↑『三沢勝衛先生』、三沢先生記念文庫発起人会、1965。
三沢勝衛(1885‐1937)。カツエ。地理学者。長野県に生まれ、地元小中学校で教員をつとめるかたわら、信州の土地を対象に地理学の研究に着手する。エコロジー思想を先取りしたような独自の「風土論」を展開した。主著に『郷土地理の観方』(古今書院、1931)、『新地理教育論』(古今書院、1937)。
◎三沢勝衛略年譜
1885年 長野県にて誕生。1900年 上水内郡水内村小学校卒業。1902年 更級郡更府村小学校代用教員になる。ここから生涯かけての教員生活が始まる。農業科専科正教員検定試験に合格。1903年 尋常科准教員検定試験に合格。1904年 本科准教員検定試験に合格。1905年 尋常科正教員検定試験に合格。1907年 本科正教員検定試験に合格。1913年 石田りとと結婚。翌年、長男利勝誕生。1915年 検定試験に合格、師範学校、中学校、高等女学校地理科の免許状取得。1916年 妻りとが急死。5月、りとの妹とみと結婚。翌年、次男春郎誕生。1918年 松本商業学校教諭になる。1920年 諏訪中学校教諭になる。三男建郎誕生。1922年 最初の研究論文「諏訪製糸業の地理学的考察」を『地理教材研究』に発表。1923年 四男光則誕生。1926年 『渋崎図集』を自費出版する。1931年 『郷土地理の観方』(古今書院)。1937年 『新地理教育論』(古今書院)。8月18日、53歳で死去。1941年 『風土産業』(信濃教育会編、信濃毎日新聞社)。1979年 『三沢勝衛著作集』全三巻(みすず書房)。
・寺田寅彦と三沢勝衛
最近、寺田寅彦論を書いた。機会があれば、お読みいただきたいのだが、三沢勝衛のことを知ったのは寺田研究の過程で読んだ小林惟司『寺田寅彦の生涯』(東京図書、1977)の中での記述だった。東大教授でありながらもアカデミズムには馴染まない等身大の科学観と文学的感性を併せもったエッセイストの寺田。その彼に影響された在野研究者として、三沢は紹介されていた。
より詳細に、寺田寅彦から三沢勝衛への影響関係を考察した論文に佐藤明達「寺田寅彦と三沢勝衛」(『天界』、1980・1)がある。これによると、寺田は三沢の「諏訪の氷柱」(1923年)という論文を雑誌『気象集誌』に載せるよう手引きし、それ以上に、三沢論文の一部を英語に抄訳し、海外の雑誌に紹介する手続きさえしている。三沢は寺田の単なるファンではなかった。東大教授の寺田寅彦には、三沢勝衛という在野の弟子がいたのだ。
私がとりわけ興味深く感じたのは、三沢が「風土」と呼ぶ生態システムの本質を、大地や大気の表面の「接触」と捉えていた点だった。寺田寅彦論の中で私は、彼が本質的に偶然性に関する研究者であることを種々のエッセイから検証しているのだが、偶然性contingencyとは語源的にいえば接触=遭遇contactと相違ない。ならば三沢は私の読解した寺田寅彦の本質を読み取っていたのではないか。これが三沢の生涯を調べるきっかけだった。
伝記的事実で参照したのは三沢春郎「三沢勝衛略伝」(『三沢勝衛著作集』第一巻月報)、吉野正敏「三沢勝衛――その史的考察」(『地理』、1987・10)、宮坂広作『風土の教育力――三沢勝衛の遺産に学ぶ』(大明堂、1990)である。
・小学校教員時代
三沢は長野県山村の農家の長男として生れた。小中学校を終えた三沢は、小学校の教員を志望していたが、農家の跡を継がなければならなかった。その両立をはかって、17歳の青年は父親の反対を押し切り、《一人前の百姓の仕事だけは必ず果たす》という約束のもと、百姓仕事と並行して村の小学校の補助代用教員をつとめることになった。
結果、その小学校教員時代は16年間続く。その期間中に、三沢は教員検定に着実に合格し続け、同じ試験を二度受けることはなかったという。
当然、絶え間ない試験勉強が続いた。俸給の三分の一は書籍代に消えた。最初は教育学や哲学に関する読書をこなしていたが、或る時から実学(自然科学)志向に転向した。転向の理由は不明だが、このあたりから地理学者の準備が始まった。
三沢は血の気が多く、郡長や校長とよく争った。その性格を懸念した友人は彼に文検を勧めた。文検とは、文部省主催の中等学校教員資格試験のことだ。小学校教員にとって、出世の登竜門だったが、同時にそれは狭き門でもあった。三沢はそのアドバイスに従い、地理科を受験、一発で無事合格した。その快挙のために、当時三沢は「試験王」と呼ばれたこともあったそうだ。
三沢の研究の基礎は、受験勉強のなかで育まれていったように見える。地理学へのきっかけも受験勉強が与えた。小学校教員時代、時間を大切にせよと説いていた三沢は、自身もその教えに忠実で、授業間の15分休憩は本にかじりつき、夏休みは一日15時間を試験勉強に当てた。受験勉強も意外と役立つ時もあるものだ。
・中学校教員時代
中学の免状を取得した三沢は、長野中学から招かれたものの、小学校の方に専念したいという理由で誘いを断っている。彼が中学校教員となるのは、1920年の諏訪中学校のときだ。初めて地理の専任になった。
そして、その地で行った度重なるフィールドワークの結果、最初の論文「諏訪製糸業の地理学的考察」を書き上げるに至る。
学校では「大八車」と渾名された。大八車とは、江戸時代によく用いられた荷物運搬用の木製人力荷車であるが、沢山の本を包んだ大風呂敷を抱えて、走るように歩く三沢の姿は、まるで「車」のように見えたのだ。勿論、早足なのは時間が惜しいからだ。
三沢は諏訪中学校に着任してから、太陽黒点の観測を始め、毎日30~40分の時間をかけ、それは10年以上も続いた。その観察報告は、中央気象台(藤原咲平)、京都帝国大学(山本一清)、朝鮮総監督府(米田源一)などの関係研究者に送られ、山本一清が介在することで、学会で公表され、データとして多くの天文学者が利用できるようになった。当時はまだ、天文台でも長期継続観測を行っていなかったため、そのデータは貴重なものだった。
しかしながら、その熱心さのために、1934年に三沢は左目を失明し、以後は観測を中止することを余儀なくされた。正に渾身の研究であった。
・教育と研究
三沢にとって教師生活と研究テーマとはいかなる関係にあったのか。先ずは三沢が教育に傾けた熱意を紹介しよう。
「社会と学校との両方面について、いろいろの体験を持つようになって見れば、私が地理教育者として、すなわち地理学的思想の普及者の一人として世に立つからには、もともとそこに社会とか学校とかいった、はっきりした、さながら別個のような二面があるのではない。もしあったとしても、それは一枚の紙の表裏に過ぎない。いま、私たちが預かっているそれらの児童や学生も、その多くはその農山村の、あるいは都市の、そこに実務者として、その開発に携わる人々なのである。したがって真の学校教育も、そこまでの見透しを持っての上の教育でなくてはならないということもよく判ってきた。要は地方の振興、その健全なる発達、文化の増進、その一途より以外に何ものもないのである」(『新地理教育論』=『三沢勝衛著作集』第二巻、7p)
三沢にとって地理学とは実学であり、決して机上の空論ではない。人々は地域の中で生まれ育ち、気づかぬうちに地域ごとの特色に浸かって生活するようになる。その地域性の特徴の把握は、その土地に住む人々の生活維持に直結する。
例えば、信州の鬼無里(キナサ)地方では、夏、大麻栽培が大きな地方産業となっているが、それを加工して麻糸を生み出すには、冬に一端冷温で凍結させ、日光で溶解させる操作が必要である。つまり、それはこの地方に訪れる大陸高気圧という地域的特徴と不可分な産業なのだ。
しかし、土地に対する無知はこのような特徴=制約を無視して、開発を進めてしまう。これに歯止めをかけるには、地理学的教育しかない。三沢にとってみれば、地理学の授業は研究対象の保存に直結する。教えを受けた子供たちは、やがて大人になり、社会の一員となる。そのとき、地理学的発想を身につけた知性は地域的特性を尊重しながら社会を構成していく。
学校と社会は対立しない。三沢にとって、地理学の教えとは、ある地域で生きる人間にとっての効率的な術であると同時に、現実に世の中を変えていく(また変えていかないようにする)社会運動でもあった。だからこそ、当然、教育と研究を切り離すことはできない。人と土地との接触、教育的視野も含めた包摂的な地理学、それこそが彼の研究テーマだったからだ。
三沢は生徒たちに《自分の頭で考えること》を促した。板書を生徒がしていると、そんなことは教科書にみな書いてある、という理由で怒ったそうだ。実際、彼の地理学の授業では教科書を殆ど用いなかった。問題を自主的に発見し自ら解決する力を養うこと、それが、三沢教育学の基本だった。
・インターフェイスを考える
三沢の教育論はとにかく熱い。というか、暑苦しい。熱血教師の見本のような男だ。
「由来教育というものは教えるのはなく学ばせるのである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではなく、手を曳いて川を渡らせるのである。〔中略〕したがって、地理学においても地理的考察力の訓練を重視するのである。すなわち地理的知見の開発だけではない。さらにその性格までも陶冶し、自律的に行動し得るようにまで指導する、過分に感情および意志に対してまでも深い交渉を持ち掛けて行くべきものである。要は魂と魂との接触でなくてはならないのである。否、共鳴でなくてはならないのである」(『新地理教育論』=『三沢勝衛著作集』第二巻、31‐32p)
学校の先生ごときに性格とか意志とか、ましてや「魂」に口出しされたくないよ! と思わないではないが、しかし、「接触」や「共鳴」という言葉からは、三沢の教育論と風土論とが地続きであったことが伺える。というのも、三沢にとって地理学の本質は、異なる複数領域のインターフェイス、その創発現象を考えることにあったからだ。
「地球の表面という概念の中には、地理学の方面からさらにそこにいろいろの内容を含ませて考えなくてはならない。すなわちそれは、その表面というのは単にそれが岩圏と水圏とでできているいわゆる大地の表面だけではなく、実はさらにその上を厚く掩っている気圏の底面をも考え、しかも正しくはこの両者の接触面を中心としてそれを地理学上での地球の表面と考えたい。〔中略〕これら両者の接触からなるその接触面は、等しく地球のとはいうもののさらにいっそう多種多様のものであるべきことも想像に難くはない。しかしその多種多様であるそれぞれの接触面も、それが単なる接触面というだけではなく、その広狭のいずれを問わず必ずそこに一つの中心を持ち、それが統一的完全体としての存在であることを注意しなくてはならない」(『郷土地理の観方』=『三沢勝衛著作集』第一巻、7p)
この地球表面のことを三沢は晩年「風土」と名付けることになるが、地理学は単に土のことだけを扱えばいいのではなく、地球上に生成してくる「多種多様なもの」の接触一般に関する学でなければならない。
複雑に展開する接触面が、差異を維持しつつも、全体としてみれば「統一的完全体」としての地球が現存する。ここにはホーリズム的なエコ・システム思想の先取りがある。また、和辻哲郎の『風土』が刊行されたのが1935年で、共鳴するようなその平行関係への興味は尽きない。
地球とは有機的全体である。であるからして、地理学者を目指すならば、細分化された専門領域を横断しなければならない。そして、その横断性は、教育を通じて社会を変えたり維持したりすること、「魂と魂との接触」さえも要求する。三沢の考える包摂的地理学は、実際の生活に寄り添うために、必然的に領域横断的=総合的な視野の獲得を命じる。
三沢の論文は土壌学・林学・農学など多分野からの知見を吸収している、と三沢に学び後に地理学者となった矢沢大二(1913‐1994)は指摘しているが(「三沢勝衛先生とわが国の地理学」、『三沢勝衛著作集』第一巻月報)、それはこの意味で当然だったのだ。中学校しか出ていないため英語が満足にできなかった三沢が、中学生にまじり英語の勉強をしていたのはその包括的な意識に由来しているだろう。
・先生のアドバンテージ
「このような三沢学の確立には、独学であり、中学の教師であり、諏訪に住んでいたという条件がプラスに働くはずはない。しかし、一方では、わが国の大学アカデミズムにそまらないでいられたという面をもった。例えば景観分析が日本で亜流化して行った傾向と無関係に、独自の方法を確立しえた。彼の方法のほうが、ヨーロッパの地域分析学の本質に近いものであったのは皮肉であった」(吉野正敏「三沢勝衛――その史的考察」、『地理』、38p)
吉野はこのように述べているが、加えて、中学教師としての彼のアドバンテージを考えてみるならば、教え子の存在は大きいかもしれない。三沢は53歳で胃ガンで他界し、早すぎる死を迎えたが、没後、様々な形で三沢の業績は編集され復刊されている。在野研究者であるにも関わらず、二度も著作集が出ていることは異例のことだ(1979年と2009年)。
それら手続きに協力したのが、彼が中学時代に教えていた地元の生徒たちだった。地域の雑誌で特集を組めば、やはり何人もの元生徒が回想記を書いている。三沢の教育学の成果は、研究成果そのものを伝達し、アーカイブする人材をも育てていた。
同じ信州の在野地理学者に八木貞助(1879‐1951)がいるが、彼もはやはり学校の先生だった。大学でなくとも、教育への情熱は、充実した研究生活(研究成果)に還ってくるのかもしれない。三沢は自分の研究成果を、寺田寅彦をはじめとした大学人に対し、積極的にプレゼンした。インターネットのある今日、その繋がりやすさは、一層の希望を在野研究者に与えているのかもしれない。
しかし、もちろん、希望的観測だけを強調しても仕方ない。そもそも今日の小中学校教員は、三沢のような自由度でもって授業を行えるのか。また、時間を極限的に節約したとはいえ、研究に着手できるほどの時間的(また精神的)余裕が今の教員に残されているのか。その点は甚だ疑問である。
三沢のような研究生活を可能にする教師の充実した環境は、今日(そしてこれから先)、段々と貧弱なものとなっていくのではないか。その時、いかにして研究の時間を稼ぎ出すか、研究と教育をどのように両立させるか。その問いは、三沢が直面しなかった現在進行形の難題であるように思われる。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。