凡例 

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録 Imagination et Invention  (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(3~6p)である。
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


 この講義はひとつの理論を提示している。公になされた既存研究や論争に題材を提供してきた心的イメージの諸々のアスペクトについての理論である。心的イメージのアスペクトは様々な種類の現実感に対応してはいないものの、発達プロセスに従う唯一のアクティヴィティーの諸段階に対応している。
 
 心的イメージは主体的生物の内部で相対的に独立している下位集合sous-ensembleのようなものだ。誕生するにあたって、イメージは運動的傾向の、そして対象の経験の長期的な予測を束ねたものだ。有機体と環境との間で相互に作用していくと、イメージは偶発的incidentsな信号を受容するシステムとなりつつ、知覚-運動的アクティヴィティーが漸進的なモードで発揮されるようになる。最終的には、主体は改めて対象から切り離される。そして認知が供給されることで豊かになり、経験の情動-感情的反響を統合したイメージが象徴となる。飽和状態に向かう、内部で組織化された象徴の宇宙は、より広く拡張されて作動するシステムの発明inventionを浮かび上がらせることができる。加えて、その発明により共働作用的両立可能性compatibilité synergiqueのモードで全イメージ以上の統合が可能になる。イメージ生成の〔予測、知覚、想起に続く〕四つ目のフェイズであるところの、発明を経ると、対象遭遇を新たに予測することでイメージのサイクルが再開される。その対象は発明が産んだものでもよい。
 
 このイメージのサイクル理論に従えば、再産出された想像力と発明は切り離された現実でもなければ対立する諸項でもなく、発生の唯一のプロセスの継起的フェイズなのだ。これは生命の世界が私たちに提示する発生の別のプロセスにおけるその推移と比較可能なものだ(系統発生と個体発生)。
 
 このイメージのサイクル理論が出会う主要な困難は二つの源泉に由来する。

 第一の源泉。イメージというひとつの語は様々な現実間が繋がってなくとも、その現実に適用されているようにみえる。何が言いたいかといえば、《象徴》、《知覚》、《欲望》……といったケースに応じているということだ。実際、問題なのは全ての心的アクティヴィティーを発生中のイメージに還元させることではなく、描き出すこと、つまり予測が、知覚-運動的関係に入り、最後には想起souvenir、そのあと発明になるなか、主体を産む局所的なアクティヴィティーと信号の真の発生器が存在することを描き出すことである。発生器は予測すること、次に受けとること、最後には行動のなかで環境からきた偶発的な信号を《リサイクルすること》に役立つ。諸能力の心理学こそ、概念的な柵を創出するものだ。何故なら能力とは支配的な課題の後で定義されるからだ。予測すること、知覚すること、想起すること。知覚、記憶、想像力が時間の三つの契機に対応している。イメージの特徴は、イメージが内生的endogèneで局所的なアクティヴィティーであるということだがしかしアクティヴィティーは(知覚する)対象の現存と同じように、経験以前の予測としても存在するし、経験以後の象徴-想起としても存在する。想起に挟まれてた想起はどれも、イメージではない。

 第二の源泉。イメージという語は一般的には意識しうる心的な内容を指すように理解されている。ここでの主要な困難は、人間主体にとって、イメージのこのような意識の出現は、部分的には、つまり予測の状況のなかや、特に象徴-想起の状況のなかでも、いくつかのケースで、実際に可能であるということだ。しかしどうやってもどんな場合でさえ我々は局所的アクティヴィティーのすべての現実感を使い果たして意識された最良のものだけを証明するだろう。逆に想定しうるのは、局所的アクティヴィティーの意識されたアスペクトとは、切れ目ない横糸に結ばれる例外的でさえある出現のケースであるということだ。つまり準備され終ったアスペクトは、それを支える土台に結ばれている。キノコが可視的な一部分にすぎないのと一緒だ。それはずっと持続的で、またずっと本質的で、ずっと普遍的でもある菌糸体によって支えられている。キノコが、地面から出てきたその可視的な一部分を生むのではない。依然としてキノコはキノコを増殖させず、キノコの作用は環境に対して力をもたいないのだ。

 最後に、専門用語の重要さは混乱を避けるのに必要な明解さに求められる。例えば、記号と象徴の間の連関にある混乱だ。記号とは、指示された現実に関連し、その現実に付け加えをする、追加的な用語だ。黒板は現実存在し、それを指し示す言葉がなくてもそれ自体で完璧なものだ。慣例的な制度によって、任意になりえてしまう名称の正しさに関連する『クラチュロス』の問いは脇に置きたい。あの問いは内在的な類似や、記号の構造と名づけのおわった物の構造の間のアナロジーに基礎をもち、これにより記号は数字に、つまり物の定型表現になるだろう。反対に、象徴は、象徴化したものを伴って分析的な関係を維持する。つまり象徴は対で進む。象徴は偶発的な線に従って分割された最初の全体の断片fragmentだ。補完的しあう二つの象徴の接近によって、原初の単一性が再構成される。それぞれの象徴はもう片方の象徴に向かっている。そしてその補完性による再統一で意味を獲得するのだ。最初、象徴とは切断によって細分化された単一対象の二つの断片だった。石を砕いてする歓待に関する儀式のようなものだ。それぞれの家族は受け取った断片を子孫のために保存し伝達する。また持ち合わせた際、もう片方の断片に空所がなければ関係は認証される。鍵と錠との間に存在する関係はこのような種類のものだ。錠なき鍵、或いは鍵なき錠、これらは完璧な現実とはいえない。現実はそれらの再統一によって意味を獲得する。完璧な両性具有のもつ原初的単一性を再構成するかのように、プラトンは男女の対の関係をこのように解釈する(『饗宴』の神話)。強い意味もある、原初的primitifというこの意味は、象徴という言葉が結集の基準を意味する時に見出される。その結集が一集合に属する断片全ての認証を認めるのだ。「ニカイア信条Symbole des Apotre」や「使徒信条Symbole de Nicée」は人間が複数であっても心的な一致を実現し、異端を追い払う信仰表明だ。
 
 イメージの発生の研究において我々は象徴をイメージ-想起と名づける。これによって主体と状況との間に強度ある交換が生じる。行為に、状況に、精一杯参加した主体は、自分自身の何物かをその現実に込める。その代わりに状況の現実の断片として申し分ないほどの強度をもつイメージが保存される。そしてイメージの再活性化がある程度できるようになる。戦闘の想起、大きな危機の想起、或いはまた住み慣れた家のひとつの想起。象徴とはノスタルジックで、応えになるものが位置づけられている環境に向かっていく。これが意味するのは、原初的な単一性の再構成への傾向である。イメージ-象徴は対象の物質性から援助を借りれる。《思い出=想起souvenir》は、戦場からもたらされる金属製の断片、残骸、形見でしかないだろう(部分が全体に価する)。それは全体にアクセスするためのモードなのだ。イメージは思い出を喚起させる。そのようにして、イメージ-想起により具体化した象徴的対象の価値が理解できる。在郷軍人のための旗のようなものだ。実際に象徴的対象は、象徴であるところの心的イメージ-想起からその意味を引き出す。加えて事実上、象徴、即ち全体に値し全体と交流する部分としての対象の断片は、魔術的作用に役立つアーチvoultsの土台である。単なる髪の一房、人が使った衣服の切れ端、これらはその現実の断片であり、遠く離れていても、象徴的関係の仲介を通じて、人に対して働きかけることができるようになる。補助的な物質化がなかったとしても、心的なイメージはアーチとして使用することもできる。象徴は決して「音声の風flatus vocis」ではない。象徴は暗黙の実在論を前提にしているのだ。
 
 この序言が講義の象徴となることを目指す。


【訳註】

『クラチュロス』――『クラチュロス』はプラトンの著作。そこでは、記号表現と記号内容との間に何らかの関連付けがあるのではないかと探究されている。
『饗宴』の神話――『饗宴』はエロスをテーマにした著作。人間は元々二人で一人だったが(男男、男女、女女)、傲慢さ故、神が互いを引き離し、それ以降、男も女も自分の半身を探し求めるようになったという神話。
ニカイア信条Symbole des Apotre――父と子は「同質」などを謳う、キリスト教信条のひとつ。
使徒信条Symbole de Nicée――三位一体などを謳う、キリスト教信条のひとつ。
音声の風flatus vocis――スコラ哲学において「普遍は存在するか」という問いをめぐって実在論と唯名論の立場の間で争われた、中世の普遍論争の発端となった言葉。ロスケリヌスは、「普遍は単なる音声の風にすぎない」と言って、普遍概念の実在性を否定した。つまり唯名論を宣言した。