凡例  

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(9~12p)である。 
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


 2:具体と抽象

 イメージは力や、効果性や、帰結がなかったりする実在ではない。瞑想や、内省のなかでは、意識が認めたイメージは有害にならず、ただ弱い《観念-運動的な力pouvoir idéo-moteur》を有するだけだ。ただし、危険や欲求や欲望や恐れに満ちた、強度を帯びる行動や強制的状況のなかでは、イメージは力をもって介入してくる。貴族の気高さは戦闘や騒動の渦中にある人々にどれほどの威信を与えるのか、とモンテーニュとパスカルは書き留めている。感覚的刺激と自発的反応の強度は、正義や武力等のイメージに動力を供給する。それら具体的アスペクトが知覚されたものではなく単に連想されたものだったとしてもそうだ。マルブランシュは強い想像力=イメージ化の力を捨て去った。というのも、イメージが人生の振る舞いにどれくらい介入するのか知っていたからだ。スピノザは人間の従属を描き出し、イメージの提供する不適切な認識のなかにその従属の原理の一つを見出した(特に、羨望の分析を見よ)。自由への歩みは原因の秩序に従った認識から始まるのだ。

 切迫した状況や不安な状況、或いはより一般的に感情的に昂ぶった状況のなかで、イメージは生き生きした厄介な起伏を獲得し、決断力を導く。このイメージは知覚ではなく純粋な具体物に対応していない。というのも、〔不安な状況のなかで〕選択するためには、自分が既に拘束されていると感じるのではなく、現実的なものといくらか距離をとらねばならないからだ。イメージの半-具体性は予測のアスペクト(計画、未来の視界)、それと認知した内容(現実的なもの、見聞きしたいくつかの細部の表象)で成り立っている。認知した内容は最終的に情動的感情的な内容となる。イメージは生のサンプルéchantillonであるが、そのサンプルの欠落的部分的アスペクトによりイメージは部分的に抽象性を残す。職業の選択において、検討された職業それぞれのイメージを与える生のサンプルは予測の要素を有している(旅立ちに向かうワクワク感、権力の追求…)。この要素は認知的与件であり、宙吊りになっているアクティヴィティーの発端である(その職業を実際やっている人の例示、モデル)。最終的には情動的反響となる(安心や純粋さの印象…)。この意味において、イメージは、抽象と具体の間を媒介するように、運動的、認知的、情動的負荷をいくつかの特色に統合する。これによりイメージは選択が許される。何故ならばそれぞれのイメージには重み、ある種の力があり、だからイメージを測定したり比較したりすることができるのだが、概念や知覚はそうではないのだ。イメージを操作するこの統合のおかげで、手段と目的が同質になることができる。概念的思考は切り離してしまう。我々が町に行こうとするとき、アクティヴィティーが発揮されねばならない列車や自動車のイメージを慮りつつ、そのアクティヴィティーを選択することができる。

 抽象的思考はとりわけて一個のブレーキであり、拒否の手段だ。思考は不都合や、未来遠方の結果を計算し描き出す。知覚は状況によって引き起こされる。実際にはイメージだけが〔状況に対して〕調整的だ。というのも、イメージは含みのあるprégnantes状況から主体を解き放つため十分に抽象的でありつつも、幸運なら忠実であろうサンプルを提供するために十分に具体的でもあるからだ。選択にとってよりよい状況というのは、抽象的であると共に具体的でもある、実際には混淆しているイメージの形成と利用を許してくれるような状況、対象に対して中間的な距離を含む状況のことを言う。子供はそのような中間的距離で生活している人々(教師、仲間)の半-具体的表象を自分のために構成する。そのような表象は振る舞いが組織化されるなかで決定的な役割を演じる。単に日常的具体的な諸現実は規範的になることさえもできない。その国にはいかなる預言者もいない。

 ネーションと民族の間にある関係において、英語で《ステレオタイプ》(ユネスコの調査を見よ)と名づけられるクリシェや紋切型のイメージが介入してくる。平時において、半-具体的なこの表象はかなりカリカチュアされた知覚の具合の静的様式を表現する。例えば、フランス人はドイツでは《地理を知らないキザなムシュー》であるし、フランス人にとってイギリス人はチェックの服を着た歯のでかい旅行客である。逆にイギリス人にとって、フランス人は、カエルとカタツムリを食べる奴らだ。実際、これらイメージは社会的距離感の様々な度合いを表現している。不潔の想像的度合いは遠さに対応しており、近くの人々(例えばアメリカ人からみたイギリス人)は清潔なものとみなされる。アメリカ合衆国のある地域では、フランス人は《ドン・ジュアン》として知覚される。戦争や相克状態の場合になると、このイメージの情動-感情的負荷が優勢となる。容貌の輪郭や服装の細部が衆目を集める個人ならば誰でも、敵のイメージが注がれる。そいつはスパイや秘密警察であるというわけだ。フォコネFauconnetは、著作『責任』のなかで、責任の割り振りが(特に原始的な社会のなかで)いかに実行されるのかを示した。著者は被告人の《良くない顔色》や、沈黙の様子、《彼のもつ綽名》により有害が推定で追加されたのが記されている中世のテクストも引用している。ある種のケースにおいて、初めは単に心的で主観的なイメージであったのに、最終的に紋切型となったイメージが現実の態度や社会的客観的状態として存在させてしまう、累積的因果性の現象が生じる。これはグンナー・ミュルダールGunnar Myrdalがアメリカ合衆国の黒人についての重要な調査のなかで示していたことだ。白人雇主や下宿屋主人の偏見からすれば、美点に関しても欠点に関しても、あれやこれやの黒人の振る舞い(例えば職業)は事前に決定されている。そして今度は対象的に黒人たちの職業の選択、子供の教育のある種のモード、教養のある種の水準、一定の理想を事前に決定するようになる。知覚によって、イメージが現実的なものへ、現実的なものがイメージへ向かう。この循環的交換のいくつかのサイクルの終端で、原初的イメージは自己現実化し、そして自己安定のための十分な正当化を社会的状態のなかにみつける。累積的因果性のこの現象は様々なマイノリティーの紋切型の設定において重要な役割を果たす。例えば、西洋キリスト教国のユダヤ人、家父長的文化のなかの女性、今日では我々の社会における若者である。大人の恐れや憎しみは子供を偏狭な役割の中に不動化させ、大人が自ら作った《若さのイメージ》を具現化する。セネカが強く意識まで続いた古代奴隷のイメージが数世紀のあいだ安定化したのも、累積的因果性の現象によるものだ。



【訳注】


マルブランシュ―― 「すべての事物を神において見る」というフレーズでよく知られる、フランスの哲学者(1638‐1715)。真の認識は、想像力ではなく観念に依拠すべきと主張した。
スピノザ――神即自然を主張し、キリスト教神学者から無神論と攻撃されたオランダの哲学者(1632-1677)。主著『エチカ』において、想像力は偽の認識を与えると考え、真の認識ために想像力を克服することを説いた。
フォコネ――ポール・フォコネPaul Fauconnetはデュルケム派のフランスの社会学者(1874‐1938)。主著は『責任』(La Responsabilité, 1928)
グンナー・ミュルダール――フリードリヒ・ハイエクと共にアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞を受賞したスウェーデンの経済学者(1898-1987)。著書に『貨幣的平衡論』(1939)、『人口問題と社会政策』(1940)、『福祉国家を越えて』(1960)、『アジアのドラマ』(1968)など多数。