凡例 

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(7~9p)である。
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


 A:対象と主体、具体と抽象、過去と未来の間を媒介する現実感としてのイメージ

 1:対象と主体

 想像力という語は《諸能力の心理学》へと赴かせる。しかし、これは貴重だ。なぜなら、その心理学の前提にはイメージを形成するアクティヴィティーの表現、イメージを操る機能の現存が想定されている。それに反し、《想像力=イメージ化》という用語は人を騙す。というのも、イメージはイメージを生む主体に結びつけられ、主体に比べイメージの原初的な外部性の仮説は排除されやすいからだ。同時代の思想家における今日的な態度は、イメージを、サルトルの表現に従えば《イメージ形成的意識conscience imageante》に送り返えそうとするものだ。〔意識や主体がイメージの主人である、という訳だ〕。しかしどうして自由意志に反抗するイメージという性格を幻想として排除するのだろうか? 主体の意志に指導されるがままであることを拒む性格、固有の力に従ってイメージ自体が自己表出する性格をどうして排除するのだろうか? 家の秩序を乱しに来た招かれざる闖入者のように意識に住み着いているかもしれないのに?

 イメージの独立性と対象性のアスペクトに古代ギリシア・ローマ人はぶつかっていた。ホメロスは、『オデュッセイア』の第六巻で、ナウシカのベッドの枕元に陣取って空想を思い描く。つまりアテナが若い王女の前に現われ、衣服を川で洗うように仕向ける。その川は遭難したユリシーズ〔オデュッセウス〕が上陸する川だ。彼に命を吹き込むことになる夢の姿をした空想は、単なる主観的な出来事と我々が名づけるだろうものではない。その力、意図、現実感の源は明らかに主体にあるわけではなく、逆にそれらが主体に到来して主体につきまとっている。主体に満ちるイメージなるものは見せかけだ。イメージは主体よりももっと強くあることができるし、警告や能力制限によって主体の運命を変えることもできる。イメージは単に平凡で日常的な現実的なるものである以上に、前兆の役目を預かる。日常的な現実の秩序以上に、イメージは暴露し、表明し、言明する。イメージとは対象的なものと主体的なものとの中途にあるà mi-chemin、《霊的なものnumineux》である。亡霊や幽霊を信じることとは、おそらく《霊的なもの》との関係の薄まった面影なのだ。けれどもイメージは翻訳され、イメージの相対的外部性のそのアスペクトに具体化される。あらゆる強力なイメージはある程度は亡霊的な力に恵まれている。というのも、亡霊が外壁を通り抜けて訪ねてくるといわれるように、イメージは対象が表象化した世界と眼の前の状況の世界に自らを過剰に押し付けることse surimposerができるからだ。

 降霊術の儀式(「ネキュイア」)、消失したものをイメージで表象したもの、一時的な置き換えとしての「ロードスの巨像」、表象しているもののように敬われてきた立像、これらを知覚することで霊的な世界の密度は更に強くなる。しかしながら古代哲学者の最も合理主義的な者は、イメージの外在性というその性格を否定するのではなく物理的原因によって説明しようと試みていた。ルクレティウス(『物の本質について』第四巻)は、数多くのイメージが物理的原因によって自然に空気のなかでどれくらい形成されるのかを説明した(巨人や高山に似た蒸気や雲)。かつて存在していた対象が発散した模像simulacresは保存され、気まぐれなコースで偶然の赴くまま相互に結合する。蜘蛛の巣や金箔が、一方と他方とがくっつき合うことで、ケンタウロスや、ケルベロスや、スキュラを生むようなものだ。ケンタウロスは馬に由来する模像と人間に由来する別の模像がくっつき合うことで生じている。これら模像は、弱々しく古ぼけているが、夜の静寂のなかで、強い刺激を受け入れない魂を揺さぶることができる。精神の視覚visionは眼のそれと同じようなものだ。夢を生み出す模像は、現実存在しているものの、その出自となった存在はもう消え去ってしまっている。夢が間違っているのはアクチュアルな生を模像が表象する対象に帰しているということだけだ。我々が夢の人物が身動きすると信じるのは、それは人物がアクチュアルに生きているからなのではなく(四巻、767‐776)、漸進的に豊かに変化する挙動、つまり運動の印象を復元したものを表象する膨大な数の継起的模像を受け取っているからだ。この説明は全体的に、対象的objectiveで客観主義的objectivisteだ。イメージの主体と比べた際の相対的独立性と外在性の役割が尊重されている。主体性=主観性subjectivitéの領野に、イメージの叙述が押し付けられてくるのは、17世紀以降のことに過ぎない

 事実、イメージは概念と同じように透き通っていない。イメージは思考のアクティヴィティーほどに柔軟に従おうとしない。イメージを統治するには間接的なやり方しかない。きちんと組織化された国家の中の移民人口のように、イメージはある不透明度を維持する。意志、生理的欲望、運動をある程度含みつつ、イメージは思考する存在〔人間〕のなかでほとんど第二の有機体のようにして現われる。寄生者なのか補助者なのか。イメージはある時に主体に住みつき、また別の時になるとその主体を離れていく第二のモナドのようなものだ。イメージは、人称の単一性に対抗して、二重人格の芽として存在するが、問題を解決すべきときにはイメージは暗黙の知と力の蓄えを提供してもくれる。イメージによって、心的な生命は社会的な何物かを抱くことになる。何故ならば、イメージが生成するにあたり、安定的になるか流動的になるかの、グループ分けgroupementが存在するからだ。主体的であると同時に対象的なイメージのこの性格は、実際、イメージを有する準-有機体quasi-organismeの地位に翻訳できると仮定できる。主体に住み着き主体のなかで発達していくイメージは、統一化され意識化されたアクティヴィティーに比べて相対的独立性をもっているのだ。



【訳注】
 
イメージ形成的意識conscience imageante――サルトルが『想像力』(1936)や『想像力の問題』(1940)などの著作で考察した問題。サルトルは、イメージとは外的事物がそのまま意識に写されたものだとする伝統的な考え方を批判した。対自存在(意識)と即自存在(事物)は異なる。しかも意識は志向性(~についての意識)をもつ。サルトルは、イメージは事物ではなく、意識対象へ向かう志向的構造であると説く。
『オデュッセイア』の第六巻――カリュプソの島から脱出したオデュッセウスは、再び難破して、海辺に漂着する。同刻、護り神のアテナはアルキノオス王の娘のナウシカに向かって夢の中でオデュッセウスを助けよという暗示を与える。
ネキュイア――『オデュッセイア』第11歌。オデュッセウスがジブラルタル海峡を越えて冥界に行き、母やトロイア戦争で死んだ兵士の幽霊、そして、預言者テイレシアスの霊に出会う。
ロドスの巨像――ロドス島にある、太陽神ヘリオスをかたどった彫像(コロッソス)。ディアドコイ戦争にてデメトリオスを退けたロドスがその記念に作らせた。
物の本質について』第四巻――アリストテレスやピタゴラスが目から発射する何かが対象にぶつかるために物体の視覚が可能になると考えたのに対し、ルクレティウスは物体の方が薄い膜状の物質(模像)を発散させているから、それで目が刺激され、物体の視覚が可能になると考えた。脱皮のように物の表皮から模像が剥がれて、四方八方に飛び出すのだ。
モナド――それ以上分けることのできない延長をもたない単純な実体。ライプニッツによれば、モナド同士は相互に関係せず独立している(モナドには窓がない)。