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↑『昭和を駆けた考古学者原田大六 ――伊都国にロマンを求めた男 』、糸島市立伊都国歴史博物館、2010。

 原田大六(1917‐1985)。考古学者。日本一の大銅鏡が見つかった平原遺跡の発掘、調査、復元などを手がける。官学アカデミシャンに対する容赦ない攻撃から「ケンカ大六」の名で知られる。主著に『日本古墳文化――奴国王の環境』(東大出版会、1954)、『実在した神話――発掘された平原弥生古墳』(学生社、1966)、『邪馬台国論争』(三一書房、1969)、『日本国家の起源』(三一書房、1975)。その他多数。



◎ 原田大六略年譜

1917年 福岡県にて誕生。父の原田猪之助は建設塗料材商店主。大正六年誕生にちなみ大六と命名。
1931年 福岡県立糸島中学校の東洋史の授業で糸島の遺跡の重要性を聞き、感銘。考古学に熱中。
1935年 大学には進学せず上京し津上製作所に就職。ゲージラッピング工となる。
1938年 徴兵。中国東北部に渡る。
1945年 年末復員し前原町波多江に住む。一時、中学校の教員をする。
1947年 中山平次郎を訪ね、師事。考古学の研究を本格的に始める。
1949年 福岡県糸島郡の石ヶ崎で支石墓を発見、発掘調査を行う。最初の公表文「考古学上から見た糸島の農耕文化」(『糸島新聞』)。
1950年 福岡市今津で長浜貝塚を発見、発掘調査に参加。
1954年 宗像郡の沖ノ島調査団の調査委員となり、沖ノ島第8号祭祀遺跡の発掘調査に従事。『糸島新聞』連載を元にした『日本古墳文化』(東京大学出版会)。
1956年 原田イトノと結婚。
1958年 報告書『沖ノ島』(宗像神社復興期成会)。
1963年 『磐井の叛乱』(河出書房新社)。
1965年 糸島郡前原町有田で平原弥生古墳を発見、調査団長として緊急調査。出土した鏡の復元を始める。
1966年 『実在した神話』(学生社)、ベストセラーに。
1969年 『邪馬台国論争』(三一書房)、ベストセラーに。
1970年 自宅に鉄筋コンクリートの平原遺跡出土復元室を建設。5月7日の『朝日新聞』に「70年代の100人のアウトサイダー」の一人に選ばれる。
1973年 『万葉集発掘――考古学による万葉集解説』(朝日新聞社)。梅原猛と対談(『西日本新聞』)。
1974年 松本清張とNHKテレビで対談。
1975年 『日本国家の起源』(三一書房)。
1978年 西日本文化賞受賞。
1980年 『銅鐸への挑戦』全5巻(六興出版)。
1985年 5月27日、死去
 


・「ケンカ上等!」
 


「ベストセラーの上にのっかり、多くの日本人を欺いている似非学者たちに、わたしは真正面から挑戦する。虚偽がまかり通る学問であってよかろう筈はないし、また巨大な虚構を発見しながら、沈黙していることは卑怯と考えるからである」(『邪馬台国論争』、5‐6p)
 


「独創性を圧殺し、自分らの作りあげた規格の中にはめこもうとばかりする官学派の考古学者や文献史学者達は、われわれ在野学徒の発現に対しては耳を傾けようとしない」(『新稿 磐井の叛乱』、三一書房、1973、5p)
 


「大学の教授達よ! 小づかいかせぎに、同じ講義を他の大学でやるのを止めよ。そんな時間があるのならそれを研究時間に当てよ。大事な時間を真のアルバイトに向け、そして著述せよ」(『銅鐸への挑戦』第一巻、六興出版、1980、33p)
 


 原田大六という男を紹介するとき、最初に思い浮かぶのは、官学(国立)アカデミズムに対する超攻撃的な対抗心だ。原田の攻撃力は半端ない。主著のひとつ『邪馬台国論争』では、東京大学の考古学者の実名を挙げ、その教授が書いた虚偽記載の件数をカウントした「虚偽頻度」なる表を設け、ある学者については「資料が不足しているのではなく、頭脳が欠如している」とまで書く。容赦なく敵は叩き潰す、それがいつしかあだ名された「ケンカ大六」の第一の特徴だ。

 原田は他の誰よりも「在野」という場所に誇りをもっていた。筋金入りの在野研究者。これほどまでにアンチ・アカデミズムを徹底した研究者は、本連載の中でも稀なものとなるだろう。

 そしてそのような孤立した研究者から見れば、大学の温室でぬくぬくと育てられ、相互批判の精神を忘れたヌルい学者など、集団主義と権威主義の成れの果てが行き着いた金魚の糞に等しかった。当然、粉砕せねばならない。加えて、そこには欺瞞的な戦後民主主義に対する苛立ちもあった。

 原田にとって先鋭的に意識されていたであろう在野という場所は、一体どのようなものだったのか。著書『実在した神話――発掘された平原弥生古墳』(学生社、1998)を用いて、その攻撃力の形成過程を辿ってみたい。


・考古学を学びたい


「安河内先生の腰巾着というのが、当時のわたしのニックネームであったが、昨日は東、今日は西、明日は南に、また北へと、糸島中学校を中心に、放課後や日曜を利用して遺物の採集はつづいた。一日八粁〔キロ〕ぐらいの行軍なら、いつものことで、手にズック袋を下げて歩きまわった。大きなカメ棺の破片、弥生式の高坏、今山石斧や、黒曜石の石鏃(矢じり)などを学校に集めた」(35‐36p)
 


 原田が考古学を意識するようになったのは随分と早い。原田少年15歳は、歴史を担当していた糸島中学校教諭の安河内隆から糸島の遺跡の重要性を聞き、安河内と共に中学周辺の考古学的調査を始める。しかし、考古学に熱をいれすぎたためか、学校の成績の方はふるわなかったようで、進学は諦め、働きながら勉強しようと上京する。

 けれども、学問を在野で志す原田の計画は、時代の荒波によってはなから挫折しかけていた。東京では金属研磨工となるが、それから数年後の原田21歳のとき、彼は徴兵されて、中国へ渡ることになる。そして、中国で敗戦を迎えた原田はもう既に29歳になっていた。他の敗戦体験と同じく、彼にとってもそれは自分の身の上に重くのしかかっていた。



「今までにたどってきた二十九年間の人生で、何をしてきたというのであろう。ああ何かしたい。何か世の中の役に立つようなことをしたいというのが、百八十度の転回を要求された「敗戦」という現実の中から生まれたわたしの叫び声であった」(37‐38p)
 


 原田は研磨工(ラッピング工)に何の愛着ももっていなかった。それは単なる「生きるための手段」(38p)だった。目的意識のない研磨工にはもう戻れない、が…。そんなことを考え、自失状態に陥っていた時分、偶然手にした日本の考古学の本を異国の地で貪るようになり、原田は初心を思い出すことになる。
 


「ゲージラッピング工が、生活のためであったというのも、考古学の研究をしたいためではなかったか。十八歳から二十歳までの、今でいう青少年期の念願は、考古学者になりたいという以外になかったはずである」(39p)
 


・勝手に考古学者宣言

 青春時代を無為にしてしまった男が、心機一転、全く新しい生活を始める。ここまでならば、定型的なまでによくある戦後的物語にすぎない。

 しかし、原田の決意が強烈だったのは、家族を始めとした親族に対し、考古学を志すことを宣言し、それ以後、一切働くのをやめてしまった、という点だ。親族の反応は「敗戦のショックで、てっきり頭にきたなと思われたのも無理もなかった。「へんちくりん」と笑い去る人にも一理はあった」(40p)、といった風だった。

 原田はそのような自分自身のことを、「八無斎」と喩えた。六無斎は、江戸時代後期の経世論家である林子平(ハヤシシヘイ、1738‐1793)の号である。林子平は寛政の三奇人が一人に数えられ、独自に軍事的研究を進めた人だが、号の由来は彼が詠んだ「親も無し妻無し子無し板木無し金も無けれど死にたくも無し」の六つの無しに由来している。原田は六無斎をアレンジしながら、加えて二つの無しを足している。



「①一坪の土地もない。②家もない。③金もない。④学歴もない。⑤資料もない。⑥書物もない。⑦妻もない。⑧職もない」(41p)
 


 要するに何もない訳だが、原田はそれでも(それだから?)初心貫徹を目指した。



「「ないないづくし」の八無斎であればあるほど、勇気は百倍しようではないか。砂をかじろうと、いつ倒れようと、自分の夢だけは捨てたくない。いや、夢はむしろ、いかなる障害でも乗り越えるだけの、暖かさをもって、わたしの前途を支配していてくれた」(41p)
 


・内助(というより外助)の功

 この決意から、教師をしていた姉の家に居候し、研究に着手していった。しかし、そんな中で、39歳のとき、たまたま同姓で小学校教諭をしていた原田イトノと結婚することで八無のうちひとつは消えた。それ以後は、イトノの稼ぎを当てにして研究生活を続けた。寄生生活である。原田の死後、イノトは次のように述べていたという。



「大六は“妻食主義”でした。教師の私が食わしたからではなく、妻の私を食って生きていた。私はよく大六夫人と言われましたが、本当は第六夫人。あの人にとって、考古学が第一夫人、私は六番目だった」(藤田中『面会謝絶だぁ――孤高の考古学者・原田大六』、西日本新聞社、2010、55p)
 


 しかし、それでもイトノは原田の最大の理解者だったことは確かだ。彼女は原田が死んだ後も退職金をはたいて報告書『平原弥生古墳』を自費出版している。この報告書刊行後、原田が見つけた平原遺跡の鏡等が国宝として認定された。「結婚相手は「嘘をつかない、自分より頭のいい人」と決めていたので〔中略〕何の問題もありませんでした」ということで、無職を始めとした七無はあまり関係なかったそうだ(『面会謝絶だぁ』、130p)。

 内助の功…というより外助の功が、原田の研究生活を支えた。ちなみに子供には恵まれなかった。


・師匠としての中山平次郎

 原田が研究に邁進できたのは、もう一人、師匠を得たことで専門家としての自信をもつことができたことが関係している。日本に帰還した翌年、原田は本を通じ、その学説に心酔していた中山平次郎(1871‐1956)に師事しようと、宅のある福岡市荒戸町を訪れた。中山は石器時代と古墳時代の間の「中間時代」を提唱した学者だ。今ではこの中間時代は弥生時代と呼ばれている。

 原田が有名な考古学者に師事しようとしたことは過去にもあり、その度に断られていたそうであるが、平山は彼を丁寧に招き入れ、入門を快諾した。それから9年間ほど、原田はみっちりと平山の個人授業を受けることになる。



「ずぶの素人であるわたしに、ジェスチュアも笑談もまじえて、鄭重に指導された。長い時は、一日に六時間以上に及び、九ヵ年の講義は、のべ三百時間にもおよんだであろう。わたしはその間一度も足を崩さなかった。板の間で、しびれる足にもまして、一言一句を聞きもらすまいとした」(42‐43p)
 


 原田が中山の門を敲いたとき、丁度中山にもまた転回のときが来ていた。戦前の中山は元々病理学者で医学博士の学位をもっていたが、居住地の九州北部に潜在する考古学的研究価値に魅せられ、考古学に転向した。しかし考古学界にはあまり歓迎されず、戦後になっても学会からはほとんど抹殺され、論文発表や報告の機会も邪魔されていた。そんな孤立無縁の状況のなか、遺稿覚悟で再び考古学を志す。原田が訪ねたのはそんな折りであった。

 原田が繰り返していたアカデミズム攻撃は、師匠である中山の遺恨を晴らそうとする側面が明らかに大きい。「孤城の主中山先生の番犬になり、その足ともなって遺跡に当り、発掘に従事しよう」(48p)と原田は決意していた。「ケンカ大六」の闘志の源泉のひとつはここに求められる。


・言論封殺するアカデミシャン

 しかし、アカデミズムに対する怒りの原因は、師匠の不遇だけではなかった。自分自身の著書の発表に関しても、アカデミズムから邪魔されたという経緯があったのだ。

 中山に教えを請うてから3年、33歳の原田は自分の研究成果を『日本国家の起源』の名の下に、原稿としてまとめた。それを岡山大の教授になる考古学者・和島誠一(1909-1971)に託したところ、原稿は明治大学教授の後藤守一(1888‐1960)に渡ったが、結局、一年近く無視された末、何の通知もなく返送された。後藤は中山の論文発表を邪魔した教授の一人だと伝えられている。

 『日本国家の起源』自体はそれから随分経った68歳の頃に改めて刊行されたが、原田はこの恨みを決して忘れなかった。客観的な真相は確定できないものの、上記の仕打ちの背後に原田はアカデミシャンらの陰謀を読み取ったのだ。



「中山博士の論文を戦前に妨害した後藤守一教授によって、門下生もまた妨害されるという循環を、和島氏が知って後藤教授にたのんだとしたら人が悪い。何もそうした引き廻したことをしなくても、和島氏自身で決着はつけられることであった。それを後藤守一氏も駄目だということにして、私の『日本国家の起源』を排斥する理由にしたとしか考えられない」(『日本国家の起源』上巻、三一書房、1975、3p)
 


 原田が陰謀を確信したのは、和島の著作『大昔の人の生活』(岩波書店、1958)に『日本国家の起源』で主張した学説の盗用があったことに由来する。それから12年経って、『日本国家の起源』の改稿を思い立ち、1962年4月、慶應義塾大学における日本考古学協会第二十八回総会で改稿の一部「考古学上における事象と物象」の発表を企てたところ、それもやはり和島と他二名の教授の談合によって中止された。

 原田はこのような言論封殺に当然激怒する。異論があることは構わないが、それは正面から議論を戦わせればいい。それ以後の論文上で行われることになる原田のアカデミシャンへの執拗とさえいえる罵倒は、つまりは同時に、自分自身がアカデミシャンから受けたかったものでもあるのだ。


・続く和島との因縁

 和島との因縁はまだまだある。原田は『日本国家の起源』出版を諦め、今度は地方新聞で連載していた「天皇の故郷」という文章をまとめ、1954年に『日本古墳文化』を東大出版会から刊行した。

 けれども、この著作も和島の妨害工作によって発売から二ヶ月で絶版の宣告を受ける。1975年に復刊した『日本古墳文化』はその辺の事情を詳しく説明している。


「和島氏「絶版にした」、私「なぜ」、和島氏「売れ過ぎるから」、私「売れたら何が悪い」、和島氏「あんな考えが世間に浸透しては困るというみんなの意見だ」、私「みんなとは誰と誰」、和島氏はそれには答えなかった」(『日本古墳文化』、三一書房、1975、1‐2p)
 


「二ヶ月で絶版、これは何ごとだ。進歩的学者こそは、戦前戦中において言論の弾圧を官憲から受けてきたという。その苦労者ならば言論の自由を守り学問の真理を喜んでもらえるものと信じていた。だが、それは私が迂闊であった。〔中略〕戦後の学問への弾圧は、国家とか官憲という形でなくて、敗戦をきっかけに、急に塗り変えた思想によって、陰険に行われた」(『日本古墳文化』、2p)
 


 原田は戦後の進歩的なアカデミシャンが、その看板とは裏腹に、陰険な仕方で言論を封殺する事実に失望すると同時に、更に広く、戦後民主主義的なものの欺瞞を痛感する。


・コトとモノの相互補完

 原田の仕事を乱暴に要約すると、日本書紀や古事記に描かれた数々の神話は妄想の産物ではなく、現実に起こった史実の神話的翻訳であるということだ。それを考古学的に発見した様々なモノを頼りに実証していく。この延長で後年には万葉集の研究などにも取りかかっている。

 いうなれば、考古学と文献史学のドッキングである。或いは、別のいい方をすれば、コト=事象(文献史学)とモノ=物象(考古学)の両輪で歴史を捉えていく態度、それが原田考古学の真髄である。

 『実在した神話』で第一に批判されている歴史学者の津田左右吉(1873‐1961)を筆頭に、戦後登場した歴史学的学説は戦前の皇国史観を反省するためか、史料批判的に神話的言説を取り扱った。つまり簡単にいうと、古事記など御伽話に過ぎないという批判だ。和島が原田の言説を圧殺しようとしたのも、戦前的な皇国史観に実証性を与えるような研究であったからだ、と原田は振り返っている。危険視された、というわけだ。

 専門家でないため、原田の言説の妥当性を正確に判断することは筆者にはできない。個人的な感想を記しておけば、時折、論証が完結されていないのではないか、と思う文面に出会うこともある。松本清張などは次のように述べ、原田の業績を半分肯定しつつも、もう半分、つまり原田歴史観は退けている。



「大六さんは発掘や考古学の領域では偉い業績があり、それにとどまっていればよいものを、歴史の不慣れな分野に手を出し、しかもそれに大六さんの面目を出そうと自負するのあまりか、首をかしげるようなことを言い出すようになった」(『図書』、1985・09、43p)
 


・文化財自主管理

 しかし、これで原田を単なるトンデモだとくくって、無視することはできない。解釈はともかく、彼にはともかくも「発掘や考古学」の業績があった。つまり実際にモノとして貴重な証拠を発掘しているのだ。この成果は否定できない。

 最大の成果は、1965年、平原遺跡で日本一の大銅鏡を見つけたことだろう。鏡の破片を見つけたことをきっかけに、国・県は年度末にも関わらず、緊急調査費30万円を計上、原田も私費30万円を投入して掘り進めた結果、割竹型木棺や鏡・剣・玉のセットなども出土した。

 原田はこのタイミングで雲隠れ事件を起こす。官学アカデミズムを敵視していた原田は、出土品を見せれば都市部の博物館や大学に収奪されるに違いないと警戒し、収蔵庫の鍵をもって、行方をくらましたのだ。

 遺物を私物化しているという批判に耐えながらも、原田はその延長線上で、自宅に自腹で復元室をこしらえた。私財を投じて発掘し、県が何もしないので私財で修復した、というのがその理屈で、返却する条件は出土した前原町にしかるべき施設を作り展示することだった。

 とにかく、原田はアカデミシャンの盗用と都市部中心主義を警戒していた。実際、高松塚古墳の出土品は、東京に持ち去られていた。文化財自主管理という荒業も、原田の経歴から考えると無理からぬことではあった。


・地域に結びついた研究



「学問というものは中学生などでならうのはほんの一部分です。だから私たちは、あらゆるものをもっています。その中でやっていくのだからまだまだわかっていないことばかりです。学問というものはわかってないからおもしろいのです。それは、まだまだ研究の余地があるということです。終ってしまえば研究することはないでしょう。あらゆる学問がまだわかっていません。生物であろうと、化学であろうと、物理であろうと、これから研究してわかっていないことを明らかにしていくのです。それが学者のつとめです。このつとめを果すことが喜びかもしれません」(『原田大六論』、中央公論事業出版、1976、321p)
 


 中学生の文集のインタビューで原田はこう答えている。「学者のつとめ」という言葉は重い。学者になることは、良き大学に入ったり良き大学を出たりすることと全く関係ない。「わかっていないこと」がある限り、学者は休むことなく働かねばならない。原田は研究に関しては勤勉で、考古学者には盆も正月もないとして、家の表札の下には「面会謝絶」の札がかかっていたそうだ。

 そんな原田からみれば、国立大学の教授は「学者のつとめ」を放棄して、あぐらをかいていた。

 反骨精神ならぬ軟骨精神しか持たぬ筆者からすると、原田のような攻撃的な性格は最も苦手とするタイプの人間だ。生きていても、きっとあまり一緒にいたくないだろう。もちろん、偉いセンセーのお話に対して、「こいつの研究、つまんねえな」と思うことはあるし、アカデミシャンが特別好きなわけではない。

 しかしアカデミズム/在野という分節は多く副次的なもので、集団的・権威的に堕落していくのは、人間一般が多くそうなっていくというだけのことにすぎない、のではないか。筆者の理解からすれば、大学人や在野が腐っているのではなく、人間が腐っているのだ。

 しかしそのことは措いても、原田の強烈な研究意欲と研究成果を伝えたいという執念には、どうやっても頭を下げざるをえない。彼の研究動機の根幹には、生まれ落ちた土地が学術的に高い価値をもっていたという、宿命性に転化した偶然性があるように思われる。

 平原遺跡の出土品に関しても、中央や国立大学ではなく地方で管理することに原田は執着した。それは象徴的にいえば、中学校時代の「腰巾着」の自分、戦後平山に師事した自分、その土地に生まれその土地と共に生きてきた自分を肯定することでもあった。原田にとって在野とは福岡という具体的な場所だったのだ。

 原田の飽くなきバイタリティを鑑みると、その代償として、執拗なまでに攻撃的な性格も八無斎も止むなし、という気がしてくるものだ。松本清張が書いた次の追悼に筆者も心の底から同意するものである。



「この前、亡くなった「在野」の考古学者原田大六さんは孤高というよりは、猛虎巌頭に立ち、学会俗衆を睥睨して咆哮するの概があり、人々その声を畏怖した。古代史に関しては「井上光貞に三百の虚言あり、上田正昭に五百の虚言あり、松本清張に七百の虚言あり」の如き類の怒号であった。大六さんによると、自己の意見と異なるものは、みな「虚言」となるようだ。されど私は原田大六さんを敬愛する。その姿勢に献杯する」(『図書』、1985・09、43p)
 



 ◎ 文中に引かなかった参考文献

・ 菊池誠一「考古学者 原田大六論」(1~8)、『学苑』、2004・03~2005・11。
 


※ 2013年11月11日追記。原田が発見した平原遺跡に関する動画「伊都国の王墓(国史跡曽根遺跡群 平原遺跡)」を見つけたので以下にYoutubeリンクしておく。
  


※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。