今月、パブーに、寺田寅彦論である「ディテール・プロバビリティ・モンタージュ――寺田寅彦の偶然論諸相――」を書いた。目次は、序「偶然性の寺田寅彦」、第一章「ポアンカレ翻訳」、第二章「ディテール・万物相関・方則」、第三章「ディテール・不思議・拡散」、第四章「プロバビリティ・統計的単義性・再起性」、第五章「モンタージュ・紙・顔」、第六章「モンタージュ・映画・連句」、第七章「寺田寅彦・中河与一・九鬼周造」。寺田の随筆のもつ領域横断性の根本動機に、偶然性研究の存在を求めた。文字数は20705字、原稿用紙に直すと52枚程。……卒論かっ!
・『明暗』に名案?
寺田寅彦というと、漱石『三四郎』の野々宮宗八、『吾輩は猫である』の寒月のモデルということ「だけ」で有名かもしれない。なるほど、確かに私が一番最初に興味を持ったのも寺田寅彦と夏目漱石という師弟カップリングだったが、しかしテクストは異なる。私が注目したのは漱石未完の大作『明暗』である。
『明暗』のなかにこんな場面がある。ほとんど冒頭部分だ。長いので、流して読んでくれていい。
「彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。/「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」/彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て篏めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後に引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚えがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。/「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」」(『明暗』第二章)
津田の元を去った元カノの清子。何故彼女は自身から逃げていったのか、そして何故自分はお延と結婚したのか、津田が自問する場面である。実は、この「ポアンカレー」のエピソードを翻訳していたのが、何を隠そう、寺田寅彦だったのだ。寺田は大正四年の『東洋学芸雑誌』に二回分ポアンカレの主著である『科学と方法』の中から抄訳して「事実の選択」(二月)と「偶然」(七月)を載せており、ナポレオン云々の話は「偶然」に書かれているものだ。
『明暗』における、このような寺田寅彦の影響は既に有光隆司「偶然」から「夢」へ――『夢十夜』変奏としての『明暗』」(『国文学解釈と鑑賞』2001・03)や小山慶太「『明暗』とポアンカレの「偶然」」(『漱石研究』2005)などで指摘されている。偶然性の問題の示唆を弟子の寺田が師匠の漱石に与えたというのが、興味深い。
加えて、私がここ最近偶然論の観点で執着している国木田独歩。彼の『独歩集』を漱石に読むよう勧めたのも実はやはり寺田寅彦なのである。漱石が「独歩氏の作に低回趣味あり」の中で書いている。師匠の寺田と弟子の漱石という逆転したカップリングの繋ぎ目には謎めいた偶然性概念があったのではないか。そんな妄想をとっかかりに本論を書いてみたわけである。果たして、それがうまくいっているかどうかは読者諸賢に委ねるほかない。今年一押し、年忘れ論文である。
・連句でニコニコ
「普通の詩歌の相次ぐ二句は結局一つの有機的なものの部分であり、個体としての存在価値をもたないものであるが、連句の二句は、明白に二つの立派な独立な個体であって、しかもその二つの個体自身の別々の価値のみならず、むしろ個体と個体との接触によって生ずる「界面現象」といったものが最も重要な価値をもつになるのである」(「連句雑俎」)
その切断面は切断を折込みつつ続く連続性の新たな接続面でもある。複雑に連絡し相互緊張するインターフェイスは、絶対矛盾的自己同一的な話(西田幾多郎)とも無関係でない。連句という統一体は、下位分解すればそれぞれ独立した複数の俳句で出来上がっており、その協奏が単なる合計以上の文芸的集合体を立ち上げるのだ。「共同制作」の産物たる連句は作者の頭脳に支配されない、いわば作者とは(寺田の言葉を借りれば)「集合人」なのだ。ここに本論では偶然性の契機を読んだ。
『アーキテクチャの生態系』でお馴染み(最近はAKB御用学者として?)の濱野智史は、「ニコニコ動画の生成力」(『思想地図』vol.2、2008・12)の中で、2000年代以降、創造性(クリエイティヴィティ)の発想が「作者」から「環境」に移行してきていると指摘している。その力(濱野のいう「生成力」)を遺憾なく発揮しているのが二次創作ならぬ「N次創作」が繰り広げられるニコニコ動画という動画投稿サイトだ。
なるほど、ニコ動では人気コンテンツのシミュラークルがサムネイルになって立ち並び、画面を横断するコメントやタグ戦争によって複数人によるコラボレーションが絶えず行われ、バルト的「作者の死」以降の創作スタイルに気軽にアクセスすることができる。しかし、翻ってみれば、連句は、オリジナルな句に「集合人」によって応答に応答を重ねていく内に、創作がコミュニケーションと等価と化し、オリジナルが不断にアレンジされていく(変な言い方だが)元祖ポストモダン芸術だったのではないか。
これは逆にもいえる。つまり、モダンの時代に覇権を握っていた「作者」なる概念が、どれほど奇妙なものだったのか、ということだ。プレモダンも、ポストモダンも、特別「作者」など必要としないのだとしたら、何故モダンは「作者」なんて妙ちくりんな代物をわざわざでっちあげたのだろうか。興味深い問いである。
・ネトウヨテラトラ
さて、寺田礼讃も一通り済んだところで、作家崇拝を(集団人なのだから当然)回避するために解毒剤として、寺田のどうにも顔を覆いたくなるような姿も紹介しておこう。
「実際支那人は何処か黴菌のやうな処がある。貴説を読んでいるうちに此感じを深くした。今の処此の黴菌は未だ日本の領土(プロパー)を侵す兆候はないが、此れは矢張り遠い将来に対しては考へて見るべきではないかと思はれる。日本は朝鮮を手に入れると同時に朝鮮菌を背負込んで苦しんで居るのだから、万万一日本が支那のポピュレーションの多数を隷属させたが最後日本は滅亡する事請合ひだといふ気がする」(安倍能成宛書簡、昭4・11・24)
こ、これは…、という感じだが、もしかしたら師匠漱石の(「満州ところどころ」に代表される)差別感を踏襲したのかもしれない。いやぁ、弟子感に溢れているよ。しかし、少し面白いのは、彼は「支那」人は「黴菌」なのだから、余り近づくべきではないと、侵略行為そのものを否定しているという点だ。日本は近代化を手伝ってやったんだ、とか今の右派みたいなことは言わない。奴らは「黴菌」、だから「隷属」させたら汚いじゃん、エンガチョ、である。右も左も好きも嫌いも、世の中いろんなタイプがあるのだと教えてくれて感慨深い。
さて、今年ももうすぐ終わりである。考えてみれば、今年は念願だった単著『小林多喜二と埴谷雄高』も出したし、マガジン航に2本も原稿を書いたし、ブートルーの翻訳も完成したし、論文も5本書いたし、なかなかに仕事した年だった。来年は、(もし生きているのならば)今年の問題意識を深化して、二冊目の単著の序章を書き始めるくらいには前進したいが、…果たして。
では、良いお年を!
では、良いお年を!