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↑Philippe Ariès “Un Historien du dimanche”, Seil, 1981.

 フィリップ・アリエスPhilippe Ariès(1914‐1984)。フランスの歴史学者。家族、子供、死といったテーマを独特な視点から扱い、「近代」の特異性を歴史的に考察した。アナール学派を独自に受け継ぎ、「心性の歴史」を研究対象にした。主著に、『〈子供〉の誕生』(L'enfant et la vie familiale sous l'Ancien régime, 1960)、『死を前にした人間』(L'Homme devant la mort, 1977)、『図説 死の文化史』(Images de l'homme devant la mort, 1983)。その他多数。


◎フィリップ・アリエス略年譜

1914年 7月21日、フランスのブロワにて誕生。カトリックで王党派の家庭で、両親はクレオール。
1920年代 イエズス会会の学校で初めて教育を受ける。その後、ジャンソン=ド=サイイ国立高等中学へ。
1930年代 グルノーブル大学入学、その後、ソルボンヌ大学に転入。
1941年 アグレガシオンに失敗。
1943年 植民地熱帯植物機関(IFAC)・資料センターの課長となる。後に、熱帯植物研究機関(IRFA)の課長となって1978年まで務める。処女出版『フランスの諸地方における社会的伝統』(Les traditions sociales dans les pays de France)。
1947年 トゥールーズ出身のプリムローズと結婚。
1948年 『フランスの諸住民の歴史』(Histoire des populations françaises et de leurs attitudes devant la vie depuis le XVIII)。
1954年 『歴史の時間』(Le Temps de l'histoire)。
1960年 10年の研究成果『〈子供〉の誕生』(L'Enfant et la vie familiale sous l'Ancien Régime)を出版。多くの論争を経る。
1962年 『〈子供〉の誕生』が英訳される(Centuries of Childhood)。自国で名声を獲得するきっかけとなる。
1971年 アメリカ人の大学人オレスト・ラヌムに招待されて、「歴史と時間」についてのコンフェランスに参加。
1975年 『死と歴史』(Essais sur l’histoire de la mort en occident)。
1976年 アメリカのウィルソン・センターにて研究する。プリンストンにてコンフェランスに参加。
1977年 『死を前にした人間』。
1978年 社会科学高等研究院の准教授となる。
1981年 『日曜歴史家』(Un Historien du dimanche)。
1983年 『図説 死の文化史』。ベルリンにて「プライベート・ライフ」についてのセミネールを催す。妻、死去。
1984年 2月8日、トゥールーズにて死去。


 フィリップ・アリエスの名は、日本文学の領域ではきっと、『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信+杉山恵美子訳、みすず書房、1987)の著者として記憶されているだろう。というのも、近代文学研究にとってエポック・メーキングだった柄谷行人『日本近代文学の起源』内の「j児童の発見」の章が、実はアリエスのパクリだったのではないかという疑惑が囁かれたことがかつてあったからだ。要約的にいうと、どちらも、「子供」という認識のモードは近代に入って初めて出来上がったものでそれ以前には存在していなかった、という旨の話であったので、その疑惑は仕方なかった。

 柄谷は『起源』を書く時点ではアリエスなど読んでいないと、事あるごとにその疑惑を否定し、冤罪を訴えている。事の真偽は定かではないが、基本的にどうでもいいことなので、脇においておこう。

 ともかく、馴染みはあるし、「死」に関する研究でしばしば参考文献で目にする、だけれども、具体的にどんな学者なのか知らない。それが私の長い間のアリエス認識であり、彼が在野研究者であることを知って俄然興味が出てきたのは最近のことだ。

 しかし、といっても、実のところ、正直にいえばアリエスを在野研究者として紹介することに躊躇がないではない。彼は何だかんだで最終的には社会科学高等研究院の准教授となってしまうからだ。「在野研究のススメ」で取り扱ってきたような野良研究者たちに比べれば、アリエスは明らかに野良度が低い。

 けれども、その教授期間も10年に満たず、主著のほとんどが在野期間内に発表されているため、取り上げても決して悪くないだろう、と思い直してみた。

 引用は主としてミシェル・ウィノックとの対談を元にした自伝的作品日曜歴史家』(成瀬駒男訳、みすず書房、1985)からである。日曜歴史家historien dimancheとは、歴史専門家historien de métierと対をなし、例えば日曜画家や日曜大工のように、日曜日に暇なときに自分の歴史研究をする人を指している。


・不良のアクション・フランセーズ

 アリエスの在野生活を探る上で先ず確認しておかねばならないのは、彼が王党派の家庭で育ち、アクション・フランセーズ(以下、A・Fと略記)に参加した右翼青年だったということだ。A・Fとは、(ユダヤ軍人のドレフュスがスパイ容疑で疑われた冤罪事件である)1894年のドレフュス事件を契機に、反ドレフュスの論陣を張った国粋主義団体である。

 例えば、弟のジャックが生れる頃にアリエス一家はブロワからパリに移ったのだが、そこでのイエズス会の高等中学校(日本の高校に相当する)の入学は、A・Fの司祭が手筈を整えてくれた。その後、ジャンソン=ド=サイイ国立高等中学に入ったが、そこでアリエスは「アクション・フランセーズ高等中学同盟」に入り、右翼青年として働いた。

 基本的にアリエスは不良だった。イエズス会の学校よりも寛容だったことにつけこんで、彼は国立学校をサボりまくり、映画館に入りびたる。それが父親にバレると、学校が厭なら仕事をするように言いつけられる。しかし、不良青年が真面目に仕事をする筈がない。
 

「「勉強したくないっていうのかね。それならそれで結構。いいよ、もう勉強などすることはない。ただ、何かひとつ仕事を覚えなくては。チャンスをひとつあげよう。簿記をやってみるんだな。」こうして私はレ・ザンドリにある父が関係している一配電会社に送られた。私はある司祭長の家で寝起きすることになったのだが、彼はすばらしい人物で、酒倉に極上のワインをねかせていた。私がそこを去った時、その本数が少々減っていたことは確かなことである」(49p)
 


 確かなことである…じゃねーだろ!(笑)


・ソルボンヌ大学時代

 しかしながら、チャンスは一つだけではなかった。父親は通信講座に申し込み、アリエスは大学入学試験をパスすることになった。司祭長宅に篭って勉強したおかげか、アリエスは試験にパスし、専攻に関し父と揉めたものの、グルノーブル大学で一年間歴史学を学び、中世史教員資格を得て、それからソルボンヌ大学に移った。

 ソルボンヌ大学では歴史の勉強はもちろんのこと、まだ目新しかった社会史(のちに心性史と呼ばれるもの)、そして同じA・Fの学生たちとの交流のなかで、学びを深めていった。
 
 

「私たちには大学で頭角を現わしたいという欲求があり、それをかきたてるものは貪欲にのみこんだ。私はむろん、おもに歴史学の著作を読んだのだが、ここで言わねばならぬのは、当時の私たちには、今日あるような質の高い解説を提供するハンド・ブックや叢書がなかったということである。分厚い博士論文とか、博識の特殊研究書とか、学殖豊かな論文といった読みにくい参考文献を飲みくださねばならなかった。こうした勉強は免疫注射みたいなもので、私たちは少くとも一生読書に退屈しないだろう、と一人の友人が述懐した」(73‐74p)
 


 入門書がないために、専門的文書に免疫がついた。こうして、ソルボンヌのアリエスは旅行に出ることもなく、30年代末の学生のくせして人民戦線に何の関心ももたず、「いくつかの決定的な知的選択をすべき時ではなく、それらを準備するだけの時期」(79p)となった。その期間は1939年の9月、戦争召集されることで終わりを告げた。解除されたのは、一年後の1940年8月。アリエスは26歳になっていた。


・修道院のような図書館

 戦役を終え、パリに戻ったアリエスは教授資格試験の準備をし始める。A・Fの仲間も戦争で散り散りになってしまっていた。この時点ではまだ在野研究者としての自覚はなかったようだ。しかしその時期、つまり1940年から41年に及ぶ一年間が、「自己形成においては最も重要な期間」(86p)となった。

 彼は先ず国立図書館に入りびたる日々を過ごす。

 

「その一年は、修道院の中でのように国立図書館の中で生活した。たしかにソルボンヌでも幾つかの講義は行われていたが、殆ど秘密裏にであった。それで私は、その日々を、朝九時から夕方六時までは国立図書館で過すのだった。六時になると一人の守衛が、「皆さん、まもなく(そこで一息入れた)閉館です」と大声で叫んだものだ。一種独特のその声はまだ耳に残っている」(86p)
 


 「戦争と世界の騒音は国立図書館の門のところで立ち止まった」と、アリエスは言う。そして巨大なそのノイズキャンセラーのなかで「歴史が、以前恐らく予感はしていたが、今では目も眩まんばかりのある種の光を帯びて姿を現し」てきたのだった(86p)。

 歴史家の卵が出来上がった。けれども(猛勉強のおかげか、筆記試験の方は合格するものの)、教授資格試験の口述試験では失敗した。一応、筆記試験のみの合格者にもポスト請求の権利はあり、実際、アリエスはレンヌの国立高等中学を指定されたが、彼は自分が戦争に際する母親の不安などを考慮して、これを退けた。しかし、実際の動機は「自分の読書、思索、発見を続けたかった」(88p)のだとアリエスは回想する。

 ポストよりも自分の勉強。この選択がターニングポイントとなって、アリエスは知らず知らずのうちに在野研究者の道を歩み始める。
 

・熱帯果実の資料課長

 レンヌへと勤めなかった代わりにアリエスは一瞬だけ歴史教師をし、その後、ヴィシー政府が組織した植民地関連の研究所に入った。



「世界全体が騒然としている時に占領下のパリで隠遁生活をし、ヴィシー政府のフランスがその帝国を失いつつある時に海外事業に参加することを知ったら、人はけげんな顔をすることだろう。が、事実はそうなのだ」(92p)
 


 その研究所は、茶、ゴム、アブラヤシのような産物の増産に成功したイギリスやオランダの科学研究所をモデルに作られたものだった。アリエスは熱帯果実の研究所資料課長として働いた。このせいで、後年、大学の学者からはバナナ商人をしていたと誤解されることもあったそうだ。しかし、その仕事の主な内容は「書庫のコレクションを整え、索引カードを作製して保管し、刊行の準備をすること」(93p)だった。



「この仕事のことで、頭が一杯になることはなく、私は気ままに読書と思索を続けることができた。したがって、一九四七年結婚するまでは、家族への責任もなく、職業上の気苦労も、お金の心配もなく、一種の給費生の生活を送ったのだった」(93p)
 


 なぜこんな超絶ホワイトな世界にすんなり居着くことができたのかはまったく謎であるが、ともかくカネにも時間にも邪魔されないこの期間をアリエスは創造の時期と捉え、研究に熱を入れた。


・職業と研究

 この仕事は歴史学と何か関係があったのか。あるとすれば、もう少し後年になってからだ。つまり、1960年代末から資料が膨大になるにつれてコンピュータの使用とオートメーション化が検討され、アリエスはそれに際し、オートメ化された資料処理を猛勉強した。「それは私の視線を鍛え、好奇心を鍛えた」(150p)。

 しかし、アリエスにとって、それ以上に職業と研究がシンクロすることはなかった。実際、彼は自分の研究で一切コンピュータを使わなかった。アリエスにとってその職業は「食べるだけの目的でやっているといった腰かけ的なものではなかった」(150p)。
 
 

「難問を克服したり、新しい段階の下見をしたり、研修の仕上げをしたりするために、ふだんは歴史にあてられる閑暇を幾度もそれに捧げた。そうした折り歴史家としての研究を一時中断したのだが、別に後悔はしなかった。時間を無駄にしたといった感じはしなかった」(150p)
 


 アリエスは決して歴史学のために人生のすべてを捧げたわけではない。何かを犠牲にしたものこそが貴いという、(クリエイティブなものにまつわる)先入見は是正しなければならないかもしれない。


・処女出版で得たもの

 アリエスは最初期の仕事を「歴史試論〔エセー・イストワール〕」と呼ぶ。エッセーとは、モンテーニュが代表するように完璧に論証立てた体系化された文章というより、直観的に本質を書いていく短文タイプの文章スタイルを指すが、その時点でそのような呼称は一般には存在しなかった。「試論と歴史というこの二語は相容れないように見えたから」(95p)だ。

 学生時代に入門書に頼らず専門書ばかりを読んできたことは既に記したが、「その反動」から、「当時行われていたような大学での研究とはちょっと違うところを見せたい」と、「何か、短くて、手早くできることをしたい、ごっそり論証などしょいこむことなく、これぞ本質と思うことに真一文字に迫りたいと思った」らしい(94‐95p)。テーマとしては「地方」に決めた。学生時代には余りしなかった旅行にもよく出かけるようになった。

 その成果が、1943年の処女出版、『フランスの諸地方における社会的伝統』である。

 

「私が全くの無名人だったのに本の方はまずまず好評で、出版部数の少ないそれは、数か月で売り切れた。が、そうお手柄といったものでもなかった。車も娯楽もない、そしてまだテレビを持っていない一般大衆が、どんな読み物でもよく買ってくれるご時世だったから」(98p)
 

 この本がきっかけで、アリエスはダニエル・アレヴィと親しくなり、オルロージュ河岸通りのアレヴィ宅でのサロンの常連となった。ダニエル・アレヴィ(Daniel Halévy、1872‐1962)は、フランスの歴史学者であり、プルーストやバルビュスなどと親しく、カイエ・ヴェール叢書の編集者として、作家や批評家に大きな影響力を持っていた。

 ちなみに、アリエスの親友として、もう一人、『存在と所有』で著名な、哲学者ガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel、1889‐1973)がいたことは注記しておいていいだろう。金曜日にマルセル宅で開かれる討論会にアリエスはよく出入りしていた。


・アナール学派

 処女作にある三つの語は、アリエスが抱いていた関心を抽出したものだといえる。「伝統」は慣れ親しんだA・Fで培った伝統主義、「地方」は在野研究のテーマとして自分で見つけてきたもの、そして「社会」はアナール学派的な集団表象である。

 アナール学派とは、近代史家リュシアン・フェーヴル(1878-1956)と中世史家マルク・ブロック(1886-1944)により創始された、新しい歴史学の方法論をもった学者たちを指す。アナール学派は、素朴実証主義的な史料解釈に対し、社会学、人類学、心理学、地理学などの隣接領域の発想や手法を応用することを重んじた。

 とりわけ、アリエスはアナール学派にあった「心性の歴史」(=メンタリティの歴史。思考様式や感覚といった日常的なものを、文献以外の図像、遺物、伝承なども使って研究しようとする歴史認識の方法)の発想に惹かれた。伝統的歴史学では、もっぱら、社会の上層部分やエリートや大事件に眼を向けたが、この心性史の方では、大文字の権力から離れた一般大衆の方にもスポットライトを当てることができた。 

 アリエスはその心性を「集団表象」の意と解する。この言葉は元々、社会学者エミール・デュルケムの言葉だ。多くの人々がある対象について深層心理的に共有している共通のイメージのようなものだ。この発想は当然、在野の彼を一躍スターに押し上げた『〈子供〉の誕生』における、「子供」の集団表象へ関わってくる。アリエス自身による心性史の解説は『〈教育〉の誕生』(新評論、1983)に所収されている「心性史とは何か」が詳しい。


・地下の道を前進する

 アレヴィや他の友人の力を借りつつ、単著二冊目となる『フランスの諸住民の歴史』を、そして続いて『歴史の時間』を無事刊行した。といっても、この二冊は一度ポロン社に出版を頼んだけれど断られた経緯があるのだが。

 アリエスの仕事は歴史家たちから余り評価されなかった。『アナール』誌さえ、或いは右翼陣営からさえそうだった。けれども、反応がなかったわけではなかった。『フランスの諸住民の歴史』は『ル・モンド』紙で論評に取り上げられた。あるいは、その本は統計学の考え方を応用したこともあり、国立人口問題研究所の関心を引き、そこから出す出版物の協力を勧められもした。



「幾つかの小さなしぐさが、絶望してはいけないこと、私の本が地下の道を前進していることを教えてくれた。そしてそれらのしぐさは時として、とても遠くから、予期してもいなかったところからやってくるのだった。そうしたわけで私は、まだ共産党とたもとを分かつ前のアンリ・ルフェーブルから国立科学研究所での彼のゼミで話すように勧められた。確か、この機会が、私が学生として大学を去って以来、初めての大学との接触(!)だったと思う」(139p)
 


 アンリ・ルフェーブル(Henri Lefebvre, 1901‐1991)は、フランスの哲学者で、日常生活批判や都市社会学などで有名だが、彼も長年在野で活動してきた学者だった。ともかく、こうした予期できない出会いが、アリエスの前途を明るく照らした。



「当時のフランスでは、非大学人が大学に呼ばれるなどということは考えられなかった。大体、交通費の払い戻しにしても、大学と大学の間でのことしか想定されていなかった。出発点となる大学のない講演者などは、住所不定の浮浪者みたいなものだった」(141p)
 


 このような地道で小さな成功の影には彼の妻の存在があったことも忘れてはならない。「少くとも初めは、歴史学は私に何一つ、人から尊敬すら、もたらさなかった」にも関わらず、「一文にもならぬ仕事をする時間を、妻は私に残しておいてくれた」のだ(142p)。また、彼女は大学で美術史の勉強をしていた(ちなみに彼女もA・Fだった)。その縁は、アリエスに図像学への親和性を帯させた。最晩年の『図説 死の文化史』(福井憲彦訳、日本エディタースクール出版部 、1990)には、その感化の成果が十二分に活かされている。


・子供の研究以後

 『フランスの諸住民の歴史』を書きながら、アリエスは、時代ごとに子供に服を着せるやり方に差異があることを発見した。中世末から、子供に対する大人たちの眼差しが変容しているように見えた。この着眼点が出世作『〈子供〉の誕生』(原題は『アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』)に結実する。

 アメリカでこれが英訳されると多くの社会学者や心理学者から思わぬ好評を得た。フランスでは歴史家の方が好評だった。アナール学派の関心が社会経済史と人口史に関わるものから、心性史の方へシフトチェンジしたからだ。

 また、発言力をつけてきた中で、プロン社に働きかけて、まだ無名だったミシェル・フーコーの処女作『狂気の歴史』を刊行させたこともきちんと記しておかねばならない。アリエスがいなければ、私たちはもしかしたら『知の考古学』も『監獄の誕生』も読めなかったかもしれないのだ(アリエスは後年、フーコーを自分のゼミのゲストとして呼んでもいる)。

 それからアリエスは、「死」に関する集団表象へと研究テーマを移し、いくつかの著作を発表した。これも好評を得た。そのテーマはアリエスが死ぬまで続いたようにみえる。そして、1978年になると、アリエスは社会科学高等研究院の准教授として任命される。地道に続けてきた仕事が公に認められたのだ。

 

「大選帝候〔社会科学高等研究院の教授たち〕とその会長は、私を彼らの席に引き入れることによって、彼らの父親がすでに非常に高齢の頃、すでに三分の一世紀以前に、それに気付かずにつくった小さな庶子を認知したかったのだと私は想像する。彼らといえば、かれらは嫡出子の正規の道を行った。小さい庶子は彼相応の道、野道、ほとんど小道状の道を行った。しかし、小道は少しづつ幅を増し、遂には二本の道は、なんと、隣同士となり、接近するかに見え出した。二本の道が今日一本になるようにしてくださった人々に感謝したい」(『歴史家の歩み』、成瀬駒男+伊藤晃訳、法政大学出版局、1999、27p)
 


・観光客とブリコラージュ

 アリエスの在野歴史研究は、アカデミシャンたちにしばしば雑駁な印象を与えてきたようだ。それはアリエス自身自覚していた。しかし、彼はそれでも大学人ではできないような、「野道」、正に在「野」研究にオリジナリティを見出すことに成功した。



「私が歴史学の中に求めたのは、資料――それがどんなものであれ――といつまでも接触していることだった。そしてそれを几帳面に分析するのが好きだった。教授だったら、原典に注釈をつける道を選んだろう。〔中略〕私の最良の思い出は資料との最初の対話であったし、最悪の思い出は、小学校の作文と、作文による試験だった。そうした訳で依然として私は印象主義的研究法にこだわっている。それは見学者、観光客――どうしていけないことがあろう――の物の見方ということでもある。結局のところ私にとっては、この世界とその多様さの光景の方が、それに関して自分がすることを強いられている説明よりも大事なのである」(154p)
 


 既成のそれに囚われない資料選択、ここにはアナール学派から学んだものがある。世界の多様さの肯定、ここは職業と研究の両立によって身をもって示されている。

 「観光客の視点」を、「この世界において永遠のよそ者an eternel strangerであること、他の惑星からの訪問客であることが芸術家の証」というエリック・ホッファーの感動的な言葉と結び付けることは牽強付会が(あるいは、ロマンチシズムが)すぎるだろうか? しかし、少くとも共に自身の身辺にあった切実な問題から研究を出発していたことは共通している。

 それを、器用仕事、レヴィ=ストロースでお馴染みのブリコラージュbricolageと呼ぶべきかもしれない。エンジニアリングのように、全体像の設計や計画を立てないで身辺の寄せ集めからものを作っていく態度だ。アリエスはある文章で、bricolageの語源を遡って、砲丸が最初の着弾後に跳ね返るの意味を見出している。「跳ね返る」の語は、やがて「回り道」の意味となった。18世紀のフランス語には、「あちこちに行く人bricoleur」という言葉があったそうだ(『歴史家の歩み』、254p)。

 学校をサボって映画館に入りびたる右翼青年は、跳ねっ返って、アナール学派を独自に引き継ぐ特異な歴史家に変身した。ブリコラージュはブリコルールbricoleurを作り、そしてまた、ブリコルールによって作られる。人生とはそもそもブリコラージュだ。アリエスの「野道」は彼を立派なブリコルールにさせたのである。