の現象」というテーマを取り上げました。治療者の理解度や姿勢が心理療法の効果、特に症状の軽減に関係してくるのではないか?という内容です。
今回はそこから展開させて、私が考える「”症状”とは一体何か?」というトピックを、笠原氏の心理療法(即ち”幸福否定”です)の勉強を始める前と後とに分けて書いてみたいと思います。(注1)
ここ数年、私は心理療法を中心にした施術をするようになっていますが、本来は東洋医学を基盤とする施術を行っていたため、がんや脳梗塞の後遺症など、身体の病気を持った患者さんも数多く施術してきました。
命に関わる病気の施術経験も多いのですが(注2)、がんを筆頭に、命に関わる病気というものは症状がないまま進行することが数多くあります。胃腸を例にとってみると、心因性の症状や、疲労、冷えなどの症状は強くでますが、がんなどは気がつきません。また、”もの言わぬ臓器”と言われる肝臓が代表的ですが、腎臓、膵臓なども症状が出にくく、症状が出たときは手遅れである場合も少なくありません。
「がん患者に危機感が乏しい」事は、笠原氏が指摘していましたが、私見ではがんに関わらず、全般的に命の危険に近づき、大事になるほど症状が軽く、患者も危機感に乏しいという印象があります。
逆に、生命の危機には全く関係のない精神疾患や喘息やアトピー、自律神経失調症、神経痛などの症状は非常に強く出ます。
また私の経験の中で、症状が非常に強く、対応が難しい疾患の一つに線維筋痛症があります。全身のあちらこちらの神経が痛むのですが、いったん施術をすると今度は別の場所が痛くなるなど、症状があちらこちらに動くのです。おそらく痛みを訴える場所に身体的な異常があるわけではないと推測できますが、痛みが尋常ではないので、患者の苦痛は想像を絶するものになります。(注3)
上記のような経験から、漠然と、(生命の危機という視点から)本当の意味で異常性が高い疾患ほど症状が出ない、わかりにくい、という認識がありました。(注4)
症状の考え方について調べてみると、1000年、2000年を超えて、西洋医学、東洋医学の区別なく、以下のように考えられてきました。(注5)
異常があるから症状が出る、また、症状は異常を知らせるもの
私自身は”異常があるから症状が出る”という考え方について、漠然とおかしいと感じてはいたものの、それ以上の追求はしていませんでした。
笠原氏の心理療法を勉強する前は、上述の通り私自身が症状の原因を一つ一つ精査する習慣が身についていなかったため、漠然と、"命に関わるという意味で、重大な異常ほど症状は出ない”と、不自然さを感じるのみに留まっていたのですが、(心理療法で)症状を一つ一つ精査する事を学んでから、”異常があるから症状がある”という医学の前提そのものが間違っているという思いが強くなってきました。
その一つの例をあげてみます。
「イタリアの登山家 ラインホルト・メスナーは、岩場から転落したたくさんの登山家の体験をまとめた著書を出版している。この著書は、さまざまな点で貴重である。(中略)メスナーは次のように述べる。
"事故に遭った登山者の一部はたしかに事故後登山をやめてしまう。しかしそれはごく一部である。この点について私自身の調査によると、大なり小なり事故のあった登山者で、その後山へ行くことを尻込みした人はわずかに2.4パーセントである。むろん残りの97.6パーセントのうち11パーセントが、事故体験を精神的に克服するまでに長い時間がかかったと告白している。しかし、この11パーセントがすべて非常に軽い事故だったことを考えると、重い事故よりも軽い事故のほうが精神的外傷が大きく、その体験も、大きい事故の場合より重いと結論していいだろう。…ただし断っておくが、私は事故または転落の重さを、その転落の軽重(例えば廃疾など)でいっているのではない。むしろ私は転落の重さを、その転落の結果死ぬ確率だけで判断しているのである。ショックの強さはこのように致死率を意識するかどうかにかかっており、しかもショックの強さは転落の重さに反比例するのである。死の可能性が大きければ大きいほど、それがわれわれの心性に及ぼす作用は軽い”(参考:『死の地帯』 ラインホルト・メスナー p97)一読しておわかりいただけるように、これは、常識とは真っ向から対立する大変重要なデータである。」
(以上、笠原敏雄『なぜあの人は懲りないのか 困らないのか』 p164~165)
メスナーの文章は、同じ命に関わる事柄ではあっても疾患そのものではなく、事故後の精神的な症状なので少し意味は違いますが、”重大な出来事だから症状が出るわけではない”というケースの傍証になり得るでしょう。
また心理療法の追試においても、大きな出来事が症状の原因となっていることもありますが、小さな出来事のほうが症状の原因になっていることの方がずっと多いという印象を持っています。
笠原氏は著書で主に心因性の症状にしか触れていませんが、私が実際に様々な質問をした限り、身体の症状についても、”(命に関わるという意味で)異常性の高さが症状の重さに繋がる”という常識的な考え方はしていませんでした。
症状が異常を知らせるためのものとは限らないとすれば、では一体何のために出ているのか?という疑問が出てきます。
パソコンを長時間やったから目が疲れた、変な姿勢を続けていたら腰が痛くなった、徹夜明けでボーッとする、怪我をしたから痛い、などのわかりやすい症状は身体の異常を知らせるサインとしての役割として考えられます。(注6)
しかし、表面的なわかりやすいものを除けば、症状は問題が表面的ではなくなるほど常識とは違う意味を持ちます。
「心因性の症状が目的とする"幸福否定"」(前回までのエントリを参照して下さい)であったり、命に関わる疾患に多い無症状、無自覚であったり、どちらかというと"本質を隠すため"に出ている事のほうが多い気がします。ケースごとに意味合いが違うので一つ一つ精査をしないといけないのですが、現実的には医療関係者も患者も、"怪我をした場所が痛い”の延長線上で身体の内部の症状、心因性の症状、寿命が関係する症状までをすべて一括りにしているような印象があります。
いずれにせよ、現在のところ私は以下のような前提に立って”症状”を捉え直さなければならないのではないか、と思っています。
- 症状は、"異常があるから症状がある”という単純なものではない。むしろ重要度が増すほど、本質を隠す手段として使われる。
- 身体の表面的な症状ほどわかりやすく、心因性の症状や身体の内部の症状になるほど、症状の意味や原因がわかりづらい。同じ症状でも、因果関係や目的が違うので、一つ一つの精査が必要。
- 異常があるのに症状がないという無症状、無自覚状態も"症状"として考えなければいけない。
"症状"を考えるという意味で、次回はストレス、トラウマ理論に立脚している現在の精神医療の問題点を簡単に紹介したいと思います。
注1:前回、"今後、笠原氏の症状の考察を踏まえて、「症状とは何か?」という根本的なことを私なりに考えてみたいと思っているのですが、まずその補完的なトピックとして、次回は「無意識の認識能力」という観点から分子生物学での研究を簡単に紹介したいと思います。"と書いたのですが、日進月歩の分野で、新たに調べなければいけない事も出てきたので、予定を変更して「症状とは何か?」に進みたいと思います。ご了承下さい。
注2:がん、心臓疾患、脳梗塞の後の後遺症、肺炎の施術を経験しています。
注3:末期がんの患者でも骨転移が起こっているケースでは強い痛みがでますが、場所も原因もはっきりしているので、東洋医学での施術は、繊維筋痛症の痛みに比べると、やりやすいという印象があります。
注4:同じ命に関わるものでも、肺炎などは症状が出ます。現在は少なくなりましたが、結核などの感染症でも症状が出るので、外部に原因があるものと、内部に原因があるものとでは根本的な違いがあるのかもしれません。
注5:この考え方が出てきたのは、ヒポクラテス( 紀元前460年頃 - 紀元前370年頃)の頃からで、それまでは、疾患は本人や家系の人物が、その土地の信仰などに背いた災いと考えられていたようです。 (参考:『近代医学の史的基盤・上』 川喜田愛郎著)
注6:同じパソコンの眼精疲労でも、ゲームより仕事で使用している時のほうが症状が強ければ、その差から"幸福否定"の心因性症状を疑います。