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吉川陽一郎
【UNTITLED(仮)】2013
そこまでは おぼえている MISSING A PART OF THE MOMENT 池田拓馬、濵田路子、吉田理沙】展における会期中トークイベントと共に行われた吉川陽一郎のパフォーマンス。吉川曰く、「ダイジェスト版」。(撮影:東間 嶺)
 


◆ 2013.10.19の午後遅く、「3331 Arts Chiyoda」内の一室にある「アキバタマビ21」で行われていた展覧会の、ごく淡々と進んだトークイベント終盤、そろそろ誰もが話すことも質問も無くなったと思われる空気が醸されたタイミングで、「それじゃあ、まあ…」みたいな微妙な間の悪さを伴ってはじまった美術作家、吉川陽一郎の、吉川曰く「ダイジェスト版」だという一連の奇妙な「パフォーマンス(一つを除いて、名前はまだないという)」は、その奇妙さでもって聴衆たちと展示作家を戸惑わせ、戸惑いが変換された結果としての小さな笑いの渦を会場に巻き起こしていた。


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 ◆ 「パフォーマンス」を、場に暗黙で共有される「約束(集まった人々は、「約束」を「アート」の「文脈」だと理解している)」を排して冷徹にカメラで見つめ、切り取るとき、まずもってそれは、じき還暦を迎えようかと思しき年齢の、正業というか、就いている職業のカテゴリーが推察しにくい風貌をした男性が、「約束」から離れた目にはまるで用途が推察できない不思議な工作物を身につけたり、振り回したり、被ったり、被ったまま辺りをウロウロと歩いたりすることだった。「約束」の世界では、その行為を「パフォーマンス」と呼ぶのだった。
 

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◆ 「パフォーマンス」に使われた工作物は、いまや風化著しいオウム真理教の騒乱で有名になったあの「ヘッドギア」に取り付けられた、いくつか丸く穴のあいたひし形のお面(のようなもの)であったり、唯一「殴られる男」と題の付いた、傘の柄をベルト状の輪と心棒状に加工し、しなりの利いた針金状の金属に取り付けたものであったり(これを腰に装着して歩きながら、揺れ動く柄から身躱す)、バケツとパイプと工業用ネジやハンドルを組み合わせた装着物(のようなもの)であったりする(ハンドルを回すと、被っているバケツも回る)。


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「殴られる男」

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◆ 上のような記述では、「パフォーマンス」を目撃したことがない人にとっては、「なにそれ」状態というか、殆ど正気の沙汰とは思われないだろうが、けれども、実際のところ、「約束」を前提としなければ、そのようにしか書くことはできないのであって、「約束」世界の外から見た吉川(さん。以下全て同じ)の「パフォーマンス」や、そこで使用される工作物は、なんというか、根本敬などが「畸人」と評している、常人とは異なった意味体系を生きる人々が行う「示威」や「発明品」のように見えたりもするのだ。


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◆ ぼくが吉川さんの「パフォーマンス」を見たのは、これで(確か)三回目だかくらいになる。かれは現在、母校であるところの多摩美術大学の彫刻科で指導する非常勤教員であり、それ以前に、さまざまな素材を使用する極めてユニークな立体作品(吉川さんにとっての「彫刻」)の作家として、日本の「現代美術」と呼ばれる世界に固有名として登録されている。

◆ デュシャン式に、「美術とは美術館で展示されているものである」との立場に拠るならば、「美術」という文脈、「約束」が成立している場で、「パフォーマンス」と称され固有名登録者によって行われる振る舞いは当然ながら「美術」であるわけだけれども、正直なところ、ぼくには吉川さんの「パフォーマンス」が一体どういうものなのか、何を表現し、観者にどのような働きかけをしたいのがかさっぱり分からないし、従ってどのように「美術」として「評価」すべきなのかを判断することもできないでいる。


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◆ 「分からない」し「判断が付かない」のだけれども、しかし吉川さんの「パフォーマンス」(と同時に「彫刻」からも)を見るとき、ぼくの中に、辞書なら「勇気」とか「希望」とでも載っていそうな類の感情や意識が芽生えるのをはっきり自覚するのだった。還暦という「アラウンド老人」の領域にさしかかり、妻子ある大学教員という立派な社会内ポジションも獲得している男性が、にも関わらず、オウム的ヘッドギアの付いたお面を身につけ、改造バケツを被って人前でフラフラと歩き、画用紙や傘の柄やその他なんやかんやと格闘するさまを大真面目に披露しては、「パフォーマンス」だと主張して「美術」を成立させている。

◆ これはとても驚異的であり、素晴らしいことだと思う。繰り返すが、還暦とは「アラウンドシックスティー」ではなく「老人」なのであり、国によっては男性の平均寿命にさしかかり、日本においても殆どの企業から解雇放逐され、家族からは本人の受け取る年金や残すであろう遺産の総額、死ぬまでに要する介護保険料を冷徹に計算されてしまうお年頃なのだ。近頃、「なんちゃって審査」がようやくバッシングされている日展なら、審査料と称してなんだかんだ貰ってふんぞり返って恥じない審査員に昇格しようかという時期でもある。

◆ しかし吉川さんは鋭く知性的でありつつふんぞり返らぬ誠実な教師であり、人前でバケツを被って歩き回り、フラフープ遊びのように傘の柄を避け、毎日毎日、鶴川の奥地にある鳥小屋を改造したアトリエで巨大な抽象立体を作っては、旺盛に展示を行っている。やはり驚異的だし、素晴らしいとしか言いようがない。



「全くカネにならないこんなことを何十年もずっとやっていて、止める気なんてなくて、死ぬまでやるつもりだっていう、まあ、要するに馬鹿ですよ馬鹿、大馬鹿者ですよ」
 


以前、吉川さんは個展の際にそんなふうに言っていたのだけれど、本当に本当の「死」に向かうまで「大馬鹿者」であり続けられる知性と意志の力を維持するのは並大抵のことではなくて、殆どの人間は普通に脱落してゆき、驚異的な「大馬鹿者」に対して、「なんだあいつは」とか、「いつまでやってる?」などと嘲ったり、「残念な人だよね」とか言って存在を完全に無視したりする。しかし、「勝利者」が誰なのかは、明らかだ。

◆ できる自信はまったく無いし、バケツを被ることもないが、ゆくゆくはぼくも吉川さんのごとき「アラウンド老人」になりたいと熱望しているので、かれが生きる「大馬鹿」の行く末をしっかり見届けたいと思っているのだった。(了)


※ パフォーマンスの風景はFlickrでも公開中
http://www.flickr.com/photos/108767864@N04/sets/72157637701067615/